- 徳川家康が将軍上洛時の宿泊所として築いた城
- 国宝二の丸御殿が残る世界文化遺産
- 大政奉還の舞台となった徳川幕府終焉の城
二条城とは、京都府京都市中京区にある江戸時代初期の城である。慶長8年(1603)に徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として築いた。寛永3年(1626)には後水尾天皇の行幸に合わせて大改修が行われ、本丸・二の丸・天守を備えた城郭として整えられた。現在は国宝二の丸御殿、重要文化財の唐門・櫓・門、二の丸庭園、石垣、堀などが残り、世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産にもなっている。
二条城の特長
| 目的 |
京都御所の守護、将軍上洛時の宿泊所、徳川幕府の京都拠点 |
| 特長 |
国宝二の丸御殿、唐門、二の丸庭園、本丸御殿、石垣、水堀、世界文化遺産 |
| 他の城との違い |
・戦のための城というより、徳川将軍の権威を示す京都の城である
・国宝二の丸御殿が現存し、城郭御殿建築を体感できる
・徳川慶喜が大政奉還の意思を表明した、江戸幕府終焉の舞台である |
二条城の石垣・土塁
| 石垣 |
現存 |
| 土塁 |
一部あり |
| 種類 |
打込接、切込接、石垣、水堀、枡形、平城 |
| 石材 |
花崗岩など |
| 特長 |
二条城は、京都市街地に築かれた平城で、石垣と水堀をめぐらせた近世城郭である。外堀・内堀に面して石垣が残り、東大手門や北大手門、西門などの周辺では、門と石垣が一体となった防御構造を確認できる。二の丸御殿や唐門の華やかな印象が強い城だが、堀・石垣・枡形を備えた城郭としての構えも重要な見どころである。天守は寛延3年(1750)の落雷で焼失し、以後再建されていない。 |
二条城DATA
| 別称 |
元離宮二条城、二条御所 |
| 所在地 |
京都府京都市 |
| 築城 |
1603年 |
| 築城者 |
徳川家康 |
| 住所 |
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 |
| 電話番号 |
075-841-0096 |
| 開城時間 |
8時45分~16時。閉城は17時。二の丸御殿観覧受付は8時45分~16時10分。本丸御殿観覧受付は9時30分~16時 |
| 休城日 |
12月29日~12月31日 |
| 入城料 |
入城料・二の丸御殿観覧料・本丸御殿観覧料は区分により異なるため、公式情報の確認が必要 |
| 備考 |
二条城は世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産で、日本100名城にも選定されている。二の丸御殿は国宝、唐門・東大手門・東南隅櫓・二の丸庭園なども重要な文化財である。本丸御殿の観覧は事前予約制となっている。 |
- 二条城への交通アクセス
- 地下鉄東西線「二条城前」駅から徒歩約1分。
HISTORY
二条城について
二条城の歴史
| 1601年 |
徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を命じる |
| 1603年 |
二条城が完成し、徳川家康が初めて入城する |
| 1611年 |
徳川家康が二条城で豊臣秀頼と会見する |
| 1614年 |
大坂冬の陣・夏の陣に関する軍議が二条城内で行われる |
| 1624年 |
徳川秀忠により二条城の拡張工事、寛永の大改修が始まる |
| 1626年 |
本丸・二の丸・天守が完成し、現在の規模となる |
| 1626年 |
後水尾天皇が二条城へ行幸する |
| 1750年 |
落雷により五層の天守が焼失する |
| 1788年 |
天明の大火により本丸御殿などが焼失する |
| 1863年 |
14代将軍徳川家茂が入城する |
| 1867年 |
15代将軍徳川慶喜が二の丸御殿で大政奉還の意思を表明する |
| 1867年 |
大政奉還が朝廷に許可され、江戸幕府が終焉へ向かう |
| 1884年 |
二条城が二条離宮となる |
| 1939年 |
二条離宮が京都市へ下賜される |
| 1940年 |
一般公開が始まる |
| 1994年 |
世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産として登録される |
| 2006年 |
日本100名城に選定される |
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徳川幕府DATA
| 居城 |
江戸城 |
| 旧地域 |
江戸 |
| 石高 |
400万石 |
| 主な藩主 |
徳川家 |