日野富子(1/2)将軍の御台所と母親になった女性

日野富子

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人物記
名前
日野富子(1440年〜1496年)
出生地
京都府
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二条城

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室町時代、将軍の権力は大を追うごとに弱体化していき、幕臣が力を持つようになっていきました。その中で、日野富子は8代将軍・足利義政の正室として、9代将軍・足利義尚の母として大いに権力を奮います。「歴史上の三大悪女」と称される女性ですが、室町幕府を思っての行動も多く、決して悪女という言葉では片づけられない激動の生涯を送りました。今回は日野富子の生涯を紹介します。

日野家とは

藤原内麻呂の子の真夏の孫にあたる家宗が、弘仁13年(822)、伝領地である山城国宇治郡日野(京都市伏見区)に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀りました。

その後代々この薬師如来を信仰し、永承6年(1051年)、子孫の資業があらためて薬師堂を建立、別名を日野薬師といい、これがその後資業を始祖とする門流の氏寺となり、家名も「日野」と名乗るようになります。

承安3年(1173)に生まれた浄土真宗開祖の親鸞は、この一族の有範の子であると伝わっています。

日野流はいずれも代々儒学を家業として発展、院政期以降名家の家柄として定着します。極官はおおむね中納言でしたが、鎌倉時代に伏見天皇に重用された俊光がはじめて権大納言にまで昇り、日野流の嫡流の地位を確立。元亨2年(1324)に発覚した後醍醐天皇の武力倒幕計画である正中の変に積極的に参画したことで著名な資朝はこの俊光の子ですが、父が持明院統の重臣であったにもかかわらずあえて大覚寺統の傍流である後醍醐に仕えたために父から勘当されています。同様に後醍醐に仕え、元徳3年(1331)に発覚したさらなる倒幕計画元弘の乱に参画した俊基は日野流の庶流の出身です。

建武の新政が崩壊して足利尊氏と後醍醐天皇との対立が決定的となり軍事衝突に至ると、日野家出身の三宝院賢俊(俊光の子)は持明院統の光厳院から尊氏に対し新田義貞追討の院宣を下す仲介をしました。
このことを契機として日野家と足利家の結びつきが生じていきます。

正平の一統が破綻したあとに尊氏が擁立した後光厳天皇からも重用された日野家からは、公家の分家の創立が低調だったこの時代、裏松・烏丸・日野西など多くの分家が創出。室町幕府3代将軍足利義満の御台所だった業子及び康子(裏松家出身)以後、将軍の正室は日野流、特に裏松家から出すことが通例となり、4代義持の正室栄子、6代義教の正室宗子、8代義政の正室富子、9代義尚の正室祥雲院(実名不詳、勝光の娘)、11代義澄の正室阿子と6代にわたって将軍の御台所を輩出しています。一時、義政の継嗣に擬せられた義視の正室良子も勝光・富子の妹です。

誕生から結婚・応仁の乱勃発まで

日野富子は、永享12年(1440)に生まれました。父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)です。兄弟には兄の勝光、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)がいます。

室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたります。
富子も康正元年(1455)8月27日に16歳で8代将軍・足利義政の正室となり、長禄3年(1459)1月9日には第1子が生まれましたが、その日のうちに夭折。
その原因は、義政の乳母のである今参局が呪いを掛けたせいだとして、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放しています。

富子は寛正3年(1462)と翌4年(1463)に相次いで女子を産みますが、世継ぎとなる男子を産むことができませんでした。

寛正5年(1464)に夫の義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせて細川勝元を後見に将軍後継者とします。

しかし翌寛正6年(1465)に富子は後の9代将軍となる義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論みます。
義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立し、これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発することになります。

応仁の乱

富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側についていましたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付けて、米の投機も行うなど一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれています。

文明3年(1471)頃には室町亭(京都市上京区)に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まります。当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことが原因でしたが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷めきっていたと言われています。

文明5年(1473)に山名宗全、細川勝元が死去、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475)には小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移り住みます。

文明8年(1476)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となります。
「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達したといいます。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移りますが、文明13年(1481)になると義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまいました(その後長らく義政とは別居)。

文明9年(1477)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ちます。

応仁の乱を終わらせ、将軍の母として実権を握る

富子はどのようにして応仁の乱に決着をつけたのかというと、まず仲違いしていた足利義政と義視の兄弟を和解させました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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