明応の政変(1/2)戦国時代の幕開けとなったクーデター

明応の政変

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事件簿
事件名
明応の政変(1493年)
場所
京都府
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日本史の華ともいえる群雄割拠の戦国時代のきっかけとなった事件が、明応2年(1493年)4月に京都で起きた「明応の政変」です。室町幕府8代将軍・足利義政の正室・日野富子と細川政元が将軍をすげ替えたクーデターにより、幕府の権威は落ち、下剋上が広まり戦国時代が訪れました。今回はそんな時代のターニングポイントともいえる明応の政変について、背景とその影響などを解説していきます。

明応の政変の背景にある「応仁の乱」

明応の政変を解説する前に、押さえておきたいのが応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年間にわたって起こった「応仁の乱」です。この戦いはそもそも

  1. 幕府の要職(三管・四職)についていた細川勝元と山名宗全の権力争い
  2. 「三管」の畠山家や斯波家の権力争い
  3. 8代将軍・足利義政の後継者争い

主にこの3つ要因で起こりました。

このうち今回最も注目したいのが③の将軍家の後継者争いです。足利義政とその正室・日野富子の間には長い間跡継ぎの男子が育ちませんでした。そのため義政は出家していた弟の足利義視を還俗させて養子に迎え、自らの跡継ぎにします。後見には細川勝元がつきました。

ところがその後、日野富子が足利義尚を出産。自らの息子を将軍にしたい富子は義視を追い落とそうと根回しを続けます。このとき富子を助けたのが山名宗全でした。こうして山名宗全・足利義尚が率いる西軍と細川勝元・足利義視が率いる東軍が対立し、諸国の守護大名たちがそれぞれの軍勢を支持。大規模な内乱「応仁の乱」が発生します。

応仁の乱は当初東軍が有利でしたが、中国地方や北九州の一部を治める守護大名・大内政弘が西軍についたことで形勢は逆転します。そんななか東軍の総大将を務めていた足利義視が東軍から逃げ出して西軍に入り、事態は混迷していきます。文明5年(1473年)には山名宗全・細川勝元が相次いで死亡しますが、戦乱は続きます。

結局文明6年(1474年)に足利義政が隠居し、第9代将軍に足利義尚が着任。細川勝元の息子・細川政元と山名宗全の孫・山名政豊の間に和睦が締結されて戦は一段落します。その後、畠山義就と大内政弘は戦争の継続を叫びますが、日野富子の仲裁などにより文明8年(1476年)12月に西軍が解体され、応仁の乱は終結しました。

幕府の権威を再び!第一次六角征伐

応仁の乱により室町幕府の権威は低下しました。こうした厳しい状況のなかで即位した第9代将軍・足利義尚はなんとか幕府の権威を取り戻そうと努力していくことになります。

応仁の乱の後、幕府の力が失われていくなかで各地の守護大名や豪族たちは勢力を拡大していきました。その1人が近江国(現滋賀県)守護の六角高頼で、公家の荘園などを横領して力をつけていました。ところが長享元年(1487年)に高頼の公家・寺社領地の横領が発覚。幕府は高頼を討伐するために近江に遠征します(第一次六角征伐・鈎の陣)。

遠征は幕府の存在感を再び高め、威信の回復をねらう目的もあり、実施されました。ところが六角高頼は甲賀と協力してゲリラ戦を展開。戦いは長期化し、延徳元年(1489年)3月、足利義尚は病没します。享年25歳でした。このため幕府軍は六角征伐を取りやめます。

10代将軍決めで再び後継者争い

足利義尚には子供がいませんでした。このためまたもや後継者争いが勃発します。「三管」と呼ばれる将軍を補佐し、政務全体を管理する管領職を務める一家である細川家の当主・細川政元が推したのは、足利義政の異母兄で伊豆国(静岡県伊豆の国市)を中心に統治する堀越公方に就いていた足利政知の子、足利義澄でした。義澄は当時、京都・嵐山の天龍寺香厳院(京都市右京区)の禅僧で「清晃」と名乗っており、その後数度にわたり改名を繰り返しますが、ここでは混乱を避けるため義澄で表記を統一します。

一方、足利義政の正室・日野富子や畠山政長は足利義視の子供、足利義材(のちの義稙)を推挙します。義材の母は富子の妹・日野良子。つまり富子は甥を将軍の座につけようとしたのです。

延徳2年(1490年)1月、一時期政務を執り行っていた足利義政が病没すると、跡継ぎに決まったのは足利義材でした。将軍家に嫁いで約40年、芸術に逃げがちな義政に代わって政務を取り仕切った日野富子の力の方が細川政元よりも強かったわけです。

この決定に不満を持ったのが細川政元と伊勢貞宗でした。政元については、足利義材が「政務は政元に一任する」と約束して将軍に就任したため、一度は落ち着きますが、こんな約束が守られるわけはなく、政元は約束を破られて不満を募らせていきます。

伊勢貞宗は足利義政の側近・伊勢貞親の息子です。貞親は文正元年(1466年)夏の「文正の政変」の際、義政に義視の追放と抹殺を殺害するよう讒言していました。このため義視-義材ラインが権力を握ると冷遇される、もっといえば自らの身が危険になるかもしれません。そう考えた貞宗は不満を抱えながらも家督を息子に譲って隠居します。

こうして日野富子・足利義視・義材VS細川政元・足利義澄の対立が深まっていく…かと思いきや、富子の思わぬ行動が波紋を生むことになります。富子は同年4月、富子が義尚とともに住んでいた小川御所(京都市上京区)を義澄の住処として譲ることを決めます。義澄サイドへのフォローのつもりだったのかもしれませんが、前将軍の象徴ともいうべき屋敷を義澄に受け継がせるということは、現将軍の義材を軽視することにつながります。これに激怒した義視は富子に無断で小川御所を叩き壊し、土地を差し押さえました。

日野富子の行動の理由として、足利義視・義材が権力におごって暴走しないように牽制することを狙った、という説があります。自分の意のままにならなかったら義澄につく、という脅しの意味もあったのかもしれません。富子の考えははっきりしませんが、この件で富子と義視・義材との間には亀裂が生じました。そもそも義視と富子は応仁の乱で将軍の座を争った敵同士。こうして一枚岩だったはずの10代将軍サイドで内輪もめが起こります。7月5日、義材は10代将軍に就任。義視は大御所として政権を運営しますが、延徳3年(1491年)に病没しました。義視の死後も義材と富子の仲は回復せず、対立は続いていきます。

2度目の六角征伐と河内征伐

大御所として頼りにしてきた足利義視が死亡し、後ろ盾となっていたはずの日野富子との関係も悪化、加えて細川政元との対立も続く。そんななか足利義材がとった策は、9代将軍がなしえなかった六角征伐を成功させ、再び幕府の権威を高めることでした。政元は強硬に反対しますが2度目の六角征伐は実施され、六角高頼を伊勢へと追いやることができました。

成功裏に終わった六角征伐ですが、細川政元は「政権運営は任せる」との約束を反故にされ、足利義視の死後も自らの意見を聞き入れない義材に対し不満を強めます。さらに、2度目の六角征伐の際、代わりに派遣した家臣の安富元家が大敗したことで、義材は政元以外の大名を頼るようになっていきます。こうして政元はさらに義材に不満を募らせるという負のスパイラルに陥るわけです。

そんなことは気にしないのか、足利義材は畠山家の家督争いを収めるために河内(大阪府南東部)への出兵を決定します。畠山家で畠山持国の跡継ぎを巡り、息子の畠山義就と甥の畠山政長が争っており、それが応仁の乱の一因になっていました。応仁の乱後も争いは続いていましたが、義就は延徳3年(1491年)に病没したため、義就の息子・畠山基家(義豊)と政長が戦っていました。義材は政長と連携しており、政長の要請を受けて基家討伐に動き出したのです。

これに反対したのが細川政元でした。細川家は畠山家と同じ管領を輩出する三管領家であり、地盤も同じ畿内だったため、長年ライバル関係にありました。細川家にとっては畠山家が内乱で弱ることは好都合のため内乱を放置したかったのです。しかし、結局河内征伐は実施されました。

足利義材は2月15日に討伐軍を出発させ、24日には正覚寺(大阪市平野区)に本陣を置きます。そして畠山基家のいる高屋城(大阪府羽曳野市)を包囲し、順調に討伐を進めていきます。基家は敗北寸前まで追い詰められました。

こうした動きを見た細川政元は、畠山家の内乱を長引かせるため、討伐対象で自らも敵対していた畠山基家と手を組むという大胆な策をおこないます。さらに当時京では「足利義材は基家の討伐が終わった後に細川政元を討伐する」という噂が流れていたこともあり、政元は義材へのクーデターを決意。本拠地の京に義材がいない今が挙兵のチャンスと考え、義材に不満を抱いていた伊勢貞宗や、義材と対立していた日野富子を説得し、味方に引き入れます。

さらに細川政元は姉の洞松院を赤松政則に嫁がせ、政則を味方につけます。政則は第一次六角討伐の際の戦奉行でかなりの有力者。もともと赤松家は侍所長官を務める「四職」の一家でしたが、嘉吉元年(1441年)に起きた、第6代将軍足利義教暗殺事件(嘉吉の乱)の首謀者として幕府に討伐されていました。その後、赤松家は政元の父・細川勝元の助力により政界復帰を成し遂げており、細川家には多大なる恩を感じていたのです。

明応の政変①細川政元の挙兵

こうして着々とクーデターの準備を進めた細川政元は明応2年(1493年)4月22日の夜、ついに京で挙兵します。明応の政変の始まりです。政元はまず、自分が擁立した足利義澄を保護。そして河内にいる10代将軍・足利義材の関係者や姉妹のいる屋敷を次々と攻撃します。加えて義澄を11代将軍に擁立することを宣言し、4月28日には将軍に就任させました。

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執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。