三十三間堂京都府京都市

秋の三十三間堂1 秋の三十三間堂2 秋の三十三間堂3 秋の三十三間堂4
  • 長寛2年(1164)に後白河法皇の命により創建された蓮華王院の本堂
  • 内陣の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれる国宝建築
  • 本尊千手観音坐像、千体千手観音立像、風神・雷神像、二十八部衆像で知られる観音信仰の大伽藍

三十三間堂とは、京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある蓮華王院本堂の通称である。正式には蓮華王院といい、天台宗妙法院の境外仏堂として護持されている。長寛2年(1164)、後白河法皇の院政庁である法住寺殿の一画に、法皇の命を受けた平清盛が造進したことに始まる。建長元年(1249)の火災で創建時の堂宇は焼失したが、文永3年(1266)に現在の本堂が再建された。本堂は南北に長い細長い建物で、内陣の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれる。三十三という数は、観音菩薩が三十三の姿に変じて人々を救うという信仰とも結びついている。堂内中央には大仏師・湛慶作の千手観音坐像を安置し、その左右に千体の千手観音立像が整然と並ぶ。さらに前列には二十八部衆像と風神・雷神像が配され、仏像群全体が圧倒的な祈りの空間を形成している。桃山時代には豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営した際に保護を受け、境内南側には豊臣家ゆかりの南大門と太閤塀が残る。現在も、国宝本堂と国宝仏像群を伝える京都屈指の観音霊場として、多くの参拝者を迎えている。

三十三間堂の特長
目的 千手観音への信仰、後白河法皇による極楽往生祈願、観音菩薩の三十三応現への信仰、国家安泰、除災招福、諸願成就、国宝建築と国宝仏像群の保存継承、通し矢・大的大会による弓道文化の継承
特長 三十三間堂、蓮華王院、本堂、後白河法皇、法住寺殿、平清盛、後嵯峨上皇、湛慶、千手観音坐像、千体千手観音立像、十一面千手千眼観世音菩薩、風神・雷神像、二十八部衆像、通し矢、大的大会、春桃会、太閤塀、南大門、豊臣秀吉、妙法院、京都国立博物館、東山七条
他の寺院との違い ・正式には蓮華王院本堂であり、三十三間堂は内陣の柱間が三十三あることに由来する通称である
・約120mの長大な本堂に、千手観音坐像と千体千手観音立像が並ぶ圧倒的な仏像空間を持つ
・堂内の千手観音坐像、千体千手観音立像、風神・雷神像、二十八部衆像が国宝に指定されている
・鎌倉時代の仏師集団による大規模な造像事業を今に伝える、日本彫刻史上でも重要な寺院である
・江戸時代には本堂西縁で「通し矢」が行われ、現在も大的大会として弓道文化が受け継がれている
三十三間堂DATA
別称 三十三間堂、蓮華王院、蓮華王院本堂
正式名称 蓮華王院本堂
所在地 京都府京都市東山区
創建 長寛2年(1164)。後白河法皇の命により、法住寺殿の一画に平清盛が造進した
再建 文永3年(1266)。建長元年(1249)の火災後、現在の本堂が再建された
開基 後白河法皇
造進 平清盛
宗派 天台宗。妙法院の境外仏堂として護持されている
本尊 千手観音坐像。鎌倉時代、大仏師・湛慶作の国宝
主な関係者 後白河法皇、平清盛、後嵯峨上皇、湛慶、豊臣秀吉、徳川家光、妙法院門跡
主な建築 本堂、南大門、太閤塀
主な見どころ 国宝本堂、千手観音坐像、千体千手観音立像、風神・雷神像、二十八部衆像、南大門、太閤塀、通し矢ゆかりの西縁
文化財指定 本堂は国宝。千手観音坐像、千体千手観音立像、風神・雷神像、二十八部衆像は国宝。南大門、太閤塀は国指定重要文化財
住所 京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
電話番号 075-561-0467
拝観時間 4月1日~11月15日は8時30分~17時。11月16日~3月31日は9時~16時。受付終了は各閉門30分前
休館日 年中無休。行事、法要、工事等により拝観内容が変更される場合あり
拝観料 一般600円、中高生400円、小学生300円。25名以上は団体料金あり
アクセス 市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐ。京阪本線七条駅から徒歩約7分。JR京都駅から市バスまたは徒歩圏内
備考 三十三間堂は、正式には蓮華王院本堂という。本堂は南北約120mの長大な建物で、内陣の柱間が三十三あることから三十三間堂と呼ばれる。堂内中央には湛慶作の千手観音坐像を安置し、その左右に千体の千手観音立像が前後10列に並ぶ。千体千手観音立像のうち124体は創建時の平安時代の像で、その他は鎌倉時代の再建時に造像された像である。平成30年(2018)には、長年の修復を終えた千体千手観音立像すべてが国宝に指定された。堂内前列の二十八部衆像、風神・雷神像も鎌倉彫刻を代表する国宝である。堂内は撮影禁止のため、仏像群は実際に参拝して鑑賞する必要がある。近隣には京都国立博物館、智積院、豊国神社、方広寺、妙法院、養源院があり、東山七条周辺の歴史散策とあわせて巡りやすい。
三十三間堂への交通アクセス
JR「京都」駅からバス「三十三間堂前」下車すぐ。

HISTORY 三十三間堂について

三十三間堂の歴史
12世紀中頃 後白河上皇が京都東山の法住寺殿を院政の拠点として整備する
1164年 長寛2年、後白河法皇の命により、法住寺殿の一画に蓮華王院が創建される。造進には平清盛が関わった
1164年 蓮華王院本堂には、千手観音を本尊とする観音信仰の大空間が整えられた
平安時代末期 蓮華王院は、後白河法皇の院政と仏教信仰を象徴する堂宇として重んじられる
1183年 寿永2年、源平争乱の中で後白河法皇が法住寺殿を拠点とし、周辺は政治的にも重要な場所となる
鎌倉時代前期 蓮華王院は法住寺殿ゆかりの仏堂として存続し、観音信仰の霊場として信仰を集める
1249年 建長元年、火災により創建時の本堂をはじめ、多くの堂宇が焼失する
鎌倉時代中期 焼失後、ただちに再建事業が進められ、千体観音像の再興も国家的規模で行われる
1266年 文永3年、現在の本堂が再建される。鎌倉時代和様建築を代表する長大な堂宇として完成する
鎌倉時代中期 大仏師・湛慶が中尊の千手観音坐像を完成させ、千体千手観音立像の多くもこの時期に再興される
鎌倉時代 二十八部衆像や風神・雷神像が整えられ、本尊を守護する仏像群として堂内前列に安置される
室町時代 本堂は修理を重ねながら維持され、三十三間堂の名で広く知られるようになる
永享年間 本堂の修理が行われる
天文年間 本堂の修理が行われ、長大な堂宇が保たれる
桃山時代 豊臣秀吉が北隣に方広寺大仏殿を造営し、三十三間堂一帯を方広寺の山内に取り込んで保護する
1595年 文禄4年頃、豊臣秀吉により南大門が建立されたとされる
桃山時代 境内南側に太閤塀が築かれ、現在も豊臣家ゆかりの建築遺構として残る
江戸時代初期 豊臣家滅亡後、三十三間堂は方広寺とともに妙法院の管理下に置かれる
1606年 慶長11年、浅岡平兵衛が本堂西縁で大矢数を行ったとされ、通し矢の起源と伝わる
江戸時代 本堂西側の長い縁を使って矢を射通す「通し矢」が盛んになり、三十三間堂は弓術の名所としても知られる
1649年~1651年 慶安2年~4年、本堂の大修理が行われ、向拝などが現在に近い形に整えられる
江戸時代中期 各藩の弓術家が通し矢に挑み、三十三間堂は武芸と信仰が結びつく場として名を高める
1686年 貞享3年、紀州藩士・和佐大八郎が大矢数で記録を残したことで知られる
江戸時代後期 三十三間堂は京都名所として参詣者を集め、絵図や案内記にも取り上げられる
明治時代 近代の文化財保護制度の中で、本堂や仏像群の価値が改めて評価される
1897年 明治30年、古社寺保存法により、蓮華王院本堂が旧国宝、現在の重要文化財に相当する指定を受ける
20世紀前半 堂内の千手観音像群の保存修理が進められる
1949年 昭和24年、千手観音坐像、風神・雷神像、二十八部衆像などが旧国宝から新制度の国宝へ位置づけられていく
1951年 昭和26年、蓮華王院本堂が国宝に指定される
昭和時代 本堂と仏像群の保存修理が続けられ、長大な堂内空間と千体観音の姿が守られる
1955年 昭和30年頃、江戸時代の通し矢にちなむ大的大会が行われるようになり、現在の新成人による弓道行事へとつながる
1973年 昭和48年、千手観音立像の大規模な修理事業が始まる
2017年 平成29年、約45年に及ぶ千手観音立像の修理事業が完了する
2018年 平成30年、千体千手観音立像すべてが国宝に指定され、千体仏が本堂内に勢ぞろいする
現在 三十三間堂は、国宝本堂と千一体の千手観音像、風神・雷神像、二十八部衆像を伝える京都屈指の観音霊場として、多くの参拝者を迎えている

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