二条城京都府京都市

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二条城DATA
別称 旧二条離宮、恩賜元離宮二条城
築城 1603年
住所 京都府京都市中京区二条城町541
電話番号 075-841-0096
開館時間 8:45〜17:00(入館は16:00まで)
休館日 12月29日〜31日
登閣料 大人620円/中高生350円/小学生200円

世界遺産「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」構成要素の一つ。

二条城への交通アクセス
地下鉄東西線「二条城前」駅から徒歩約1分。

HISTORY 二条城について

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二条城を居城とする、徳川幕府の歴史

江戸幕府最後の武家政権
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徳川幕府DATA
居城 江戸城
旧地域 江戸
石高 400万石
主な藩主 徳川家

二条城、世界遺産となった大政奉還の舞台

京都市中京区にある二条城は、徳川家康が築城を開始した平城です。大政奉還の舞台になったのち、明治時代には皇室の二条離宮となったため、正式名は「元離宮二条城」です。平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」として世界文化遺産にも登録されました。

二条城
二条城の歴史
二条城は慶長6年(1601年)、徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所にする目的で築城を開始した城です。ほぼほぼ完成した慶長8年(1603年)に家康は城に入り、征夷大将軍の就任を祝いました。
元和5年(1619年)には徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内することが決まり、二条城は改修されました。寛永元年(1624年)には後水尾天皇の行幸を迎えるために大改修が始まり、城は現在の広さまで拡張され、新本丸が作られました。この際初代天守は淀城(現在の京都府京都市伏見区)に戻り、廃城となった伏見城の天守が移築されました。また、狩野派の豪華絢爛な障壁画もこの際に描かれたと言われています。
寛永3年(1626年)、5日間にわたる行幸は無事に終了。その後しばらく将軍は不在でしたが、寛永4年(1627年)、後水尾天皇が幕府の許可なく僧に最高位の衣装「紫衣」を与え、幕府が無効とした紫衣事件により幕府と朝廷の関係は悪化。このため寛永11年(1634年)に徳川家光が関係改善をはかり、30万人ともいわれる兵を連れて二条城に入っています。
二条城はその後しばらく将軍を迎えることはありませんでした。その間に天守が落雷で燃え、天明8年(1788年)の天明の大火の飛び火で本丸御殿などが焼失しています。
再び将軍が上洛したのは文久3年(1863年)。14代将軍の徳川家茂が孝明天皇に応えて上洛し、230年ぶりに二条城に入りました。このため文久2年(1862年)から大規模な改修がおこなわれ、二の丸御殿が修復され、本丸には仮御殿が建てられています。
家茂の後をついだ15代将軍・徳川慶喜は江戸城ではなく二条城に政治的な拠点を移行。討幕運動を受け、同年10月に二の丸御殿で大政奉還の意を表明し、朝廷に政権を返上しました。
明治維新後は現在の内閣にあたる太政官代が置かれ、明治4年(1871年)に京都府庁が設置。明治17年(1884年)には皇室の別邸である「二条離宮」となり、明治26年(1893年)に桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿としました。昭和14年(1939年)には皇室が京都市に二条離宮を下賜し、第二次世界大戦の戦火も免れ現在に至ります。
二条城の見どころ①大政奉還の舞台・二の丸御殿
二条城の一番の見どころは、大政奉還の舞台となった二の丸御殿です。現存御殿は川越城や高知城、掛川城にもありますが、二条城の二の丸御殿は全6棟の建物からなり、部屋数は33、畳はなんと約800畳!国内の城郭に残る唯一の御殿群として、国宝に指定されています。
二の丸御殿は狩野派による、金碧画をはじめとした障壁画や天井画が特徴です。欄干彫刻や飾り金具の装飾も美しく、将軍家にふさわしい豪華絢爛な建物です。
徳川慶喜が大政奉還の意思を表明したのは大広間でのこと。一の間(上段の間)は床の間や違棚などがある書院造らしいスペースで、徳川将軍が座る場所でした。最も格式が高く、天井は二重折上げ格天井になっています。二の間(下段の間)は将軍と対面する武士たちの場所でした。障壁画は松の巨木が主題で、狩野探幽によるものだといわれています。
二条城の見どころ1 二条城の見どころ2 二条城の見どころ3
二条城の見どころ②本丸御殿
本丸御殿は明治26年(1893年)、桂宮御殿の玄関や御書院、御常御殿、台所、雁の間を移築整備したものです。御殿自体は寛政2年(1790年)から1849年(嘉永2年)の間に順次整備されました。離宮時代は明治・大正・昭和天皇やその家族達が訪れ、国の重要文化財にも指定されています。
本丸御殿は平成19年(2007年)から耐震不足で非公開となり、平成29年(2017年)から耐震補強工事と障壁画の修理を実施。令和6年(2024年)9月1日から18年ぶりに一般公開が再開しました。以前は春秋の期間限定公開でしたが、9月からは事前予約制で通年公開しています。
本丸御殿の最大のポイントは、修復で色鮮やかな色合いが戻った障壁画が原画で見学できること。実は二の丸御殿の場合、大広間をはじめとした4部屋の障壁画は保存のためほぼすべて模写障壁画にはめ変えられており、原画は「二条城障壁画 展示収蔵館」で展示公開されています。
本丸御殿の障壁画の作者は、京都御所の障壁画にもかかわった京狩野や円山派、四条派などの江戸時代後期の絵師たち。異なる派閥による精緻で美しい作品は見ごたえたっぷりです。また、シャンデリアや畳の上の絨毯など、和洋折衷の近代的な設備にも注目です。
二条城の見どころ③重要文化財の門
二条城にはさまざまな建物が重要文化財に指定されています。正門の「東大手門」は寛文2年(1662年)頃に改修されたもの。築城当時は2階建ての櫓門だったところ、後水尾天皇行幸の際に、天皇を見下すのは不敬にあたることから平屋になり、その後再び2階建てに戻したようです。
カラフルな「唐門」は二の丸御殿の正門で、切妻造の檜皮葺の屋根に、前後に唐破風が付けられた豪華なものです。破風の欄間には長寿を意味する「松竹梅に鶴」、竜や唐獅子、鳳凰などの縁起物が極彩色の彫刻で彩られています。
二条城の見どころ4 二条城の見どころ5 二条城の見どころ6
おすすめ撮影スポット
広大な二条城のフォトスポットはいくつかありますが、人気なのが美しい彫刻が魅力的な唐門。門の奥には二の丸御殿が望めます。城感が味わえるのが堀越しに撮影する東南隅櫓です。なお、廊下の狭さや文化財保護の観点から、二の丸御殿・本丸御殿内での撮影はNGです。
二条城の見どころ7 二条城の見どころ8 二条城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。