田辺城京都府舞鶴市

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田辺城DATA
別称 舞鶴城
築城 1582年
住所 京都府舞鶴市南田辺15-22
電話番号 0773-76-7211
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌々日)、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/3)
登閣料 大人200円/学生100円
田辺城への交通アクセス
JR舞鶴線「西舞鶴」駅から徒歩約4分。

HISTORY 田辺城について

田辺城と関連する事件を読む

田辺城の戦い教養は身を助く?細川幽斎の才覚
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの前哨戦として丹後田辺城(京都府舞鶴市)で戦いが起こりました。「田辺城の戦い」と呼ばれるこの戦いでは西軍1万5000に対し、東軍方の細川幽斎(細川藤孝)が500

田辺城と関連する人物記を読む

細川忠興秀吉子飼いの七将
戦いに明け暮れた戦国時代、そんな荒れた時代にも文化の華は大きく咲きました。茶の湯や連歌です。戦国の世で文化を育みながら、室町幕府から織田・豊臣・徳川に仕えた大名が細川忠興です。忠興は細川藤孝の子として

田辺城を藩庁とする、丹後田辺藩の歴史

平四つ目結

京極家の家紋「平四つ目結」

丹後田辺藩DATA
藩庁 田辺城
旧地域 丹後国
石高 3万5000石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 京極家、牧野家

田辺城、細川幽斎が籠城した「田辺城の戦い」の舞台

京都府舞鶴市にあった田辺城は、天正年間に細川幽斎が築いた平城です。城が南北に長く、近くの峠から眺めると鶴が舞っているように見えることから「舞鶴城」とも呼ばれ、「舞鶴」の地名の由来になりました。関ヶ原の戦いの前哨戦として、西軍を前に細川幽斎が少数で籠城戦を繰り広げた「田辺城の戦い」の舞台として知られています。現在は大手門や隅櫓が再建されています。

田辺城
田辺城の歴史
田辺城は天正10年(1582年)、織田信長の許可を得て細川藤孝(幽斎)が築いた輪郭式の平城です。城は伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に築かれており、以前は室町時代に丹後守護所がありました。天正10年6月の本能寺の変の後、明智光秀は藤孝に助力を求めましたが、藤孝はこれに応えず、信長の死を悼むとして剃髪して家督を息子の細川忠興に譲り、田辺城に隠居してしまいます。そして「幽斎」と名乗りました。
光秀としては娘の玉(細川ガラシャ)を忠興に嫁がせており、幽斎とは以前から親しくしていたこともあり、幽斎は味方してくれると考えていたようです。とはいえ幽斎から見ると主君を討った謀反人ですからうかつに味方にはなれません。その後、光秀は秀吉に山崎の戦いで敗れますが、幽斎は秀吉に重用されていきます。
田辺城に次にスポットライトが当たったのは、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの直前のこと。田辺城は関ヶ原の戦いの前哨戦として西軍方から攻められました(田辺城の戦い)。東軍に属していた細川氏は、西軍の攻撃を受けたのです。このとき幽斎から家督を継いだ細川忠興は家康に加勢しており、田辺城を守っていたのは幽斎とわずか500名の兵でした。そこに石田三成が1万5000の兵とともに攻め寄せますが、幽斎は籠城し続け、戦は膠着状態に陥りました。
ここで動いたのが朝廷です。幽斎は当時文武両道の一流の文化人として知られ、公家の三条西家に代々伝わる古今伝授(「古今和歌集」の解釈などを秘伝として口伝で伝えたもの)の伝承者でもありました。このため万が一幽斎が死んでしまうと古今伝授が途絶えてしまう…そう恐れた後陽成天皇が勅命を出し、戦を集結させたのです。田辺城の戦いで1ヶ月半にわたる籠城により西軍1万5000を舞鶴の地に釘づけにした幽斎は、関ヶ原の戦いの東軍の勝利に一役買ったと言われています。
その後、関ヶ原の戦いの論功行賞により細川忠興が豊前(現在の福岡・大分県)33.9万石に加増移封されます。代わって京極高知が丹後一国12.3万石を与えられて田辺城に入りますが、その後高知は宮津城(京都府宮津市鶴賀)に本拠地を移しました。
元和8年(1622年)、高知が亡くなると遺命により丹後国は嫡男・次男・養子の3人に分割され宮津藩・田辺藩・峰山藩が誕生しました。このうち田辺藩(舞鶴藩とも)は次男の京極高三が継ぎましたが、高三も宮津城を本拠地とし、田辺城の門や櫓などを宮津城に移築したため、田辺城は荒れ果てました。
その後、寛文8年(1668年)に京極氏が国替えとなり、牧野親成が河内・摂津国内から田辺藩に移封されました。この際、親成が居城として田辺城を復興させており、9ヶ月がかりで城門や櫓の再建、石垣の改修などを行っています。以後、明治維新まで牧野氏が同地を治め続けました。
明治6年(1873年)、田辺城は廃城となり、翌年から取り壊しが始まりました。ただし、堀の一部は田畑に利用されたようです。現在は本丸・二の丸の一部が「舞鶴公園」として整備されており、昭和15年(1940年)には西北隅の石垣の上に隅櫓が復元されました(彰古館)。平成4年(1992年)に大手門が復元されたほか、令和2年(2020年)には冠木門が復元整備されています。
田辺城の見どころ①天守台や本丸の石垣
田辺城は明治時代に破却されましたが、本丸の西側には細川幽斎時代の天守台が今も残っています。ただし規模は小さいことから、天守は建てられず、櫓のようなものがあったと推察されています。石垣は穴太衆が手がけた野面積み(穴太積み)で、基礎の部分には土台となる木が置かれています。
このほか本丸や西の丸跡には石垣が残されており、往時をしのばせます。本丸石垣付近には細川氏と京極氏時代の途中まで使われていた本丸井戸跡も復元されているので、見逃さないようにしましょう。
田辺城の見どころ1 田辺城の見どころ2 田辺城の見どころ3
田辺城の見どころ②田辺城資料館と彰古館
平成4年(1992年)に復元された大手門の2階は「田辺城資料館」となっており、細川幽斎を中心とした歴代城主や城下町・田辺の歴史などをパネルやジオラマ、甲冑などの展示品とともに紹介しています。城跡からの出土品も展示されていますよ。なお、大手門の場所は本来の位置ではなく、外堀のあった場所に建てられています。
隅櫓の「彰古館」も内部は展示スペースとなっており、細川幽斎に関するパネルや資料が展示されています。
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田辺城のフォトスポット
本丸の天守跡やあちこちに残る石垣は往時を思わせるフォトスポット。また、再建された大手門や隅櫓も雰囲気があって写真撮影におすすめです。また、舞鶴公園には約100本の桜が植えられており、春には隅櫓と桜のコラボレーションが楽しめます。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。