徳川家康戦国時代を終わらせた天下人
徳川家康
皆さんは戦国時代について、どういった印象をお持ちでしょうか。
例えば戦国時代の三英傑である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。家康は1600年の関ケ原の戦い後、江戸幕府を開きました。
三河の岡崎(現在の愛知県)に生まれて、戦乱の世を終わらせ、朝廷より征夷大将軍に任じられた家康。1603年に260年間続く江戸幕府の礎を築きました。今回はその徳川家康に関してご紹介します。
幼少期から元服へ
徳川家康は三河国(現在の愛知県東部)の小領主であった松平広忠の嫡男として天文11年(1543)に岡崎城で生まれした。
母は水野忠政の娘・於大の方(伝通院)。家康の幼名は竹千代でした。
3歳の頃、母の兄である水野信元が尾張国(現在の愛知県西部)の織田家と同盟したため、織田家と敵対している父の広忠は母の於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになりました。
天文16年(1547年)、竹千代は6歳で今川氏の人質として駿府へ送られることになります。松平家は駿河・遠江の領主であった今川家に従属していました。
ところが駿府への移動の途中、立ち寄った田原城の戸田康光に裏切られ、尾張国の織田家へ送られます。しかし広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間織田家に留め置かれました。
2年後に父の広忠が死去。松平家を庇護していた今川義元は人質交換によって竹千代を取り戻します。竹千代はそのまま駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配されました。
天文24年(1555年)3月、徳川家康は今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶ります。
名は後に祖父・松平清康の偏諱から松平蔵人佐元康と改めました。
家康が元服した当時、三河国では国人衆の間で大規模な反乱が起きていました。永禄元年(1558年)2月、今川氏から織田氏に寝返った鈴木重辰の寺部城を攻めます。これが家康の初陣であり、城下を焼き、その周辺の村々を下します。この戦功により、義元から手柄を認められました。
今川家からの独立と織田信長
永禄3年(1560)、今川義元は上洛を目指し軍勢を整え西へ向かいます。家康も先鋒として参加しました。
最初に義元に抵抗したのは織田信長です。ところが、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれます。大高城で休息中であった家康は撤退しました。
三河まで戻ると、松平家の菩提寺である大樹寺に駐屯した後、今川方が危険を感じ撤収した岡崎城に入ります。ここから今川家の傘下からの独立を目指しました。
翌永禄4年(1561)、家康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上し室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとします。
さらに東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にしました。
その後も家康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略します。
そして、今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあり、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結びました(清洲同盟)。
家康と信長とが会談し、同盟の確認をして関係を固め、後に同盟の証として嫡男竹千代(信康)と信長の娘・五徳との婚約が結ばれました。
永禄6年(1563年)には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めます。
永禄7年(1564年)、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り除くと、対今川氏の戦略を推し進めました。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を味方に引き入れ、鵜殿氏のような今川氏との関係の強い敵対勢力を排除していきます。
遠江国で発生した国人衆の反乱(遠州忿劇)の影響で、三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一しました。
この際に家康は、西三河衆を石川数正に東三河衆を酒井忠次に任せ統制を強化しました。
また、三河国を統一しその支配を正当化する為、京都の朝廷に働きかけ従五位下三河守に叙任され、同時に「徳川」に改姓しました。ここから家康は徳川家康と名乗ります。
この「徳川」の姓は三河守に叙任されるにあたり、朝廷の先例で松平だと支障があった為、便宜上の改姓でした。よって当面は徳川姓を名乗ったのは家康一人でした。
今川侵攻と武田信玄
永禄11年(1568)、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とします。
武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされました。
ところが永禄12年(1569)、信濃国(現在の長野県)から武田家臣・秋山虎繁(信友)が遠江国(現在の静岡県西部)へ侵攻し、武田氏と敵対関係になります。
家康は武田家と緊張状態にあるなか、駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を囲み、籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置きました(遠江侵攻)。氏真を庇護すると、家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けます。
元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬(ひくま)に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを拠点としました。
元亀3年(1572)信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てます。足利義昭側に付いた武田信玄は徳川領である遠江国・三河国へ侵攻(西上作戦)を開始します。家康は信長に援軍を要請しますが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、織田家からの十分な支援を受けられず武田軍と戦うことになりました。
西上する武田軍本隊が浜松城へ近づきますが、浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように進みました。これを聞いた家康は、織田家から援軍にきた諸将が籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。
しかしその結果、待ち構えていた武田軍と戦い1,000人以上の死傷者を出し、徳川・織田連合軍は惨敗(三方ヶ原の戦い)。ところがその後、信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により武田家は撤退しました。
武田家の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅、家康も勢力を回復します。
これに対し、信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、家康は武田家との対峙が続きました。天正3年(1575)には長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失って大敗を喫しますが、長篠の戦以降も武田家との対峙は続きます。
そのような中、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられます。
家康は酒井忠次を使者として信長と談判させましたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害、信康を切腹させます。
天正10年(1582年)、信長は家康や北条家と共同で武田領へ本格的な侵攻を行います。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻、武田家の家臣を離反させるなどして駿河領を確保しました。
武田勝頼は天目山で自害し武田氏は滅亡。家康が三河から遠江に侵攻して以来、足掛け10年以上武田家と対峙しました。
織田信長の死と豊臣秀吉
天正10年(1582年)、駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて居城・安土城を訪れます。安土を訪れた後、信長の勧めで堺を遊覧しました。ところが京で本能寺の変が起こり、信長が自害しました。
このとき家康は重臣や小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となります。しかし伊賀国の険しい山道を通り、加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻りました(神君伊賀越え)。
三河に戻った家康は、信長の敵討ちの用意をし始めますが、それと同時に武田家から織田家の所領となって間のない甲斐(現在の山梨県)・信濃(現在の長野県)・上野(現在の群馬県)に目を付けます。家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃を派遣して旧武田家の家臣を説得する一方、8,000人の軍勢を率いて甲斐国に入り併呑します(天正壬午の乱)。
ところが関東の北条家も5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻。
家康は北条勢と対峙しました。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈しましたが、北条に仕えていた真田昌幸が徳川軍に寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めます。家康は北条家と和睦し縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃を併呑、旧領の駿河・遠江・三河と併せて5ヶ国を領有する大大名になりました。
徳川家康が信濃・甲斐を併呑している間、信長死後の織田家では家臣の羽柴秀吉が台頭します。本能寺で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀を討ち取り、自らの地位を正当化する為に織田家信長次男・織田信雄を擁立していましたが、その後、信長の孫の三法師(織田秀信)を織田家の跡継ぎとして推したため、秀吉と信雄とが対立するようになります。そこで信雄は家康に接近して秀吉に対抗することとなりました。
家康と秀吉は軍を出し合って尾張において対峙しましたが、その対峙の間に秀吉側から森長可・池田恒興らが三河国に出兵します。
それに気づいた家康は、三河国へ侵攻する森長可・池田恒興を追尾。
長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退しました(小牧・長久手の戦い)。その後、小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移します。秀吉と家康・信雄の双方は和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子としました。
天正13年(1585年)に入ると、秀吉は関白に補任され、豊臣政権を確立します。この間、家康と秀吉は冷戦状態が続き、家康はなかなか臣従する気配を見せませんでした。
天正14年(1586)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となります。さらに生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ります。ここで家康は上洛し、大坂城において秀吉に謁見すると豊臣家に臣従することを表明しました。
関東移封
天正15年(1587)12月に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託されます。
ところが、関東の北条氏直は秀吉に臣従することに応じませんでした。天正18年(1590年)秀吉は北条氏討伐を開始。北条家は降伏しましたがその直後、家康は秀吉の命令で駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封されます。この移封によって119万石から関東250万石への類を見ない大幅な加増を受けたことになりますが、徳川家に縁の深い三河国を失います。
また、当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあったので、北条家が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城としました。
文禄元年(1592)から秀吉の朝鮮出兵が開始されますが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけでした。
慶長3年(1598)、朝鮮出兵が泥沼化する中、秀吉は病に倒れ死去。秀吉が亡くなると五大老・五奉行は朝鮮から日本軍を撤退させます。結果的に家康は朝鮮出兵で兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができました。
豊臣秀吉の死後、大名の中で内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から子息秀頼を遺言で託されていた為、五大老筆頭と目されるようになります。
関ヶ原の戦いと大坂の陣、そして晩年
徳川家康は生前の秀吉により禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を多数行います。この行為は、五奉行の石田三成らより家康の専横と捉えられ、反徳川家の大名の反感を買います。
一方、石田三成は豊臣秀吉の命にしたがい、朝鮮出兵を計画した為、日本から朝鮮半島へ出征した大名の反感を買います。
そして慶長5年(1600)、会津の上杉家の家老、直江兼続が徳川家康の弾劾上を送り徳川家と上杉家との戦に発展しました。豊臣家の大名も引連れ会津に遠征した家康でしたが、江戸まで至ると今度は大坂で石田三成が反徳川の大名を糾合し挙兵しました。家康は日本の東西で挟み撃ちにあいます。
そこで上杉家に対する兵を残し、家康は来た道を取って返し大坂に向かいます。そして、石田三成を中心とした軍と関ケ原で激突、これに勝利しました(関ヶ原の戦い)。ここで実質的に、家康が天下を治めます。
翌慶長6年(1601)には征夷大将軍となりますが大坂には豊臣秀吉の遺児、秀頼がいました。晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は脅威であり、なお特別の地位を保持していて実質的には徳川氏の支配下には編入されていませんでした。
また関ヶ原の戦い後に西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名でした。慶長19年(1614)ついに、20万人からなる大軍で大坂城に籠る秀頼を完全包囲し(大坂冬の陣)、慶長20年(1615)に豊臣家を亡ぼしました(大坂夏の陣)。
こうして長かった戦国の時代は終わり、日本は江戸時代へと入っていきます。
そして元和2年(1616)4月、病のため鷹狩に出た先で倒れた徳川家康は、駿府城で亡くなりました。享年75。
徳川家康と江戸城
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の後、秀吉から後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康は駿府(現在の静岡市)から江戸(現在の東京都)に入ります。
江戸の地は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸氏が館を置いて拠点としていました。室町時代に入ると太田道灌が、江戸城を築城します。家康が江戸にやってきた時にあった城が、この太田道灌が使っていた荒れ果てた城でした。
家康は家臣団とその家族とでやってくると城を築きながら街づくりを始めます。
関ケ原の戦いで家康が将軍となると慶長8年(1603)以降、全国の大名による城と町の拡張工事に着手し、天下普請による江戸の街づくりを開始しました。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行います。
この天下普請は万治3年(1660)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、その完了も持って一旦の終了となりました。
江戸城の天守閣は徳川家康の改築以降、慶長度(1607)・元和度(1623)・寛永度(1638)と3度築かれます。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾る豪勢な造りでした。
ところが明暦3年(1657)の明暦の大火によって寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれましたが、城下の復興支援を優先させ、以降天守を築くことはありませんでした。
初期の江戸は飲み水の確保が難しい土地柄でしたので、早くから上水道を整備。更に日本中の武士が参勤交代で訪れるので、人口は100万人を数え、世界有数の都市となりました。
明治時代に入ると江戸城は皇居として、江戸は東京都として日本の首都となります。
そして現在、東京を中心とした関東経済圏は世界有数の大都市となっています。
徳川家康のゆかりの地
- 若き家康が過ごした岡崎と家康行列
- 徳川家康が生まれ、今川家から独立した後に過ごしたのが三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)でした。その発祥の地である岡崎市で行われているのが家康行列です。
祭の起源は江戸時代、岡崎城内本丸にあった映世神社で行われていた「映世明神祭礼」(えいせいみょうじんさいれい)です。家康行列は毎年4月の第1または第2日曜日に開催される時代行列で「岡崎の桜まつり」のメインイベントです。公募で選ばれた徳川家康公を始めとする三河武士団、姫列など700余名が市内中心部を練り歩きます。 - 晩年を過ごした駿府城と安倍川餅
- 関ヶ原の戦いで家康が勝利し、征夷大将軍となりましたが秀忠に将軍職と家督を譲ります。そして自分は駿府城へと移りました。隠居後、駿府城の近くにある安倍川岸で、徳川家康は茶屋に立ち寄ります。そこの店主が黄な粉を安倍川上流(梅ヶ島)で取れる砂金に見立て、つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上しました。家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付け現在、静岡県の銘菓となっています。
- 亡き家康が祀られている日光東照宮
- 元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去しました。家康の遺言により遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮が完成します。
そして翌・元和3年(1617)に下野国日光に改葬され、朝廷から東照大権現の神号を送られて家康は神として祀られました。寛永13年(1636)、3代将軍徳川家光が荘厳な社殿への大規模改築が行います。輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、1999年「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。