長篠の戦い(1/2)武田勝頼が大敗を喫した「長篠の戦い」を改めて振り返る

長篠の戦い

長篠の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
長篠の戦い(1575年)
場所
愛知県新城市長篠字市場22-1
関連する城・寺・神社
甲府城

甲府城

躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館

長篠城

長篠城

関係する人物

戦国時代の有名な戦の一つが、武田信玄の後を継いだ武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が戦った「長篠の戦い」です。簡単に説明すると、三河国(愛知県)の長篠城と設楽原で、織田・徳川軍が武田軍を破った戦いで、日本で初めて鉄砲隊を戦術に組み込んだ戦だと言われています。武田騎馬隊を「馬防柵」で封じ、兵士を3人1組に分けて射撃を続けておこなう「3段撃ち」で滅ぼした、というストーリーが有名です。信長や家康側の目線で語られることが多い戦ですが、今回は武田家にスポットをあててみていきたいと思います。

長篠の戦いが起こるまで~その1:信玄死去

長篠の戦いの起きた理由を知るためには、武田勝頼の父である武田信玄と織田信長の関係をみる必要があります。信玄と信長は当初、ゆるやかな友好関係を保っていましたが、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたことをきっかけに信玄が信長を非難。その後、信玄は足利義昭による信長包囲網に加わる形で徳川家康が治める三河国に侵攻することになります。

家康や信長を追い詰めた信玄でしたが、持病の悪化から途中で攻撃を中止し、長篠城で療養。その後、甲斐に引き返す途中の元亀4年(1573年)4月12日に亡くなりました。遺言で「自身の死は3年秘匿し、その間に国力を養うように」と告げたことはあまりにも有名です。

さて、信玄の遺言に従い、跡を継いだのは信玄の四男だった武田勝頼です。表向きには信玄は隠居したことになっていましたが、信玄の死は数ヶ月たたないうちに周囲の大名に知られることとなります。戦国時代は情報戦も盛んでしたし、このタイミングで隠居と言われても信じる武将はそういなかったのではないでしょうか。

さて、武田家弱体化のチャンスとばかりに信長と家康は武田家に反撃します。家康は武田家家臣の奥平貞能を寝返らせ、元亀4年9月には長篠城を奪取します。信長は近江国(滋賀県)を攻めて武田家と同盟を結んでいた浅井長政や朝倉義景を滅ぼしました。

長篠の戦いが起こるまで~その2:勝頼の外征戦略

こうしたなか、信玄の跡を継いだばかりの勝頼は家臣団の取りまとめに苦労します。そもそも信玄の嫡男は武田義信でしたが、信玄と意見が合わず、謀反を疑われたあげく最終的には自害させられてしまいます。信玄の次男の海野信親は盲目で出家しており、三男の信之は夭折していたため、勝頼が後継者に選ばれました。

そもそも勝頼の母は武田家に滅ぼされた諏訪一族の娘で、勝頼自身「諏訪四郎勝頼」として諏訪家を継いでいました。武田家に敗れて家臣になった諏訪家の人間が武田家のトップになったのです。信玄に仕えていた家臣達が従うのに抵抗を覚えるのも無理はありません。

信玄自身、勝頼を正式な後継者ではなく、息子の信勝が家督を継ぐまでの陣代(後見)、いわゆる中継ぎ的な存在とみなしていました。武田家の戦術や戦略について書かれた『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で勝頼は陣代であり、武田家の旗は勝頼には持たせないように、としています。『甲陽軍鑑』は史実として正確性に乏しいとされていますが、こうまで書かれてしまうほど「あくまでも代理」感が強かったのかと思うと、勝頼に同情しますね。

そうした状況下で武田家の家臣団をまとめるために手っ取り早いのは、外を攻めること。勝頼は国力を固めるようにという信玄の遺言に反して積極的な外征をします。

天正2年(1574年)には織田領の美濃国(岐阜県)に攻め入り、わずか一ヶ月半で明知城や飯羽間城などの18の城を落としました。家康の治める遠江(静岡県)にも侵攻し、6月には信玄も落とせなかった名城・高天神城を攻め落とします。信玄を超える成果に勝頼は鼻高々だったのではないでしょうか。事実、武田家として最も領土が広かったのはこの時期です。9月には浜松城に迫り、城下に放火。破竹の勢いで家康を追い込みました。

長篠の戦いの大敗のイメージから評価が低くなりがちな勝頼ですが、生きていた当時の人々からの評価は高く、信長は勝頼について「油断ならない」と警戒しています。勝頼の死についても「日本にかくれなき弓取り(=すごい武人)だが、運が尽きるとこうなって(死んで)しまうのか」とコメントしています(『三河物語』)。

長篠の戦い、開戦!~武田軍1.5万対織田・徳川軍3.8万~

天正3年(1575年)5月11日、勝頼は武田家を裏切って徳川家についた、奥平貞能と息子の貞昌を討伐するため、長篠城への総攻撃を開始します。これが長篠の戦いの始まりです。武田軍は1万5000人(8000人、など諸説あり)で長篠城を取り囲みます。長篠城の兵力は500人でした。

勝頼は援軍が来る前に攻め落とすつもりだったようですが、長篠城の奥平親子は必死に耐え抜きました。家康は8000人ほどの兵しか投入できなかったため、信長に必死に援軍を要請します。「加勢しないなら武田と一緒に尾張を攻める」となかば脅すような形で助けを求めた結果、信長は3万人の援軍を投入。合わせて3万8000人の織田・徳川軍が設楽原に到着することとなりました。

長篠城が持ちこたえた理由:主君を裏切らなかった「鳥居強右衛門」

長篠城の奥平親子が援軍到着まで、武田軍1万5000人の猛攻をなぜ耐え抜くことができたのか。その理由の一つが、鳥居強右衛門の存在だと言われています。強右衛門は奥平家に仕える足軽で、岡崎城にいた家康に援軍を要請しに行く密使の役割を果たしました。

5月14日に長篠城を抜け出した強右衛門は武田軍の目をかいくぐり、なんとか岡崎城にたどり着きます。そこで3万8000人の援軍が準備されていることを知った強右衛門は長篠城に朗報を届けようと急いで引き返しましたが、城の目前で武田軍に見つかってしまい、捕らえられてしまいます。

強右衛門は「どうせ死ぬのであれば……」という思いから、武田軍に対し援軍について堂々と話します。敵陣で豪胆にふるまう強右衛門に対し、勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない』と言えば命は助ける、何なら仕官しないか」と取引を持ち掛けます。強右衛門は勝頼の提案を受け入れます。

そして城の前に連れ出された強右衛門ですが、叫んだ言葉は「援軍は来る!」。命の危険を顧みず事実を伝えた強右衛門は、怒った武田軍にはりつけにされて命を落とします(一説には斬首)。しかし、彼が発した一言は長篠城の人々に希望を与えるとともに士気を大いに高める役割を果たしたのでした。

勝頼、織田・徳川軍との戦いを決意

そうこうしているうちに、5月18日には織田・徳川軍からの援軍が設楽原に到着します。これを知った武田軍は戦うか撤退するかを話し合います。戦うとしても長篠城を先に奪うか、それとも設楽原を攻めるか、もしくは撤退するか、意見は分かれ論争になります。

信玄時代からの家臣である山県昌景、馬場信春、内藤昌秀たちは撤退を提案しましたが、勝頼の側近の跡部勝資らは決戦を進言。織田軍の佐久間信盛が内応するという情報(実は信長の策略でした)もあり、勝頼は織田・徳川軍と戦うことを決断します。

勝頼は1万5000の兵のうち3000を長篠城対策として残し、残りを率いて設楽原に向かいました。なお、撤退を進言した人々は戦う前からすでに敗戦を予感しており、一同決別の盃を交わした、という話も残っています。

勝頼が戦いを決心した理由としては、設楽原で織田・徳川軍が動きを止めており、それを準備不足で士気が低いとみなしたからという説や、そもそも織田軍の援軍は想定されておらず、設楽原について初めて知ったという説があります。「父が落とせなかった高天神城を落とした」という実績による慢心があったのかもしれません。

戦の明暗を分けた、設楽原での準備と鳶ヶ巣山砦への奇襲

一方の織田・徳川軍は設楽原で武田軍を迎え撃つ準備を着々と進めていました。設楽「原」は見晴らしのよさそうなイメージがありますが、実際は丘陵地帯で小川や沢があり、見通しはよくありませんでした。織田・徳川軍はそれを利用して人口の断崖や土壁、土塁を作り、兵を小分けにして敵から見えないように窪地に潜ませました。加えて、武田家の騎馬隊対策として馬防柵も設置。設楽原を織田・徳川軍の「城」に変えていきます。

長篠の戦いの記事には続きがあります

関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03