天正伊賀の乱織田軍と伊賀忍者の壮絶な戦いとは?

天正伊賀の乱

敵陣に潜伏して情報を探り、罠を仕掛け、時には闇に紛れて敵を暗殺する「忍者」。普段はなかなか表舞台に出てこない彼らが織田軍と激突したのが「天正伊賀の乱」です。戦国時代で唯一、侍と忍者が直接対決した大規模な戦で、和田竜さんが天正伊賀の乱を題材に書いた小説「忍びの国」は2017年大野智さんの主演で映画化されました。今回はそんな天正伊賀の乱をわかりやすく解説します。

天正伊賀の乱とは

天正伊賀の乱とは、伊賀国(三重県北部)で伊賀の忍者・地侍などからなる「伊賀衆」と織田家が戦った、2度にわたる戦の総称です。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦は第一次天正伊賀の乱と呼ばれており、伊賀を平定しようとした織田信長の息子の信雄が伊賀衆に敗れました。その後、天正9年(1581年)に第二次天正伊賀の乱が起こり、織田信長が大軍を率いて伊賀衆を攻め落とし、伊賀は壊滅状態に陥りました。

そもそも伊賀ってどんなところ?

乱の舞台になる伊賀国は現在の三重県の伊賀市と名張市にあたります。周囲を峻険な山に囲まれた盆地で、古くから奈良や京都と伊勢を結ぶ交通の要所として重視されてきました。

その歴史は古く、古代から中世にかけては奈良の東大寺などの荘園(領地)でしたが、次第に土豪(その土地の豪族)や地侍(有力名主)の力が強くなり、各地に小規模な勢力が乱立しました。彼らをなかなか統一する大きな勢力は現れず、小競り合いが徐々に巧妙化するなか、情報収集やゲリラ戦を得意とする忍者が育っていったようです。

また、山々に囲まれていたことから隠れ里としての機能もあったようで、中央政権から追いやられた武士や公家たちがもたらす情報や、山で修行する修験者たちとの交流などから、忍術をはじめとする独特の技術がうまれました。

室町時代以降は伊賀仁木氏が伊賀守護を務めていましたが、あまり強い支配力は持たず、地侍たちの自治は続いていました。

伊賀惣国一揆による自治

戦国時代には伊賀衆が自治水利権などの自らの権利を守るため、団結して「伊賀惣国一揆」という組織を設立。各里の代表者12名による合議制の強い自治共同体として、伊賀国をまとめていきました。ちなみに、「一揆」というと百姓たちによる武装蜂起のイメージがありますが、元の意味は問題解決のために一致団結することで、そのために作られた集団やその闘争を指しています。

伊賀惣国一揆には、11か条の掟がありました。主な掟は以下の通りです。

  • 他国からの侵略に対し、皆が一体となって防戦すること
  • 侵略の報告があった際は村々の鐘を鳴らし、兵量や矢・盾を持参して参戦すること
  • 17歳から50歳までには出陣義務があり、長期間戦う場合はチームを編成して交代すること
  • 各里の民たちに起請文を書かせて服従を誓わせること
  • 忠節あるものは百姓でも侍に取り立てること
  • 裏切りものは討伐して所領を没収すること
  • 陣の内部では仲間割れをせず、互いに乱暴しないこと
  • 甲賀とも力を合わせるので、近く甲賀と会合をおこなうこと

これを見ると、非常時の軍事的な掟として機能していたようです。また、小説ではよく伊賀の敵対勢力として扱われがちな隣の甲賀郡(滋賀県)の忍者たちとも交流があったことが分かります。

ちなみに、伊賀と甲賀では忍者の仕官の仕方が異なります。伊賀の忍者たちはさまざまな武将に仕える傭兵のような存在で、時には敵味方に別れて争うこともあったようです。一方甲賀の忍者たちは六角氏に仕えていましたが、六角氏が信長に滅ぼされると、信長に仕えるようになります。

伊賀の忍者たち

伊賀の忍者として有名なのは、伊賀惣国一揆の代表者12名のうち「上忍三家」と呼ばれる服部家、百地家、藤林家です。服部家からは服部正成(服部半蔵)が徳川家康に仕えています。彼は実際のところ忍者というよりも武将でしたが、家康のもとで多くの忍者を指揮したことで知られています。服部正成は百地家の百地丹波や藤林家の藤林長門守と合わせて「伊賀の三上忍」と呼ばれることもあります。

第一次天正伊賀の乱~織田信雄が独断で伊賀攻め~

前置きが長くなりましたが、いよいよ第一次天正伊賀の乱について解説していきます。

第一次天正伊賀の乱は、織田信長の次男である織田信雄が伊賀国を攻めた戦です。信雄は当時、北畠具房の養子となっていました(正確には北畠信雄)。これは永禄10年(1567年)に信長が伊勢を手中に収めるため、南伊勢を支配していた北畠家を攻めた際、和睦の条件として次男を養子に出したもの。養子にすることで北畠家をなかから織田家の支配下に置くねらいがありました。実際、信雄は後年に北畠具教の娘をめとり、北畠家を継ぐとともに他の北畠一族を暗殺して伊勢を掌握しています。

伊勢の次は隣接する伊賀を、ということですが、天正6年(1578年)、伊賀国の日奈知城主だった下山平兵衛が伊賀衆を裏切り、伊賀国への手引きを申し出ます。これを受けた信雄は部下の滝川雄利に命じて、丸山城を拠点にした伊賀攻めを企てました。そのために丸山城の修築を始めたのですが、それを知った百地丹波や植田光次が率いる伊賀衆はすぐさま合議を開いて対策を練ります。そして無料寿福寺(むりょうじゅふくじ)を拠点に、伊賀十二人衆の百田藤兵衛の率いる兵が城に対し奇襲を仕掛け、城を焼き払います。これにより、滝川雄利たちは城を捨てて伊勢に逃げ帰ることになりました。

名誉挽回?信長に無断で出兵

翌天正7年(1579年)9月、信雄は約1万人の兵を率いて伊賀に侵攻。伊勢地口など3方から伊賀に攻め込みました。信長には報告せず、独断で実施したこの戦いですが、なんと今回も伊賀衆の勝利に終わってしまいます。信雄の敗因は、伊賀衆お得意のゲリラ戦についていけなかったこと。土地を知り尽くした伊賀衆による夜襲やかく乱作戦、奇襲になすすべもなく、信雄軍は敗走しました。しかも、この時信雄は重臣の柘植保重を伊賀衆の植田光次の手により喪ってしまいます。

これを知った信長は大激怒!太田牛一による信長の生涯を記した「信長公記」によれば、信雄を「言語道断」と激しく叱責するとともに、書状で親子の縁を切る旨を伝えたそうです。天下統一をめざす信長にとって、家臣、しかも次男の負け戦は威信を失うことになりかねませんので、怒るのも無理はありません。

息子の独断での行動とはいえ、伊賀にしてやられた信長。すぐさま報復したいところではありますが、天正6年から7年は第三次信長包囲網の真っただ中で、毛利氏や石山本願寺との戦いの最中です。伊賀まで手を出している余裕はなかったようで、しばらくは伊賀を放置します。

第二次天正伊賀の乱~信長の報復戦~

天正8年(1580年)に石山本願寺が陥落したことで、信長包囲網はほぼ瓦解しました。そして翌年の天正9年(1581年)、いよいよ信長による伊賀攻めが始まります。きっかけは伊賀衆の福地伊宗隆と耳須具明の内通で、彼らは信長に対し、伊賀を攻略する際は道案内をすると申し出ました。

同年9月、織田軍は雪辱を果たさんと言わんばかりに約4万4000人の兵を伊賀に投入。6方向から伊賀を攻め立てます。総大将は引き続き信雄でしたが、丹羽長秀や蒲生氏郷など、織田家の主力武将も多く参加しました。対する伊賀衆は植田光次や百地丹波、町井清兵衛、森田浄雲、百田藤兵衛をはじめとした伊賀惣国一揆の十二人衆を中心とした、約1万人強。戦力にだいぶ差があることから、信長の本気度合いがはかれますね。

攻め方を見ると、主力の信雄たちは伊勢に続く伊勢地口から伊賀に侵入。伊賀北部にある柘植口からは丹羽長秀や甲賀出身の滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷や脇坂安治、多羅尾口堀秀政たちが攻撃しました。伊賀南西部は笠間口から筒井順慶・定次、初瀬口からは浅野長政が攻め込んでいます。鼠一匹逃すものかという気迫すら感じる攻め方ですね。ちなみに、滝川一益とともに、六角氏滅亡後に織田方に下った甲賀忍者たちも伊賀攻めに加わっています。

織田軍の動きを知った伊賀衆は平楽寺(へいらくじ)で評定を開き、徹底抗戦を決定。平楽寺や比自山城(ひじやまじょう)などの拠点に籠城し、夜襲などのゲリラ戦で立ち向かいます。しかし織田軍の数にはかなわず、なおかつ織田軍の調略のせいで足並みもそろいません。平楽寺には約1500人の伊賀衆が籠城していましたが、滝川一益らにより陥落。このとき僧侶約700人が斬首されました。

当時の文献によれば、第二次天正伊賀の乱は織田軍によるかなり一方的な殺戮だったようです。織田軍は伊賀各地の神社仏閣や城砦などとともに、拠点を次々と焼き払いました。約2週間で伊賀全土が焼き尽くされたという話も伝わるほどで、伊賀側は最終的には、非戦闘民を含め全人口の3分の1にあたる3万人強の人々が命を落としたそうです。

激戦となった比自山城の戦い

第二次天正伊賀の乱のなかでも特に激戦となったのが比自山城での戦いです。城には伊賀衆が3500人、非戦闘員含めると約1万人が籠城していました。織田側の蒲生氏郷や滝川一益、丹波長秀らが幾度となく城を攻めるものの、なかなか落とすことができません。筒井順慶・定次は伊賀衆から夜襲を受けて大幅な打撃を受けています。ちなみに、この時伊賀衆で活躍した伊賀衆は「比自山の七本槍」と言われています。

しかし、伊賀衆は次第に食糧不足に悩まされるようになり、柏原城の別勢力と合流することを決定します。織田軍の総攻撃の前日には柏原城に向けて比自山城を脱出。織田軍が総攻撃で訪れた際は、城内はもぬけの殻だったそうです。織田軍はさぞかし憤ったことでしょう。

柏原城での最後の籠城戦

柏原城は伊賀衆最後の拠点となった山城です。総大将の滝野吉政を中心にした伊賀衆約1万6000人とその妻子が籠城しました。織田軍はある程度攻撃するものの、伊賀衆の決死の抵抗で自軍に被害が出たこともあり、戦法を兵糧攻めに切り替えます。膠着状態に陥るなか、奈良の猿学者の大倉五郎次が仲介に入り、伊賀衆に降伏を提案。伊賀衆は兵の人命保護を条件にし、織田軍が受け入れたことで城を開場し、乱は終結しました。その後、信長は伊賀を信雄に与えました。

なお、翌年の天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたことで、伊賀衆は再び決起し、各所で小規模な戦いを繰り広げます。柏原城については夜襲で織田軍から奪いましたが、最終的には織田軍が城を取り返しました。この戦いを「第三次天正伊賀の乱」と呼ぶことがあります。

ちなみに、名張市にはお盆に「明智さんにお灯明をあげる」といって、軒先の提灯に火をともすという風習があるそう。伊賀の人たちがいかに信長に敵意を持っていたかがわかるエピソードですね。

伊賀忍者を受け入れた徳川家康と「神君伊賀越え」

天正伊賀の乱の後、生き残った忍者たちは散り散りになり、各地の武将に仕えます。こうした伊賀の忍者を拾った武将の一人が徳川家康。もともと服部半蔵が仕えていたこともあり、受け入れやすかったのかもしれませんね。

伊賀の忍者が再び注目されるのが、本能寺の変直後の家康の「神君伊賀越え」です。家康は本能寺の変の数日前から、信長の招きを受けて堺(大阪府)を見物していました。本能寺の変発生の報を受けたとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの家臣30人あまり。一時は絶望して自害をはかろうとした家康でしたが家臣に諭され、光秀に狙われる可能性があるなか三河に帰ろうとします。伊賀を通過して伊勢から船で本国の三河にわたる「伊賀越え」を採用しますが、その際に助けたのが伊賀衆たちでした。

服部半蔵の人脈がものを言ったということかもしれませんが、天正伊賀の乱の後に伊賀衆を受け入れた家康に恩を感じていたことが協力した一因かもしれません。歴史はこうしたつながりを見るのが面白いですね。

なお、甲賀の忍者もこの時家康を救っており、後に伊賀衆とともに徳川家康に仕えることになります。そして戦が落ち着いた江戸時代、伊賀衆は服部正成の元、伊賀組同心として幕府に召し抱えられ、江戸城の警備にあたりました。

一方伊賀国は、江戸時代初期に筒井定次が藩主として治めていましたが、お家騒動が勃発したことで改易になり、その後藤堂高虎が藩主に就きました。伊賀衆は高虎の元、士族階級となり、武士として活躍しました。

天正伊賀の乱の跡地を巡る

第二次天正伊賀の乱の際、伊賀衆の拠点は織田軍により焼き払われたため、当時をしのばせるものは石碑や郭跡などの遺構がほとんどです。現存するものがほぼないことから、織田軍の凄まじさがよくわかりますね。

とはいえ、地元の観光協会のウェブサイトを中心に、乱に関係のある場所が紹介されています。例えば平楽寺の跡地には現在伊賀上野城が建ち、周囲は公園になっていますが、公園内には寺だったころの五輪の塔や石仏といった遺物が残されています。柏原城跡では土塁や空堀の遺構を見ることができます。興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。

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執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。