筒井定次改易大名〜藤堂高虎の影に隠れた伊賀上野城の最初の城主

筒井定次

皆さんは筒井定次(つついさだつぐ)という戦国大名をご存じでしょうか?松永久秀と争い、本能寺の変の際に明智光秀につかずに日和見を決め込んだことで有名な筒井順慶の後継者で、豊臣秀吉に仕え、関ケ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に与した結果、伊賀一国を任された武将です。

 藤堂高虎がかかわった伊賀上野城を建てたのは筒井定次なのですが、関ケ原の戦いの後には改易させられた挙句、豊臣方と通じたという理由で切腹させられるという、主君を次々と変えて効率的にのし上がった藤堂高虎と比べるとなんとも切ない最期を迎えています。今回はそんな筒井定次の人生を追いかけてみます。

筒井順慶の養子となり、筒井家を継ぐ

筒井定次は永禄5年(1562年)、和泉国(大阪府)を本拠地としていた慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれました。その後、本家筋の筒井順慶(叔父で従弟にあたる)に子供がいなかったため養嗣子となりました。織田信長に気に入られていたそうで、14番目の娘を妻に迎えています。

信長の死後、順慶が豊臣秀吉に仕えたため、定次は大阪城で人質として過ごすことになります。天正12年(1584年)には順慶とともに小牧・長久手の戦いに参戦しており、定次の家臣である松倉重信が奮戦したことで、右近大夫に叙任されました。

天正12年(1584年)に順慶が36歳で病没すると、26歳でその跡を継ぎ、大和郡山(奈良県)城主になりました。また、羽柴姓を名乗ることを許され、従五位下伊賀守に任命されています。

天正13年(1585年)の紀州征伐では、堀秀政らと千石堀城を攻めて大奮戦。四国攻めでは中村一氏や蜂須賀正勝などと共に先鋒を務め、木津城を攻撃するなど、活躍を見せています。

左遷?栄転?国替えの謎

天正13年(1585年)、豊臣秀吉は大規模な国替えを実施します。本拠地の畿内を身内と側近で固めるためにおこなったものですが、これにより筒井定次は大和国から伊賀上野(三重県)に領地を移すことになります。大和国には秀吉の弟の豊臣秀長が入国しました。

国替えについては、大和国に豊臣秀吉の弟が入国していること、大和国の寺社勢力と筒井定次の間で争いがあり、家臣団が分裂しかかっていたということから、「事実上の左遷ではないか」という説があります。国替え先の伊賀上野の石高はわずか5万石で、大和国から大きく減ってしまったという資料もあります。

一方で、江戸時代の資料では国替え前の大和45万石のうち、与力を除いた筒井氏の石高は18万石で、伊賀への国替えの際は伊賀12万石、伊勢の内に5万石、山城の内に3万石の合計20万石を与えられたと書かれています。2万石の加増、つまり栄転だったいうことです。

伊賀は豊臣の本拠地である大阪を守り、関東に備える重要な拠点でもあるので、秀吉が定次を重用していた証左でもあるとも言えますが、どちらが正しいのか議論が分かれるところです。

島左近に見放された武将

筒井定次の部下として有名なのは「鬼左近」と言われる猛将・島左近です。後に石田三成に仕え、関ヶ原で三成とともに戦死した名将ですが、もとは筒井順慶の重臣でした。

前述の通り、定次が伊賀上野に領地を移したころは、家臣たちの間で対立が激化していました。しかし、定次にはそれをうまくコントロールするだけの力が不足していたようです。そんななか、定次が重用していた家臣、中坊秀祐と島左近の間に、灌漑用水を巡って対立が起きます。

一説によれば、夏の水不足の際に秀祐が用水路をせき止めたせいで左近の領地の田んぼに水が回ってこなくなったことが要因です。左近は秀祐に用水路のせき止めをやめるよう求めましたが聞き入れられなかったため新しい用水路を作ったところ、今度はそのせいで秀祐の領地の田んぼに水が回ってこなくなり、秀祐が定次に直訴したというものです。

秀祐を重用していた定次は左近に非があると裁定しました。秀祐に有利な裁定をしたことに怒りを感じた左近は、筒井家を離れることを決意しました。

また、左近が色欲におぼれていた定次を諫めたものの、定次が耳を貸さなかったことで主君としての愛想をつかした、という話も伝わっています。

松倉重政、森好高、布施慶春といった他の有力家臣たちも左近と前後して筒井家を去っており、その背景には秀祐一派の台頭があったといわれています。

ちなみに秀祐は後述しますが、筒井定次の末路を語るには欠かせないキーパーソンです。「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われたほど評価が高い左近。定次が寵臣の秀祐を優遇しなければ参謀としてもスキルが高かった左近が筒井家を離れることもなく、その後の凋落もなかったかもしれませんね。

戦で活躍を続ける

天正14年(1586年)には九州征伐もありましたが、筒井定次は伊賀国の留守を十市新二郎に任せて出陣し、豊臣秀長の部隊に所属し、日向高城攻めなどで活躍しました。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加しています。

天正20年(1592年)からは、豊臣秀吉が朝鮮に侵略した「文禄・慶長の役」にも出陣。しかし、肥前名護屋に詰めていたため朝鮮に渡航しませんでした。名護屋では酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させたという話が残っています。

筒井定次の逸話を見ると、酒や女におぼれていたというエピソードがあちらこちらで見受けられますが、一方で敬虔なキリスト教徒であり、文武両道、茶道をたしなみに書画や能楽に通じた文化人として評価されていたという話も伝わっています。

「キリシタン大名」としての筒井定次

筒井氏とキリスト教のかかわりは筒井順慶のころにさかのぼります。順慶は明智光秀の本能寺の変に加担した河内三箇城(大阪南部)の城主でキリスト教徒の三箇頼連(洗礼名:マンショ)と交流があり、明智光秀の死後、頼連をかくまいました。筒井定次も同様で、頼連の話を聞いてキリスト教に興味を持ったようです。天正20年(1592年)には、頼連にカトリック司祭のアレッサンドロ・ヴァリニャーノを紹介してもらい、長崎でキリスト教の洗礼を受けています。

ちなみに、2人の面会にはルイス・フロイスが同席していました。「日本史」にその時の様子や、キリシタン大名として有名な高山右近が定次のことを深い尊敬に価する人物であると評していたと書かれています。

関ケ原の戦いは東軍につく

豊臣秀吉と縁が深かった筒井定次でしたが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍につきました。

定次は伊賀上野城を兄の筒井玄蕃に預け、家康とともに上杉景勝を討伐するため会津征伐に赴きましたが、そのすきに石田三成に協力した西軍の新庄直頼・直定の親子などが伊賀上野城を攻撃。留守を預かっていた玄蕃は敵兵を恐れ、なんと徒歩で高野山に逃亡してしまいます。そのため伊賀上野城は西軍に奪われてしまうことに。慌てた筒井定次は徳川家康の許しを得て伊賀に戻り、城を奪還。その後関ヶ原へと駆けつけました。

お家騒動で改易!!その裏には徳川の影

関ケ原の戦いが無事に終わり、筒井定次には伊賀一国が安堵されました。しかし、慶長13年(1608年)、定次の運命を大きく変えるお家騒動、俗にいう「筒井騒動」が勃発します。

なんと、寵臣であったはずの中坊秀祐が、定次の不行状を幕府に訴えたのです。内容は定次が悪政を敷いている、鹿狩りに熱中しすぎている、酒色にふけっている、といったことだったようですが、これにより筒井氏は改易させられてしまいます。

ちなみに、このころ定次の周辺では、大火災が発生して城下町や城に大きな被害をもたらしたり、その復興問題で家臣たちの対立がさらに激化したりと、非常にごたごたしていました。定次本人も病に侵されていた、精神的な疲労から酒におぼれていた、との話も伝わっています。

改易の理由は、表向きは中坊秀祐の訴え通りですが、現在はさまざまな政治要因が重なった結果だと分析されています。改易の裏の理由として挙げられるものは以下の通りです。

  • 筒井定次がもともと豊臣方の大名であり、豊臣秀頼臣下の大野治長や古田織部らと交誼を続けていること、大坂城にいる秀頼に、武士の重要行事と位置づけられていた年賀の挨拶に毎年赴いていることを幕府が危険視した
  • 徳川家康としては、対豊臣氏の重要拠点である伊賀を、もともと豊臣寄りだった筒井氏ではなく信頼している藤堂高虎に任せたかった
  • 筒井定次がキリシタン大名であり、領内でキリシタンを優遇していたため幕府から睨まれた。見せしめの意味もあった

定次と秀頼の距離が近かったことを徳川家康が問題視していたため、対豊臣戦略として改易に至った、という見方が強いようです。事実、定次の後任の藤堂高虎は伊賀上野城に移ったのち、城を対豊臣用に大幅に改築しています。

また、そもそも秀祐と家康との間では何らかの裏取引があったとされています。事実、改易後に秀祐は幕臣として取り立てられて奈良奉行に任じられています。当時は世間で秀祐が逆臣であるという旨のざれ唄が流行ったほどでした。

裏取引に成功したかにみえた秀祐でしたが、慶長14年(1609年)に定次の旧臣である山中友記により、伏見で暗殺されてしまいます。殺害後、友記は伏見の町中に高札を立て、主君の恨みを晴らしたことを触れ回ったそうです。

筒井定次の最期

改易後、筒井定次は徳川家康の重臣である鳥居忠政のもとに預けられました。そして慶長20年(1615年)3月5日、大坂冬の陣で豊臣氏に内通したという理由から、嫡男の順定と共に自害を命じられ、切腹しました。2人の遺骸は伝香寺の住職が大安寺に葬り、伝香寺に石塔を建立したと伝えられています。

文献によれば大坂冬の陣の際、大坂城から放たれた矢に筒井家で使われているものがあったということが、内通を疑われた理由だそうです。

筒井家は定次の従弟に当たる筒井定慶が継ぎ、大和郡山城1万石を家康から与えられました。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に大和郡山城を攻め落とされ、定慶は隠棲、もしくは切腹したと伝えられています。これにより、定次流の筒井氏は消滅しました。なお、他の筒井氏一族は現在まで続いています。

筒井定次が築城した伊賀上野城とは

筒井定次の生涯とは切っても離せない伊賀上野城は、標高184mほどの丘にある平城です。もともとは平清盛ゆかりの平楽寺がありましたが、織田信長の天正伊賀の乱の際に伊賀勢の敗北とともに焼失しました。織田家の家臣である滝川雄利がその跡地に砦を築き、その後、筒井定次が平楽寺跡近辺の台地に築いたのが、伊賀上野城です。

伊賀上野城は大阪の豊臣家を守るために建てられた城で、定次は丘の頂上を本丸として、東寄りに三層の天守を建て、城下町は古くから開けた北側を中心にしました。ちなみにこの天守は寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されています。現在は天守跡に「筒井天守跡石碑」がひっそりと建っているほか、当時の石垣が一部残されています。

定次の次の藩主である藤堂高虎は「築城の名手」として知られています。高虎は定次時代の御殿などを再利用しつつ、城を西に拡張しました。城下町も南側に移しています。慶長16年(1611年)には高さ約30mにも及ぶ高石垣が完成。現在でも残された石垣は迫力満点で、見所の一つとなっています。

徳川家康に仕えた高虎の目的は打倒豊臣。伊賀上野城も大阪を攻めるための城として作り変えられました。

大規模改修の結果、5層の天守閣が誕生するはずでしたが、建築中の1612年(慶長17年)に台風により崩壊してしまいます。1615年(元和元年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したこともあり、天守は再建されずに終わりましたが、外廓には10棟の櫓と長さ約40mという巨大な渡櫓(多聞)をのせた大手門、御殿などが建設されました。

ちなみに現在の伊賀上野城には3重天守がありますが、これは地元の政治家である川崎克氏が支援者の協力を得ながらも私財をなげうって復興資金を調達して建築。昭和10年(1935年)に完成した「模擬天守」です。木造三層の大天守と二層の小天守からなり、「伊賀文化産業城」と名付けられましたが、その美しい姿から「白鳳城」とも呼ばれています。

内部は伊賀上野城の歴史がわかる展示物に加え、藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領したという黒漆塗の兜や、筒井定次時代の本丸跡から出土した陶芸作品などが展示されています。

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執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。