武田信玄風林火山の旗を掲げた甲斐の虎

武田信玄

戦国時代を通じて、日本を統一し江戸幕府を開いたのは徳川家康でした。
その家康が戦って敗北し、また尊敬した人物が甲斐(現在の山梨県)の武田晴信(後年出家して武田信玄と名乗りました)です。
また家康と並び戦国三英傑の一人に挙げられる織田信長も、晴信とは極力対立しないように苦心していました。
そんな戦国を代表する英雄たちが恐れた武田信玄を、今回はご紹介したいと思います。

武田晴信の誕生

武田信玄は、大永元年(1520)11月3日、甲斐国守護であった武田信虎の子として生まれます。生まれた時には兄がいましたが、夭折した為、信玄が嫡男となりました。
大永5年(1525年)には弟・次郎(のちの武田信繁)が生まれます。
ところが父信虎の愛情は弟に移り、信玄を徐々に疎むようになったと言います。
信虎は、関東地方において勃興した北条氏(後北条氏)と国境において抗争を続けていました。その関係から天文2年(1533)、北条と対立していた扇谷上杉家当主の上杉朝興から娘(上杉の方)を信玄の正室として迎えられます。
しかし、天文3年(1534)に出産の折に難産となり、上杉の方も子も死去してしまいました。

天文5年(1536年)3月、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を幼名の「太郎」から「晴信」と改めます。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官されました。
元服後には左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えています。

武田信虎は諏訪氏や村上氏といった信濃(現在の長野県)の国人衆と同盟し、信濃国佐久郡の侵攻を進めました。武田信玄の初陣は、天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めと考えられています。

信玄は天文10年(1541)、信虎の信濃侵攻に従軍し海野平の戦いにも参加していました。ところが信濃の戦いを終え甲府へ帰陣した同年6月、板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌といった重臣たちと協議し、信虎の駿河追放が行われます。
信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元に会うために駿河国へ出向いたところ、信玄は国境を封鎖してしまいました。信虎は甲斐に戻ることができなくなり、今川義元の下で生活し、さらに生活の場を京へ移します。
ただ、これは晴信が単に追い出したという事でもなく、今川義元と相談し双方が信虎の生活の面倒を見ていたので、強制的に隠居させたのが真相のようです。
理由としては、信虎が信玄よりも弟の信繁を溺愛し、信玄の廃嫡(家督相続権を放棄させる)を企図していたことや、家臣との折り合いが悪かったことなど、晴信や家臣との人間関係の折り合いの悪さが原因と考えられています。
こうして武田信玄は甲斐武田家第19代目の家督を相続しました。

家督を継いでからの信玄

天文10年(1541)、武田信玄はおよそ二十歳で武田家を継ぎます。
信玄の父、信虎が周辺で対立していたのは相模国(現在の神奈川県西部)の北条家(後北条家)だけで、主に信濃国東信地方の小県郡(現在の長野県青木町、長和町)などを攻略途中でした。信玄は、信虎から家督を奪うと路線変更を行い、信濃国南信地方の諏訪(現在の長野県諏訪市)から侵略を開始します。
およそ4年かけて南信地域の諏訪・伊奈を奪い取ると、天文13年(1544)には対立していた北条家とも和睦。北条家と駿河国(現在の静岡県東部)今川家とが対立すると仲裁を行うなど外交力も発揮し、周辺国との関係を安定化させます。

周辺国と良好な関係を築くと、本格的に信州へ侵攻を開始しました。
信濃守護の小笠原長時、小県領主村上義清らと対峙します。村上清明とは、上田原の戦い、砥石崩れなどで武田晴信を支えた板垣信方、甘利虎泰ら多くの将兵を失い、信玄自身も怪我を負いました。
しかし、およそ10年に及ぶ侵攻で天文22年(1553)、村上義清は越後(現在の新潟県)国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れます。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、信玄は北信地方を除く信濃をほぼ平定しました。

武田信玄のライバル上杉謙信

村上義清をはじめ武田信玄に追われた信州の武将が頼ったのが長尾景虎(のちの上杉謙信)です。
越後守護代の長尾為景の子に生まれ、信玄より10歳年下でした。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、越後を統一したほか、関東や信州(現在の長野県)北部、北陸地方(越中国以西)に度々出兵し、その神懸った戦績から「軍神」や、「越後の龍」などと称されます。

相模の北条家に追われ、越後へ逃れてきた関東管領上杉憲政は景虎を頼ります。景虎は憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ、室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎました。長尾家から上杉家に姓を変え、関東管領になると越後から関東へ遠征し、北条家と争います。
 
また武田信玄が信濃に侵攻した当時、領地を追われた小笠原家や村上家は景虎を頼ります。そして、これらの人々の要請を受け信濃を取り戻すべく、景虎は越後より出陣し武田晴信と対決することになりました。

川中島の戦い

武田信玄と上杉景虎とが北信濃(長野県北部)の支配権を巡り戦った川中島の戦い。
川中島の戦いは、合計5回行われました。そのうち有名な戦いが永禄4年(1561)に起こった4回目の戦いです。
第4次の戦いは千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)と推定されており八幡原史跡公園(別名川中島古戦場)が主戦場だったと言われています。

景虎は京に上洛し将軍・足利義輝に拝謁します。
そこで、関東管領就任を正式に許されました。永禄3年(1560)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がりました。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城します。(小田原城の戦い)。
危機に陥った北条氏康は、同盟者の武田信玄に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の留守で手薄となった越後を脅かします。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵すると、景虎は小田原城の包囲を解きました。

関東制圧を目指す景虎にとって、背後の信濃と越後との国境を固めることは急務でした。
永禄4年8月、景虎は越後国を進発し善光寺を経由して妻女山に布陣します。これに対し武田信玄は海津城に入り、対陣し膠着状態に入りました。
膠着状態に入りいたずらに時間が過ぎるのを打開すべく、武田家は作戦を立てます。

海津城に入った武田の軍を二つに分け、武田信玄の率いる本隊が上杉家の正面である八幡原に移動し、残る一つが上杉家の後ろに回ります。
後ろに回った軍が上杉家のいる妻女山に攻め入り、驚いた上杉家が正面の八幡原に出た所を晴信の軍が待ち伏せしている、といった作戦でした。これを「啄木鳥作戦」と呼びます。

9月9日、作戦に従い武田家は移動の準備を始めます。
ところが景虎は海津城からの炊煙(食事を作るときの煙)がいつになく多いことから、武田家が動くことを察知しました。上杉家は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じ密かに妻女山を下ります。
晴信は明け方、霧の深い八幡原に移動し布陣を完了しました。
ところが晴信の眼前に霧の中から軍勢が現れます。妻女山より下りてきた上杉の軍勢でした。武田家はいきなり現れた上杉の兵に押され防戦一方となります。

この時、上杉の軍からただ一騎、武田晴信の陣になだれ込み、晴信と刃を交えた武将がいました。上杉景虎です。景虎が刀を振り上げ、晴信が軍配(兵に指示をする時に振るう指示棒)で受け止める伝説的な場面と伝わっています。
戦いが進むにつれ、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次といった武将が討死、武田本陣も壊滅寸前となるなど危機的状況に追い込まれます。
しかし、昼前になると妻女山の裏に回っていた武田の別動隊が八幡原にたどり着きました。
今度は、上杉が挟み撃ちになります。形勢不利となった景虎は、兵を引き犀川を渡河して戦場を離脱しました。

こうして、激戦となった第4次川中島の戦いは幕を閉じたのでした。

武田信玄と織田信長

上杉景虎と度々対峙していた武田信玄ですが、その間にも周辺国へ精力的に侵攻しています。
甲斐(現在の山梨県)から関東方面へ進出を考えていた信玄は、上野国(現在の群馬県)へ侵攻します。また、同盟関係にあった駿河国(現在の静岡県東部)の今川家でしたが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川領に侵攻し併呑します。

武田信玄が周辺国へ侵攻している頃、京都を中心とした情勢も変化します。
尾張国(現在の愛知県西部)の一領主に過ぎなかった織田信長が尾張、美濃(現在の岐阜県)を平定し2か国の領主となったのは永禄10年(1567)の頃でした。
その頃から、武田信玄と織田信長は国境を接し、外交関係が始まります。

永禄8年(1565)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を、信長の養女として信玄の息子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結びました。
その養女は男児(後の武田信勝)を出産しましたが、直後に死去します。続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しました。
織田家は武田家と三河国(現在の愛知県東部)の徳川家の両方と同盟を結ぶ一方、武田家と徳川家とは三河・遠江(現在の静岡県西部)をめぐり対立を続ける関係にありました。

三方ヶ原の戦いと晩年

永禄11年(1568)9月7日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、近畿を勢力下に治めます。これに対して、近畿周辺の浅井家や朝倉家、三好家、六角家、あるいは石山本願寺といった勢力が信長に抵抗します。

元亀元年(1570)、信長と争っていた石山本願寺の顕如と信玄(両者の妻は姉妹でした)が、連絡を取り合い武田家上洛の気運が高まります。
元亀3年(1572年)10月、信長と対立した将軍足利義昭の呼びかけに応じる形で武田晴信は甲府を出発し京へ向かいました。
最初に隣国の遠江や三河を領する徳川家康が信玄の上洛を妨げていた為、徳川家の諸城を攻め落としながら進みます。

各地の城を落とされ追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せましたが、浜松城を包囲する事無く西へ向かう武田軍の動きを見て浜松城から出陣します。
浜松城から出陣した徳川家康でしたが、それを見越して待ち構えていた武田家と遠江三方ヶ原で交戦し、敗退しました(三方ヶ原の戦い)。

ところが勝った武田家は、三河の野田城を落とした直後から進軍を停止します。
この時、武田信玄が度々吐血し持病が悪化していたためだと言われています。信玄は長篠城において療養していましたが、家来の合議で甲斐に撤退することとしました。

元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で武田信玄は死去。享年53才でした。臨終の地点は三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)、あるいは浪合や根羽といわれています。

武田信玄の居城、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とは

武田信玄が居城としていた躑躅ヶ崎館。
躑躅ヶ崎館は、信玄の父である武田信虎が永正16年(1519)、甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲府市)に建てました。翌年の永世17年には城下町を整備し、家臣を城の周りに住まわせています。
信玄の時代に入ると、拡大した城下町に限界が訪れ、天文17年(1548)には庶民の屋敷建築が禁止されました。甲府盆地に作った城下町では土地の広さに限界があったためです。
武田勝頼の時代には、長篠の戦いで負けた事もあり、新府城(現在の山梨県韮崎市)を築き、躑躅ヶ崎館から移転しています。

武田氏滅亡後、甲斐を統治したのは織田家臣の河尻秀隆でした。秀隆は躑躅ヶ崎館で政務を行いましたが、本能寺の変が勃発し、秀隆はその後の混乱の中で落命します。
秀隆が討たれた後に甲斐を治めたのは徳川家康でした。
家康によって躑躅ヶ崎館は改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれました。しかし天正18年(1590)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城され、以降は甲府城を中心とした広域城下町として発展しました。

躑躅ヶ崎館は、外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中心部の建物は中世式の武家館でした。
現在、跡地には大正8年(1919)に創建された武田神社があります。

武田信玄ゆかりの場所

武田信玄公銅像
山梨県甲府駅の駅前にある武田信玄の銅像。
有志の寄付により建てられ、昭和44年(1969)4月12日の信玄の命日に完成しました。台座3.1m、信玄像3.1m、合計6.2mの堂々とした像で、川中島の戦いの姿を模しています。春になると、像の両脇に桜の花が咲き誇り、像を彩ります。
武田神社
武田神社は、武田信玄の父である武田信虎から三代にわたって武田家の当主が居住し、甲斐国の政務を執った躑躅ヶ崎館の館跡に大正8年(1919)、創建されました。信玄とその後継者である武田勝頼まで、63年にわたって住み継がれ、堀や土塁、古井戸は当時のまま保存されています。
八幡原史跡公園(はちまんぱらしせきこうえん)
別名川中島古戦場とも呼ばれる場所です。
川中島の戦いの際に武田信玄が本陣を置いたとされる場所でした。妻女山を下り武田本陣に攻勢をかけた上杉勢。そこからさらに単騎乗り込んで来て武田信玄に切りつけた上杉謙信。両将一騎討ちの伝説を生んだ地でもあります。
信玄公祭り
山梨県甲府市において、毎年4月12日(武田信玄の命日)の前の金曜日から日曜日にかけて行われている、武田二十四将を模した時代行列である「甲州軍団出陣」を目玉としたイベントです。前身は昭和22年(1947)の「桜祭り」から始まり、昭和45年(1970)に「信玄公祭り」へと名称を改められました。

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執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。