九戸政実の乱(1/2)秀吉の天下統一最後の戦い

九戸政実の乱

九戸政実の乱

記事カテゴリ
事件簿
事件名
九戸政実の乱(1591年)
場所
岩手県
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天正19年(1591年)3月、天下統一をほぼ成し遂げていた豊臣秀吉の前に立ちふさがった最後の敵、それが南部氏の九戸政実(くのへまさざね)です。南部家当主とそれを支持する秀吉に対して反乱を起こし、秀吉率いる6万5000の大軍にわずか5000の兵で立ち向かいました。「九戸政実の乱」や「九戸一揆」と呼ばれる、この無謀ともいえる秀吉への反抗はなぜ起きたのでしょうか。今回はそんなに九戸政実の乱について解説していきます。

九戸政実ってどんな人?

九戸政実は天文5年(1536年)、陸奥国(現在の青森県)を治める南部氏の支族である「九戸氏」の武将、九戸信沖の子として九戸村(岩手県九戸郡)で生まれたと伝わっています。南部家は各氏族たちが協力して家中を治めており、九戸氏はそのなかでも有力氏族として、九戸を統治していました。

政実自身は武勇に優れた武将として名高く、九戸氏24代当主として勢力を拡大していきます。永禄12年(1569年)には24代南部家当主、南部晴政の要請で出羽国(山形・秋田県)の安東氏と戦い、鹿角郡(秋田県)を奪還するなど活躍を見せました。

後継者争いで南部氏内が大荒れに

南部氏と九戸氏は良好な関係を築いており、南部晴政の娘は九戸政実の弟・九戸実親に嫁いでいます。縁戚関係にあったわけで、2氏の仲は良好でした。ところが天正10年(1582年)、晴政の死による跡継ぎ問題の勃発で、そうした関係は徐々に悪化していくことになります。

当初晴政が跡継ぎとしていたのは、晴政の従兄弟であるの石川高信の子どもの信直でした。跡継ぎの男子が生まれなかった晴政が、永禄8年(1565年)に長女の婿養子に迎えて跡継ぎとしていたのです。

ところが元亀元年(1570年)、晴政に嫡男(のちの南部晴継)が誕生。義理の息子よりも実子に後を継がせたいというのは親の人情なのでしょうか、晴政は信直を疎ましく思うようになり、天正4年(1576年)に跡継ぎを晴継に変更します。

信直は晴政に一時抵抗したようですが、妻である晴政の長女が他界したことをきっかけに養子の座を辞退します。しかし、晴政はその後も信直を警戒し続けます。信直も晴政による刺客を警戒し、重臣の北信愛の城などに身を隠しています。こうして南部氏の家中は晴政・九戸派対信直・北派が対立するようになっていきます。一説によれば、晴政の死は信直による暗殺だったとか。2つの派閥の間の対立はかなり根深かったようです。

とはいえ、跡継ぎは晴継と決定していたわけですから、そのまま行けば晴継が25代目として南部家を盛り立てていくことになっていたでしょう。ところがなんと晴継は疱瘡にかかり、13歳の若さで病没してしまいます。

このため、家臣は急遽26代目を決めるための会議を開催します。この際に跡継ぎとして名前が挙がったのが、晴政の長女の娘婿である信直と、次女の娘婿である九戸実親の2人。結局、北信愛が事前に他の支族を調略していたことなどが功を奏し、やや強引ではありますが、信直が26代目に決定します。九戸氏はこの決定に不満を抱き、南部氏との対立を深めていくことになるのです。

ちなみに、このころの南部氏については歴史的事実がはっきりしておらず、晴政の死や信直の家督相続は天正9年(1581年)だったという説、晴政の死は晴政の葬儀の帰りに信直に暗殺されたため、という説などがあります。があります。今後の研究に期待がかかりますね。

九戸政実の乱の原因、秀吉の「奥州仕置」とは

東北地方で南部信直と九戸政実が対立を徐々に深めている一方、西では日本全国を制圧しよう豊臣秀吉が動きを強めていました。秀吉は天正13年(1585年)に長曾我部元親を下して四国を、天正15年(1587年)に島津氏を討伐して九州を平定。天正18年(1590年)には小田原征伐で北条氏を下すとともに伊達政宗を降伏させました。残すは奥羽地方こと東北のみ。秀吉は天下統一の総仕上げとして、天正18年7月に奥羽地方の「奥州仕置(奥羽仕置)」を実施します。

奥州仕置とは、東北の大名たちに対して実施した領地の配置換えや処分、刀狩、検地などの諸政策のことです。天下をほぼ統一した権力者であるからこそ、東北の大名たちに口出しができたというわけです。

秀吉は奥州仕置の視察のために、伊達政宗の案内の元、蒲生氏郷や浅野長政率いる奥州仕置軍を東北に行軍させます。最終的には平泉(岩手県西磐井郡)周辺まで進軍して検地などを実施し、代官を配置して新体制へと移行させました。

この際、秀吉は南部信直に朱印状を発行し、信直を南部氏の宗家であると認めるとともに所領を安堵しています。実は信直は小田原征伐に1000の兵を率いて参加することで秀吉に臣従する姿勢を明確しており、それを秀吉に評価されたのです。その後、信直は奥州仕置軍に先鋒として従軍。完全に秀吉の配下に入りました。

奥州仕置が東北地方の火種に

豊臣秀吉による一方的な奥州仕置に反発したのが南部信直と敵対していた九戸氏の一族です。これまで南部氏は同族連合が協力して領地を治めていましたが、秀吉の朱印状が信直を認めたことで、九戸氏は信直の「家臣」になってしまいました。九戸氏はこの位置づけを大いに不満に思い、信直が従軍しているすきに信直側の武将である浅水城の南盛義を攻撃し、盛義を討ちとっています。

ちなみに、このころ奥州仕置に対する不満から奥州各地では陸奥国中部(宮城県北部~岩手県南部)の葛西大崎一揆や出羽国北部(秋田県)の仙北一揆、和賀郡や稗貫郡(岩手県)の和賀・稗貫一揆といった大規模な一揆が発生していました。このうち信直が関わったのは和賀・稗貫一揆。500の軍勢と共に一揆勢に攻められた鳥谷ヶ崎城(花巻市)にいる代官・浅野長政の救援に向かいましたが、間もなくやってくる冬の間に城を守り通すのは難しいと判断し、長政とともに三戸城に撤退しています。

そして天正19年(1591年)の正月、九戸政実は宗家、つまり信直への正月参賀を拒絶します。本来であれば信直のいる三戸城に挨拶に行くのがしきたりなのですが、無視したわけです。こうして政実は信直に敵対することを内外にはっきり示したのでした。これに対し信直側は政実の動きに警戒を強めます。2月には九戸氏に加え、櫛引氏、七戸氏など周辺の氏族たちが協力して蜂起しています。

九戸政実の乱①九戸軍5000vs秀吉軍6万5000!

そして天正19年3月、九戸政実はついに挙兵します。きっかけは九戸側の武将である四戸氏の櫛引清長が、南部宗家側の苫米地城を攻撃したこと。政実は約5000の兵で次々と南部信直のいる三戸城周辺の伝法寺城や一戸城などを攻撃しました。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03