山内一豊(1/2)戦国の出世と内助の功

山内一豊

山内一豊

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人物記
名前
山内一豊(1545年〜1605年)
出生地
愛知県
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戦国の時代。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、高知県を領地に持った大名がいました。山内一豊です。一豊の父は尾張国で織田信長に敵対し、滅ぼされました。一豊は放浪の末に織田家に仕え戦国を生き抜きます。この山内一豊の出世を助けたのが妻の千代でした。今回は江戸時代を通し高知県の国守として栄えた山内家の祖、山内一豊とその妻の千代について見ていきたいと思います。

誕生と放浪

山内一豊は、尾張国岩倉(現在の愛知県岩倉市)で岩倉織田家の家臣であった山内成豊の三男として生まれます。父の山内成豊は尾張羽栗郡黒田の地侍でしたが、岩倉織田家に仕えるようになり尾張黒田城代を任されるなど有力な家臣となりました。

ところで、岩倉織田家は尾張国のうち上四郡を支配するなど(下四郡は織田信長の織田弾正忠家が仕えていた清洲織田家)尾張国織田家の諸家のうちでも有力な家でしたが、織田弾正忠家(尾張国下四郡を支配していた織田大和守家を支えていた三奉行の一家)の家督を織田信長が継ぎ勃興してくると、衰退を余儀なくされます。
この尾張国の争いの中で一豊の父も兄も亡くなり、山内家は離散してしまいました。

一豊は山内家の家臣であった五藤浄基や祖父江勘左衛門と共に各地を放浪、尾張国や美濃国(現在の岐阜県)近江国(現在の滋賀県)において主君を変えながら仕えていきます。
やがて、近江国勢多城の城主であった山岡景隆に仕えましたが、その景隆が織田信長に仕えたにも関わらず出奔。
取り残された一豊は永禄11年(1568年)頃から織田信長の配下として仕えるようになりました。

織田家の家臣から羽柴家の直臣へ

山内一豊の初陣は元亀元年(1570)6月の姉川の戦いとされています。
天正元年(1573)に起こった朝倉家との戦い、刀禰坂の戦いでは矢が頬を刺さるという重傷を負いながらも敵将を討ち取る手柄を挙げました。この時、頬に刺さった矢を家来の五藤ため浄が引き抜き、その矢は五島家において家宝とされ現在も伝わっているそうです。

こうして戦いで手柄を挙げ、領地を与えられた山内一豊は婚姻を結びます。一豊の妻となった千代(或いは「まつ」とも)は、浅井家の家臣の娘であったなど諸説ありますが、天正元年(1573)ごろまでに結婚しました。

しかし天正4年(1576)には織田家の家臣であった羽柴秀吉の家来へと移ります。羽柴秀吉は有力な家臣になかなか恵まれず、織田信長の家臣の中から移ってくれそうな家臣を探し、声を掛けていました。声を掛けられた側も織田家の家臣から、羽柴家の家臣へと席を移す事になるため、身分が下がりますが領地はその分、増えます。
一豊はこの誘いに応え、織田家の家臣から羽柴家の家臣へと鞍替えしました。天正5年(1577年)には2000石を領しています。

羽柴秀吉は織田信長の命令で中国地方攻略に着手し、一豊も秀吉の麾下として三木合戦や鳥取城攻略、備中高松城の戦いなどに参加しました。

豊臣家の大名として

羽柴秀吉の麾下として仕えていた山内一豊でしたが、天正10年(1582)本能寺の変が起こり織田信長は亡くなります。
ここから信長亡き後の織田家内部で抗争が起こります。織田家の家老であった柴田勝家と羽柴秀吉は対立、賤ケ岳の戦いへと繋がっていきました。山内一豊は前哨戦の伊勢亀山城の攻城で一番乗りを挙げるなど手柄を立てていきます。

こうして羽柴家の中で地位を確立していく中で、一豊は羽柴秀次(後の豊臣秀次)の家老になります。そして秀次が近江国に領地を持つと、山内一豊も長浜城主となり2万石を領するようになりました。

織田家内部の抗争に勝ち天下を統一した豊臣秀吉は、天正18年(1590)小田原征討(後北条家の討伐)を行いました。この戦後処理で反発した織田信長次男の織田信雄が改易されると、一豊は遠江国掛川5万1000石に領地を与えられます。
こうして山内一豊は豊臣家内で小なりとはいえ大名としての立場を確立していきました。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が亡くなります。
秀吉の死後、五大老であった徳川家康と上杉景勝とが対立。家康は上杉討伐を行います。慶長5年(1600)に家康は会津討伐のため、大坂を出発します。一豊もこの討伐軍に加わり、家康に従って関東にまで至ります。

ところが下野国小山にまで来ると、大坂で石田三成が徳川家康討伐に立ち上がります。家康に着き従ってきた豊臣家の大名が去就に迷う中、一豊は徳川家康に従う旨を発し、しかも家康を中心とした軍のために居城である掛川城を提供する発言をします。

こうして大坂で立った石田三成の討伐のため、関東から引き返した徳川家康の軍に山内一豊も従います。一豊は関ケ原の戦いの前哨戦や、岐阜城の攻略、関ヶ原の戦い本戦にも参加しました。
関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わりました。

戦後、関東において積極的に家康の側に付く発言を評価され、土佐国9万8000石(後に石直しにより20万2600石)を徳川家から与えられました。
各地を放浪し、織田家、豊臣家に仕えた山内一豊は、一国の主たる大大名に出世します。

土佐の大名へ

関ヶ原の戦いが終わった翌慶長6年(1601)、山内一豊は掛川から土佐へと移ります。
大きな加増があり、新たな領地を治めるのに人手が必要でしたが、土佐国では旧主である長曾我部盛親の復帰を求めるなど反発が大きく、他の地域で求めた新規の家臣を引き連れての入国でした。

土佐国での反発は大きく、一豊は弾圧を加え抑え込むなどの施策を取ります。
同時に長曾我部家の居城であった浦戸城は水害の多い地域であったため、高知城を新規に築城しました。この高知城を中心に城下町が形成されて現在の高知市の原型が出来上がります。

新たな領地となった土佐国の経営に邁進した山内一豊でしたが慶長10年(1605)、高知城城中において亡くなりました、享年61。
一豊には子がいなかったため、弟である康豊の子、山内忠義が継いで以降明治時代まで土佐国は山内家によって統治されました。

一豊と妻・千代

山内一豊の妻、千代は(或いは「まつ」)弘治3年(1557)に近江国飯村で生まれたと言われています。出自は諸説ありますが、浅井氏家臣の若宮友興の娘という話が有力視されています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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