駿府城静岡県静岡市

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駿府城DATA
別称 府中城、静岡城
築城 1585年
住所 静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
電話番号 054-251-0016
開館時間 9時~16時30分(入場は午後4時まで)
休館日 月曜日(祝日、休日にあたる場合は休館振替なしで営業)、年末年始(12月29日~1月3日)
登閣料 大人360円/小・中学生120円

徳川家康の大御所時代の居城。将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました。

駿府城への交通アクセス
JR静岡駅から徒歩約15分。

HISTORY 家康が大御所政治を行なった駿府城

駿府城は、静岡県静岡市葵区にあった平城です。戦国時代は今川氏の領国支配地の中心であり、徳川家康が徳川秀忠に将軍職を譲った後、大御所政治を行なった城としても有名です。 そんな駿府城の歴史を紐解いて行きましょう。

今川館として築城
駿府(現在の静岡県静岡市)は14世紀より室町幕府より駿河守護に命じられた今川氏が支配していました。 駿府城の前身は、今川氏が建てた今川館といわれています。 今川氏といえば、戦国大名の今川義元が有名ですね。 今川義元もまた、今川館の主人でした。 今川氏は国境を接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結んでいました。 しかし、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こって今川義元が戦死すると領国拡大を企む武田信玄が今川氏との同盟を解消します。 そして永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河侵攻を開始し、今川館は戦火で焼失しました。 その後、一時的に武田信玄が駿府を手中に収めますが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡します。 武田氏滅亡により、駿府は徳川家康の所領になりました。
駿府城築城から明治時代まで
駿府を所領にした徳川家康は、天正13年(1585年)より駿府城築城を開始します。 天守閣を備えた近世城郭であり、翌天正14年(1586年)徳川家康は17年過ごした遠江国浜松城より、駿府城へ拠点を移しました。 その4年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。 その後、豊臣秀吉は、徳川家康の関東移封が行い、江戸を与えて駿府を取り上げてしまいました。 徳川家康が去った後の駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城します。
その後、江戸幕府を開いた徳川家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、自身は当時駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府城に入って隠居を宣言します。 しかし、政治的な影響力は未だ大きく家康自身も秀忠の政に盛んに口を挟んだため、「大御所」と呼ばれるようになりました。 家康が隠居所として駿府城を選んだことで、駿府城は戦国時代の実戦的な城から3重の堀を持つ輪郭式平城へ大改修が行なわれ、現在のような形になります。 特に、天守台は石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であったことが、後年の調査で分かっています。 また、天守曲輪は7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造でした。 慶長14年(1609年)、徳川家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封したことで、家康が隠居して以来廃藩となっていた駿府藩が復活します。 しかし、寛永10年(1633年)以降は再び幕府直轄地となり、独立した駿府藩となることはありませんでした。 城には代々城代がおかれて明治を迎えます。
駿府城は寛永12年(1635年)城下の火災が城に延焼し、大半が焼失してしまいましたが、このとき、城主がいないからと天守が再建されることはありませんでした。 また、宝永4年(1707年)には宝永大地震によって石垣などが大破し、建物の3分の1が再び焼失してしまいます。 その後も、安政の大地震で再び石垣や建物がほぼ全壊するなど、天災に遭いやすい城でした。 それでも、徳川家康が隠居所に選んだ城であり、幕府の直轄地ということでその度に丁寧な修復が行なわれています。 駿府城が再び世の中の注目を集めたのは、最後の将軍徳川慶喜の時代です。 徳川慶喜率いる幕府は慶応3年に大政奉還を行なった後、新政府軍と戊辰戦争を勃発させます。 新政府軍に大敗した旧幕府軍は、徳川慶喜を上野寛永寺に謹慎させたうえ、駿府城に入城した西郷隆盛にむけ、山岡鉄舟を使者に送り恭順の意を示しました。 現在も、静岡駅前には、上伝馬町の松崎屋源兵衛宅で会見をした西郷隆盛と山岡鉄舟の碑が残っています。
明治以降の駿府城
駿府城は戊辰戦争の際に西郷隆盛が入城しましたが、大きな破損もなく明治政府に引き渡されました。 その後、駿府城は建物が順次壊されていき、敷地の南側が県庁となり、それ以外は茶畑に転用されます。 明治24年(1891年)駿府城の敷地は静岡市に払い下げられ、公園となりました。 また、明治29年(1896年)には歩兵第34連隊が誘致され、内堀も埋め立てられて城郭内に残る建物も全て取り壊されます。 平成元年(1989年)より、巽櫓をはじめとする駿府城の遺構が順次復元され、資料館として公開されるようになりました。 平成24年(2012年)駿府公園が駿府城公園に名前を改めます。 そして、平成28年(2018年)より天守台の発掘調査が始まり、現在も次々と新しい発見が成されています。
まとめ
現在、駿府城公園は中堀と東辺以外の外堀が遺構として残っており、復元された建物と併せて、在りし日の姿を偲ぶことができます。また、公園内には紅葉山庭園や茶室、児童公園などがあり、市民の憩いの場兼観光名所でもあります。 2023年は徳川家康が主人公の大河ドラマも放送されることから、イベントも多数予定されているので、賑やかな年になりそうです。

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駿府城を藩庁とする、駿府藩の歴史

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駿府藩
駿府藩DATA
藩庁 駿府城
旧地域 駿河国・遠江国・三河国
石高 70万石
譜代・外様 親藩
主な藩主 内藤家、家康直轄領、徳川家

伊豆韮山より徳川家譜代の家臣・内藤信成が4万石で入封し、駿府藩が成立。その後、信成は近江長浜藩に移封され、替わって大御所となった徳川家康が、駿府城に入り駿府藩は廃藩。

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