豊臣秀吉戦国一の出世頭
豊臣秀吉
室町時代後期、世の中が荒れ戦国と呼ばれた時代。その戦国時代にあり、裸一貫から身を起こし天下を統一した英雄がいました、豊臣秀吉です。秀吉は織田信長に仕え、武士ともいえない小物から頭角を現し、織田家の有力な武将へとなっていきます。更に信長が悲運のうちに倒れた後、織田家の勢力争いにも勝ち天下を統一していきました。今回は、そんな豊臣秀吉を紹介していきたいと思います。
出生と放浪の日々
豊臣秀吉は天文6年(1537)、尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれます。出自ははっきりとしていませんが、農民、あるいは下層武士の家に生まれ、幼名を「日吉丸」と言いました。実父を早くに亡くし継父と折り合いが悪く、家を飛び出した日吉丸は行商や野盗を行いながら各地を回ったと言われています。
青年期、秀吉は木下藤吉郎と名乗り、東海道を治めていた今川家家臣、松下加兵衛に仕えましたが、程なくして松下家も出ます。若き日の秀吉はこのように各地を放浪して過ごしました。実際の豊臣秀吉の幼少期に関しては、江戸時代に書かれた『絵本太閤記』や『太閤素性記』に書かれている事が広く伝わり、出生の家や誕生日など詳しい事は正確に伝わっていません。
木下藤吉郎、織田家に仕える
天文23年(1554)、木下藤吉郎17歳ごろ。
尾張国の一部を領していた織田信長に小物(奉公人、召使い)として仕えます。良く働く小物として目立った藤吉郎は、清須城の普請などで頭角を現しました。
この時の逸話として有名なのが、草履取りの話です。信長の草履取りをしていた藤吉郎は冬の日に信長の草履を懐で温め、信長の履くときに出した事で、主人への忠義を知った信長が藤吉郎を取り立てた、というお話です。
永禄7年(1564年)、織田家は美濃国(現在の岐阜県)を攻めました。この時、藤吉郎は斎藤家の家臣を計略により下らせています。降らせた坪内氏への安堵状が「木下藤吉郎秀吉」名義として現存しており、秀吉の名前のある最も古い資料とされます。
また永禄9、10年(1566、67)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話があり、美濃国の国人衆であった蜂須賀正勝、前野長康や斎藤家の武将であった竹中半兵衛を配下として組み入れています。こうして木下家として徐々に形を作っていきました。
元亀元年(1570)4月、織田家は越前国(現在の福井県嶺北)へ朝倉家討伐の為に進軍し藤吉郎も従軍します。ところが金ヶ崎まで進んだところで、同盟関係にあった浅井家の裏切りにあい、背後を襲われます(金ヶ崎の退き口)。秀吉は殿軍の一人を務め手柄を挙げました。この後、織田家は近江国北部(現在の滋賀県北部)にあった横山城を奪い、藤吉郎に城代を任せました。
元亀3年(1572)、藤吉郎は織田家重臣であった丹羽長秀、柴田勝家にあやかろうと苗字を羽柴性へと変え、羽柴秀吉と名乗ります。
羽柴秀吉と出世の階段
天正元年(1573)、近江国北部を領していた浅井家が織田家によって滅ぼされると、その領地のうち三郡を羽柴秀吉に与えます。秀吉は今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となりました。
長浜を治めた秀吉は年貢や諸役を免除したため近郊より人が集まり賑わいます。その集まった者の中から旧浅井家家臣や近郊の国人衆を配下へ組み込み、木下家を大きくしていきました。 この後、織田家が行う長篠の戦いや北伊勢の平定、信貴山城の戦いに参戦します。
天正5年(1577)、織田信長は羽柴秀吉に中国地方の攻略を命じました。秀吉は順調に出世していき、この頃には織田家の有力な将として台頭していました。
播磨国攻略以前から親交のあった小寺孝高(黒田官兵衛)を配下に迎え、姫路城を中国地方平定の拠点とし手を付けた秀吉は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の国人衆から人質を取る見返りに安堵し、平定していきます。播磨国を押さえた秀吉は、そこから但馬国も攻め始めます。
天正7年(1579)、毛利家との攻防の末、備前国、美作国(現在の岡山県)を支配する宇喜多直家を服属させ順調に進めていきます。ところが、中国地方侵攻の途中で織田家に属していた摂津国の荒木村重が反旗を翻し、一時中断を余儀なくされます。
事態が落ち着いた天正8年(1580)再び中国地方の攻略を進めていき、但馬国も平定しました。
本能寺の変と山崎の戦い
天正10年(1582)、羽柴秀吉は備中国(現在の岡山県西部)へ侵攻します。備中高松城を囲んで水を注ぎこみ水攻めにしました。これに対して中国地方の雄、毛利家も応援を出し、秀吉と毛利家は対峙します。秀吉は主君の織田信長に援軍を要請しました。
織田信長は各地で戦っている兵を中国地方に向かわせ、自らも京まで進みます。
ところが天正10年(1582)6月2日、織田信長は京都の本能寺において、家臣の明智光秀により攻められ自害しました(本能寺の変)。
主君が京で自害した話は秀吉にも届きます。話を聞いた秀吉は毛利家とすぐさま講和、講和した直後、軍を引き払い京へ舞い戻りました。
京都で本能寺の変がおこったのが6月2日、その約10日後の6月13日には山崎において明智光秀と対峙しています。10日で230キロを走破したこの秀吉の進軍は「中国大返し」と呼ばれました。織田信長を討った明智光秀もまた、これ程早く秀吉が戻って来ると考えていません。秀吉と戦った明智光秀は敗れ、光秀は落ち武者狩りにあい亡くなりました。
賤ケ岳の戦い
明智光秀を破った山崎の戦いからおよそ10日後の6月27日、清須城において織田家の今後を話し合う会議が開かれました(清須会議)。
ここで信長の後継を羽柴秀吉が推した孫の三法師(織田信長の嫡男で本能寺の変で亡くなった織田信忠の嫡男)と決まります。
同時にこの会議において、織田家筆頭家老の柴田勝家との確執も決定的なものへとなっていきます。
およそ3ヶ月後の天正10年(1582)10月、柴田勝家は滝川一益や織田信孝(織田信長の3男)と連名で羽柴秀吉の弾劾上を各大名に送りつけました。
これに対して秀吉は10月15日、織田信長の葬儀を行います。喪主は羽柴秀勝(織田信長4男)でしたが、実質的には秀吉によって行われ、内外に信長の後は羽柴秀吉が主導していく事を印象付けました。
翌天正11年(1583)4月、柴田勝家と羽柴秀吉は軍を率いて対峙し近江国で戦います。(賤ケ岳の戦い)この戦いで柴田勝家は敗北し、自害しました。
ここに羽柴秀吉は、織田家の中での政争に勝利し仕えていた織田家を勢力下に収める事ができました。
豊臣秀吉と天下統一
天正12年(1584)、羽柴秀吉は織田信雄(織田信長の次男)と対立。信雄は東海地方で一大勢力となった徳川家康に加担を求め、その他に四国の長曾我部氏、紀州の根来、雑賀衆にも応援を求め対立を深めました。
秀吉はこの事態に対して終始、優勢を保ちましたが小牧長久手の戦いで徳川家康に敗北、事態は膠着します。そこで事態の打開を図る為、当初対立していた織田信雄と和睦、その後に徳川家とも融和を図り徳川家康も羽柴秀吉の傘下に納まりました。
そして天正14年(1586)、羽柴秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と名乗るようになります。前年には公卿の最高位である関白にも就いていて人身位を極めました。
その前後、天正13年(1585)には四国を、天正15年(1587)には九州を制覇、天正18年(1590)には小田原征伐を行い、豊臣秀吉は日本全国を統一していきます。
朝鮮出兵とその最期
天正19年(1591)、弟の羽柴秀長と生まれたばかりの子、鶴松を相次いで亡くします。
そこで甥の豊臣秀次を養子として迎え関白職を譲り、自らは太閤(前関白の尊称)と呼ばれ二元体制を敷きました。
同じ年、豊臣秀吉は大陸侵攻「唐入り」を全国に布告。九州から朝鮮半島に攻め入った秀吉の軍は緒戦こそ順調に進軍しますが、明(中国)の援軍が現れると戦況は膠着し、講和を図ります。
文禄2年(1593)秀吉の子、豊臣秀頼が誕生します。ところが文禄4年(1595)、豊臣秀次の謀反が上がりその結果、秀次は自害を命ぜられました。
このような豊臣家の中でゴタゴタが起こる中、文禄5年(1596)明と進めていた講和交渉が決裂してしまいます。秀吉は再度の朝鮮出兵を行いました。進軍した軍は各地に拠点を設けながら制圧していきましたが、戦いは長期化します。
その戦いが行われている中、慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉は亡くなりました、享年62。
豊臣家は幼い豊臣秀頼が継ぎましたが、秀吉に秀頼の貢献を頼まれた徳川家康がその後に台頭していくことになります。
弟秀長と妻ねね
豊臣秀吉は、多くの人々に支えられながら出世の道を歩みました。その中でも秀吉の天下取りに最も貢献したのが、妻の「ねね」(高台院)と実弟の羽柴秀長でした。
ねねは、織田家の家臣であった杉原定利の次女として生まれます。叔母であった嫁ぎ先の浅野家に養女に入り、そこから秀吉と恋愛結婚により嫁いでいます。
豊臣家は夫の秀吉と妻のねねの二人から始まったと言ってもよく、またその高い見識と政治力により豊臣家(それ以前の木下家、羽柴家が主であるが)を築き上げていきました。
日本で宣教活動を行っていたルイス・フロイスはその著作『日本史』の中で、ねねを「王妃」もしくは「女王」と表現するなど豊臣家の内向きの仕事から外交までを携わり夫を助けました。
羽柴秀長は、豊臣秀吉の異父弟です。幼名を「小竹」と呼び、長じて「小一郎」と改称しました。兄の秀吉の下に仕えるようになると木下小一郎長秀(後年、豊臣秀吉の天下が揺るぎないものとなった時に秀の字を頭に持ってきて秀長と名乗るようになります)と称しました。
血縁の少なかった秀吉は、秀長に内向きの取り纏めを任せ、秀長もその期待に応えました。特に秀吉と異なり、温厚な性格であった秀長は秀吉の欠点を補い、他の大名の秀吉への執り成しを依頼されたそうです。この妻である「ねね」と弟の羽柴秀長が豊臣家の基礎を作ったといっても過言ではないでしょう。
長浜城
豊臣秀吉は天正元年(1573)、浅井家攻略の功により北近江の領地を織田信長より与えられました。与えられた当時、今浜と呼ばれていた為、織田信長の長の字を拝領し長浜と改名します。小谷城や竹生島宝厳寺の資材を利用し築城します。
築城した城は湖水に石垣が浸かる水城で、城から直接船で琵琶湖に出られたそうです。
城下町は小谷城の城下をそのまま移し、現在でも当時の面影を残しています。
長浜では、城を築く城下町を発展させた豊臣秀吉を讃えて、「長浜出世まつり」を開いています。
大坂城
大坂城のある場所は、北側に淀川(現在の大川、寝屋川)があり、京都と瀬戸内海を結ぶ要衝として港がありました。また四方に伸びる街道もある事から、古くから発展してきました。
室町時代中期、本願寺の蓮如が隠居所として石山本願寺をこの地に創建し、その周囲には寺内町も拡がり栄えました。ところが元亀元年(1570)より始まる石山合戦により、本願寺と織田信長とは10年に及ぶ争いを行います。石山合戦自体は和平の内に終わりましたが、この和平の直後、石山本願寺は謎の失火により焼失します。
天正11年(1583)羽柴秀吉は、黒田孝高を総奉行として石山本願寺の跡地に大坂城を築城。
秀吉自体はその後に京の聚楽第、伏見城に移り住みましたが、豊臣秀吉の遺児、秀頼がこの城に住み大阪冬の陣、夏の陣を迎えます。大坂の陣で豊臣秀吉の造った大坂城は落城し、秀吉の造った大坂城は徳川家によって埋められてしまいました。
その埋めた後に徳川家は新たな大坂城を築きましたが、幕末の騒乱の中で焼失。
現在の大阪城は市民の募金により昭和初期に建てられました。
豊臣秀吉に関するお祭り
- 太閤まつり(名古屋)
- 愛知県名古屋市中村区。尾張国中村は豊臣秀吉の生誕の地です。この場所に明治18年、豊臣秀吉を祭神とした豊国神社が建てられました。この名古屋にある豊国神社が創建されて以来「豊国神社大例祭」が行われ、戦後間もない頃に大例祭から派生するように「太閤まつり」が誕生しました。
「太閤まつり」は各町内から神輿や踊りが練り歩き、初日には太鼓や民謡が披露され、二日目には還暦を祝う豊太閤頭巾の行列や子供たちが練り歩くなど町を挙げて祭を楽しみます。 - 樹下祭と太閤祭(京都)
- 京都東山にある新日吉神宮境内に「豊国神社」があります。
この豊国神社は江戸幕府によって壊された後、再建され江戸時代を通しては「樹下社」(このもとのやしろ)と呼ばれました。「樹下社」とは豊臣秀吉の最初の姓「木下」、「新日吉神宮」は幼少期の名前「日吉丸」から名づけられ、幕府の監視を避けて江戸時代を通し祭祀を続けた神社です。江戸時代が終わった慶応4年(1868)、明治天皇が東京から大阪に行幸した際に立ち寄り豊国神社の再興を布告されました。こうして明治時代に豊国神社として親しまれえるようになります。
この寺で行われる「太閤まつり」は境内で行われ、茶会や能、フリーマーケットを行うなど京の人々に楽しまれるお祭りとなっています。 - 豊国神社太閤祭(大阪)
- 豊臣秀吉が治めた大坂の地。この大坂に明治元年、明治天皇が行幸された際、豊臣秀吉を祀るように言われた事により、明治6年現在の中之島公会堂の地に豊国神社が創建されました。大正元年、中之島中央公会堂の建設の為、現在の中之島府立図書館の西方公園内に移転、昭和31年には大阪城内を移転地として移されました。
豊臣秀吉は大阪において「たいこうさん」「ほうこくさん」として親しまれ、毎年秀吉の命日に御神霊を慰める神事として太閤祭が執り行われています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。