大阪城大阪府大阪市

  • 豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた城
  • 現在の石垣と堀は徳川幕府による再築の遺構
  • 昭和6年に建てられた復興天守が大阪の象徴となっている

大阪城とは、大阪府大阪市中央区にある安土桃山時代から近世にかけての城跡である。天正11年(1583)に豊臣秀吉が石山本願寺跡に築城を始め、天下統一の拠点として巨大な城郭と城下町を整えた。しかし慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣大坂城は落城し、その後、徳川幕府によって盛土で埋められた。現在地上に残る石垣や堀は、元和6年(1620)以降に徳川幕府が再築した大坂城の遺構である。現在の天守閣は昭和6年(1931)に建てられた復興天守で、内部は大阪城天守閣として公開されている。

大阪城の特長
目的 豊臣政権の本拠、徳川幕府の西国支配拠点、大坂城代による幕府直轄拠点
特長 復興天守、徳川期石垣、巨石、内堀、外堀、大手門、桜門、豊臣石垣館
他の城との違い ・豊臣秀吉の大坂城と、徳川幕府が再築した大坂城が重なる城である
・現在地上で見られる石垣や堀は、主に徳川期再築の遺構である
・地下には豊臣期の石垣が残り、大阪城豊臣石垣館でその一部を見ることができる
大阪城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 一部あり
種類 切込接、打込接、巨石石垣、算木積み、石垣、水堀、枡形、惣構
石材 花崗岩など。瀬戸内海の島々や西国各地から運ばれた石材
特長 大阪城の石垣は、徳川幕府が豊臣大坂城を埋めた上に再築した大坂城の遺構である。大手門や桜門周辺には巨石を用いた石垣があり、幕府の権威を示す意匠としても機能した。内堀に面した高石垣や、隅部の算木積み、加工度の高い切込接・打込接の石垣から、徳川期の高度な石垣技術を確認できる。一方、豊臣期の石垣は地上には見えず、地下に埋められている点が大阪城の大きな特徴である。
大阪城DATA
別称 大坂城、錦城、金城
所在地 大阪府大阪市
築城 1583年。徳川期再築は1620年以降
築城者 豊臣秀吉。徳川期再築は徳川幕府
住所 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
電話番号 06-6941-3044
開館時間 大阪城天守閣は9時~18時。入館は17時30分まで
休館日 年末年始(12月28日~1月1日)
入館料 大人1,200円、大学生・高校生600円、中学生以下無料。大阪城天守閣と大阪城豊臣石垣館に入館可能
備考 大阪城跡は国指定特別史跡で、日本100名城にも選定されている。現在の天守閣は1931年に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート造の復興天守で、史実上の天守を完全に復原したものではない。2025年に大阪城豊臣石垣館が開館し、地下に残る豊臣期石垣を見学できる。
大阪城への交通アクセス
JR「大阪城公園」駅から徒歩約1分

HISTORY 大阪城について

大阪城の歴史
1496年 蓮如が大坂に坊舎を建て、のちに石山本願寺として発展する
1580年 石山合戦の終結により、石山本願寺が退去する
1583年 豊臣秀吉が石山本願寺跡で大坂城の築城を始める
1585年 豊臣大坂城の天守が完成する
1598年 豊臣秀吉が伏見城で死去する
1614年 大坂冬の陣が起こる
1615年 大坂夏の陣で豊臣大坂城が落城し、豊臣氏が滅亡する
1620年 徳川幕府が大坂城の再築を始める
1626年 徳川期大坂城の天守が完成する
1665年 落雷により徳川期の天守が焼失し、以後再建されない
1868年 戊辰戦争に際して城内の多くの建物が焼失する
1931年 現在の大阪城天守閣が復興される
1953年 大阪城跡が国の特別史跡に指定される
1997年 大阪城天守閣の平成の大改修が完了する
2006年 日本100名城に選定される
2025年 大阪城豊臣石垣館が開館する

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大阪城を居城とする、徳川幕府の歴史

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徳川幕府DATA
居城 江戸城
旧地域 江戸
石高 400万石
主な藩主 徳川家

大阪城、秀吉が築いた大阪のシンボル

大阪府大阪市中央区にある大阪城は、日本三名城に選ばれた大阪を代表する広大なお城です。大阪屈指の桜の名所でもある大阪城公園内に位置しており、園内には再建天守や江戸時代から残る櫓、石垣などが点在しています。広々とした公園内にはホールや複合施設、野球場などもあり、イベント時には多くの人々でにぎわうスポットです。

大阪城
大阪城の歴史
大阪城のある上町台地は交通の要所で、もとは浄土真宗の石山本願寺がありました。この地の明け渡しを要求したのが織田信長で、元亀元年(1570年)から天正8年(1570年)まで本願寺勢力と「石山合戦」で争っています。
石山合戦の和議により本願寺勢は石山本願寺から退去しましたが、その際火事で山は全焼しています。その後、信長は天正10年(1582年)の本能寺の変でこの世を去ります。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は天正11年(1583年)から大坂城の築城を開始。慶長4年(1599年)に完成した城は金箔瓦を施しており、天下人らしく巨大なものでした。なお、この時の大天守は複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階のものです。
秀吉の死後は、跡継ぎの豊臣秀頼と徳川家康が対立。慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こりますが、豊臣方の西軍は敗れました。その後も大阪城は豊臣家の本拠地としてあり続けましたが、慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂冬の陣・夏の陣により豊臣家は滅亡。城は元和5年(1619年)から徳川幕府の直轄領地になりました。
翌元和6年(1620年)、2代将軍徳川秀忠の命により、大阪城の再建が藤堂高虎の指揮のもと開始されます。そして10年後の寛永6年(1629年)、3代将軍の徳川家光の時代に独立式層塔型5重6階(地上5階・地下1階)の天守を有する城として再建されました。城の再建の際には全体的に盛り土がされ、石垣も積み増され、豊臣時代の大阪城はほぼ姿を消しました。
江戸時代の天守は寛文5年(1665年)の落雷で残念ながら焼失してしまいます。また、幕末の動乱では大手門や多聞櫓等の一部を残して多くの建物が消失しました。明治以後、大阪城は陸軍の用地となりましたが、昭和6年(1931年)に天守が市民の寄付などにより復元されています。戦後は史跡公園として整備され、1997年には国の登録有形文化財に指定されました。
大阪城の見どころ①再建天守
現在の天守は昭和6年(1931年)に鉄骨鉄筋コンクリートで再建されたものです。再建天守は望楼型5層8重の独立型で、「大坂夏の陣図屏風」を参考に豊臣時代のデザインで建てられました。外観は唐破風に千鳥破風、鶴や虎の金箔押しの飾りと豪華絢爛。なお、花崗岩の天守台は徳川時代のものです。
内部は博物館になっており、大阪城や豊臣秀吉について学べるようになっています。秀吉に関する歴史資料も見どころのひとつです。3階には秀吉が作った黄金の茶室の原寸大模型があり、圧倒的な存在感を示しています。兜や陣羽織の体験コーナーがあるのにも注目です。8階の展望台からは大阪城公園を眼下に、大阪平野が一望できます。
大阪城の見どころ1 大阪城の見どころ2 大阪城の見どころ3
大阪城の見どころ②重要文化財の千貫櫓
大阪城には江戸時代に創建された櫓や門などの13棟が国の重要文化財に指定されています。そのひとつが元和6年(1620年)建造の千貫櫓で、乾櫓とともに大阪城に現存する最も古い建物です。
千貫櫓は大手門を北から守るためのもので、名の由来は石山本願寺攻めの際、信長軍がこの付近にあった櫓を攻めあぐねて「千貫文を出しても奪いたい」と言ったことから。期間限定ですが内部が公開されることがあるので要チェックです。
大阪城の見どころ4 大阪城の見どころ5 大阪城の見どころ6
大阪城の見どころ③日本一を誇る石垣や巨石
大阪城は石垣も大きな見どころとなっています。徳川時代の石垣は西日本を中心とした64の大名が分担して築いたもので、各大名の紋が彫られた刻印石が随所に見られます。本丸東面の石垣は32mの高さを誇り、単独の石垣としては日本一の高さを誇ります。一方で豊臣時代の石垣は発掘調査が進んでおり、公開を検討中です。
大阪城の石垣には巨石が多くみられます。寛永5年(1628年)創建の大手門を抜けた先には、1つの石から切り出されたという高さ5m、幅8m~11mの3つの巨石に出会えます。本丸の正門正面にあるのが城の石としては日本一という「蛸石」で、高さ5.5m、幅11.7m、重さ約108トン。巨石はすべて瀬戸内産で、小豆島などからはるばる運ばれてきたそうです。
大阪城の見どころ7 大阪城の見どころ8 大阪城の見どころ9
大阪城の見どころ④約300本の桜が咲き誇る西の丸庭園
最後にご紹介するのが西の丸庭園。豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があったとされる場所で、昭和40年(1965年)に開館しました。約6.5ヘクタールの庭園は、その半分が芝生に覆われています。春にはソメイヨシノなど約300本の桜が咲き誇ります。庭園内には大阪迎賓館があり、結婚式やMICEなどで利用されています。
大阪城の見どころ10 大阪城の見どころ11 大阪城の見どころ12
おすすめ撮影スポット
大阪城の天守を真正面から撮影するのであれば、西の丸庭園の大阪迎賓館の南側からが一押しです。加えて庭園内には本丸の石垣と天守を押さえられるスポットもあるので、散策しながら探してみましょう。また、二の丸に入る玉造口や本丸北側の極楽橋付近も人気の撮影スポットです。このほか春の桜や夜のライトアップもおすすめですよ。
大阪城の見どころ13 大阪城の見どころ14 大阪城の見どころ15
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。