慶長の役(1/2)秀吉の死で終わった朝鮮侵略・後編

慶長の役

記事カテゴリ
事件簿
事件名
慶長の役(1597年〜1598年)
場所
佐賀県・長崎県
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天下統一後に中国(当時の明)を征服するために李氏朝鮮(現北朝鮮・韓国)に出兵した豊臣秀吉。天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの「文禄の役」の後、再び朝鮮を攻めたのが慶長2年(1597年)から翌3年(1598年)、秀吉が死ぬまで続いた「慶長の役」です。「文禄・慶長の役」とまとめて語られることも多い朝鮮出兵ですが、今回は後半の「慶長の役」について、関ヶ原に続く影響までわかりやすく解説していきます。(「文禄の役」については別記事をご参照ください)

「文禄の役」を簡単に振り返る

文禄の役は、天下を統一した豊臣秀吉が明を見据えて朝鮮を攻めた戦いです。なぜ秀吉が明を攻めようとしたのかという理由については諸説あり、代表的なものとしては①織田信長の遺志を継ぐため②秀吉の功名心や名誉欲③大名たちの力を削ぐため④領土拡張のため⑤明との勘合貿易復活のため⑥アジアの植民地化をはかっていたヨーロッパ勢力に対抗するため、といったものがあります。

文禄の役は総勢25万人から30万人が参加しており、総大将は宇喜多秀家、総奉行は石田三成でした。朝鮮には小西行長や加藤清正、黒田長政、小早川隆景、毛利輝元などそうそうたる武将たちが渡り活躍しています。なお、徳川家康は「予備軍」で朝鮮には出兵していません。

釜山に上陸した日本軍は次々と朝鮮軍を破り、首都・漢城を陥落させます。李舜臣率いる水軍の活躍で物資不足に苦しめられることもありましたが、日本軍優位のまま平壌を陥落させました。なかでも加藤清正は朝鮮国の王子を捕縛したり、北上して満州のオランカイ(女真族)と戦ったりと活躍しています。

事態が動いたのは明の援軍が訪れてからです。文禄2年(1593年)1月。明の司令官・李如松が平壌を急襲し、日本軍は初めて大敗。平壌にいた小西行長は開城まで撤退しました。1月25日の「碧蹄館の戦い」では日本軍が明軍を破って大勝しますが、日本軍は物資不足に陥るとともに疫病が蔓延。一方の明軍も勢いを削がれてしまい、双方停戦ムードが漂い始め、和平交渉がスタートします。

慶長の役の原因は「偽りだらけの講和」

講和交渉は長きにわたって続きましたが、文禄2年(1593年)4月に一応の講和が成立します。交渉の担当者は、日本側は小西行長、明側は沈惟敬。この2名が文禄の役を終わらせようと、双方のトップに嘘の講和条件を伝えることにしたのです。つまり小西行長は豊臣秀吉に明が降伏したことを、沈惟敬は明に日本が降伏したことを伝えました。

小西行長と沈惟敬はお互い協力しあい、使節や書類の偽装まで行いました。沈惟敬は部下を明の勅使と偽って秀吉の下に派遣。明側が降伏したと考えていた秀吉は、当然強気で明に条件を提示します。条件は、①明の皇女を天皇に嫁がせる②勘合貿易の復活③双方の大臣が誓紙を交わす④朝鮮八道の半分を日本に割譲し、残りと漢城を朝鮮に返還する⑤朝鮮の王子と家老を日本の人質として差し出す⑥日本が捕虜にした朝鮮王子は朝鮮に返還する⑦朝鮮の重臣たちに日本に背かないよう誓約させる、というものでした。

そのまま秀吉の要求を提示すれば、明が納得しないことは明白でした。このため日本側は条件を勝手に変更し、小西行長の部下が明への使者として立ちます。明側からは「和議の証明に秀吉の降伏文書が必要」と言われたため、行長はさらにこれを偽造して明に提出。偽りの日本からの要求は、勘合貿易の再開と日本を冊封体制に入れて秀吉を藩王に認めてほしいというものでした。ちなみに朝鮮を攻めた理由は「明への取次を朝鮮が拒否したから」としています。

これに対し明側は日本が冊封体制に入ることを認め、秀吉に日本国王(順化王)の称号と金印を授けることを決定。しかし、勘合貿易の再開は拒否することに決め、正式な使者を秀吉に派遣しました。文禄5年(1596年)9月、秀吉と明の使者が会見した際に講和の際の嘘が明らかに!秀吉は当然激怒し、再び明攻めを決意します。なお、講和を主導した明の沈惟敬は帰国後死罪になりましたが、小西行長は石田三成や前田利家などのとりなしで一命をとりとめました。

慶長の役①朝鮮に14万人が再出兵

秀吉は明攻めをするため各武将に動員令を発出し、約14万人の兵が再び朝鮮出兵のために集められることになりました。慶長の役は小早川秀秋が総大将に就任。また、一番隊(先手)と二番隊は加藤清正と小西行長がそれぞれ2日交代で担うことが決まりました。このうち行長は和平交渉を偽った武将。一方の清正は文禄の役の際に戦働きで大活躍していますが、「講和を優位にするためには戦を続けるべき」と主張し、早期に講和を成立させたい行長と対立していました。その結果、行長の讒言とそれを支持した石田三成により、謹慎させられています。後に秀吉に弁明して許されていますが、行長、ひいては三成への怒りはかなりのものだったようです。

再出兵軍については、以下の武将が参加しています。

一番隊・二番隊
加藤清正、小西行長
三番隊~七番隊
黒田長政、鍋島直茂・勝茂、島津義弘、長宗我部元親、藤堂高虎、脇坂安治、蜂須賀家政など
八番および九番隊
毛利秀元、宇喜多秀家

このほか釜山浦城に総大将の小早川秀秋、安骨浦城に立花宗茂が在番衆(諸城の守備担当)として控えています。

慶長の役②序盤は日本軍が優勢、倭城を築いて防備を固める

豊臣秀吉による朝鮮再出兵の作戦は「全羅道を残さずことごとく成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というものでした。全羅道というのは文禄の役の際、地元の抵抗や険しい地形などから日本軍が唯一制圧できなかった地域ですので、前回のリベンジということでしょうか。さらに作戦を実行した後は慶尚道の沿岸まで撤収し、城を築いて九州の大名を中心に城主を決め、兵を置くように指示。長期にわたり朝鮮で生活するため、城は慣れ親しんだ日本式の城(倭城)を築くよう命じています。そして城主以外は一度引き上げ、体制を整えて慶長4年(1599年)に大規模な再出兵をおこなう、という計画でした。14万の兵たちは計画に従い、対馬海峡をわたり次々と釜山に上陸、各地に散っていきました。

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執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。