山崎の戦い(1/2)明智光秀の「三日天下」の終焉

山崎の戦い

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事件簿
事件名
山崎の戦い(1582年)
場所
京都府
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勝竜寺城

勝竜寺城

淀城

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天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」。その後、光秀は「中国大返し」で京に引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉と、6月13日に山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)の一帯で戦います。この信長の弔い合戦である山崎の戦い(天王山の戦い)に勝利した秀吉が、その後天下を統一し、敗れた光秀は居城の坂本城(滋賀県大津市下阪本)に逃げる途中で命を落としました。今回はそんな「天下分け目の戦い」だった山崎の戦いについて、詳しく見ていきます。

敵は本能寺にあり!

山崎の戦いの発端となったのが、天正10年(1582年)6月2日に起きた「本能寺の変」です。明智光秀が主君・織田信長を突如討った戦いは、当時の人々に驚きをもって迎えられました。なぜ光秀が本能寺の変を起こしたのから現在でもさまざまな説が唱えられており、光秀が単独で本能寺の変を企てたという説だけでも、その原因を信長に恨みを抱いていたからとするもの、ノイローゼだったからとするもの、光秀と縁戚関係にあった長宗我部元親を討つために信長が四国征伐を計画していたためとするものなどたくさんあります。

さらに、実は実行犯が別にいて羽柴秀吉、斎藤利三などがその犯人だったという主犯存在説、秀吉や徳川家康、足利義昭、朝廷、イエズス会、毛利輝元などが黒幕として存在していたという説もあり、戦国時代一の謎とも言われているのが本能寺の変なのです。

そんな本能寺の変では、光秀は本能寺の信長を圧倒的な兵力で攻め立て、信長に傷を負わせます。信長はその後、傍仕えたちを避難させた後に、本能寺に火を放って自刃。ちなみに遺体は見つかっておらず、実は信長は本能寺から逃げ延びていたのでは?という生存説まであったりします。

さて、本能寺の次に光秀が攻めたのは、信長の跡取り息子・織田信忠でした。信忠は近くの妙覚寺(京都府京都市中京区)に宿泊しており、本能寺に救援に向かおうとしましたが結局間に合わず、二条御所に500名を率いて籠城します。しかし、明智軍の攻撃にあい、御所に火をつけて自害しました。こちらも遺体は発見されていません。

本能寺の変後の光秀の動き

こうして本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀は京を制圧したのちに坂本城に入り、6月4日までに近江をほぼ平定。その後、信長の居城だった安土城入りして、信長が残した財宝を家臣や味方に与えます。なお近江平定を優先しておこなったのは、柴田勝家対策だったともいわれています。

6月7日には正親町天皇の皇太子の使者として、友人の吉田兼見と面会し、親王から京の治安維持を任せるというお墨付きをGET。光秀は朝廷への根回しに協力してくれた兼見に銀子50枚、禁中に100枚送ったほか、京の寺社にも銀子を送ってさらに根回ししています。

安土城に入り信長に成り代わった、あとは天下統一!と思いきや、その後光秀はなかなかうまく事を運ぶことができませんでした。縁戚や味方に協力を呼びかけますが、娘のたま(細川ガラシャ)が嫁いだ細川忠興は父の藤孝とともに剃髪して信長に弔意を表しており、さらにたまを幽閉して光秀への協力を拒否。藤孝は光秀の友人でしたから光秀としては衝撃だったようで、説得しようとしますが結局受け入れてもらえませんでした。

光秀の与力大名で友人でもあった大和国の筒井順慶も、はじめは消極的ながら近江に出兵して光秀に協力したものの、結局は秀吉方につきました。このほか、上杉氏や毛利氏、北条氏や長曾我部氏にも同盟を結ぶよう働きかけていますが、そうこうしているうちに中国から京に戻ってきた羽柴秀吉と戦うことになるのです。

なかなか光秀の味方が現れなかったのはよく根回し不足だったと言われていますが、ほかの原因として、信長の首の不在があげられています。信長の首が見つからなかったため「本当に光秀は信長を討ったのか?」と疑問に思う人もおり、事実秀吉も「信長は生きている」という嘘の情報を流して味方を得ています。

秀吉の「中国大返し」

さて、ここからは羽柴秀吉の動きを追いかけましょう。本能寺の変が発生した当時、主だった織田家家臣たちは各地に散って戦いを繰り広げていましたが、秀吉も毛利を下そうという中国攻めの真っ最中で、備中高松城を攻めていました。

そんな秀吉が本能寺の変を知ったのは6月3日の夜(4日の早朝とも)のこと。明智光秀が毛利氏に送った使者を捕らえると、「光秀が信長を討ち、さらに毛利氏と光秀で秀吉を挟み撃ちにしよう」という計略が書かれた密書を持っていたのです。

これを知った秀吉は急いで備中高松城の戦いに決着をつけようとします。すぐさま毛利氏と和平を結び、6月6日(※4日、5日とも)には約2万の兵とともに京に向かって出発。備中高松城からから山崎、つまり岡山県から京都府まで約230㎞の距離を8~10日間で踏破します。

ルートとしては野殿→沼城→姫路城→明石→兵庫→尼崎と移動したようで、現代のシミュレーションでは10日はかるそうです。秀吉がどやって中国大返しを実現したのかは議論の的となっています。中国攻めの補給路を逆流する形で食料をうまく確保して成功させた、陸路では難しいので船を活用した、実は本能寺の変を事前に察知していた(つまり秀吉黒幕説)のですぐに引き返せた、などさまざまな説が出されています。

何はともあれ秀吉は6月13日には山崎に到着し、光秀と山崎の戦いを繰り広げたのは間違いありません。いろいろな説があるので、興味がある人はぜひ調べてみてくださいね。

山崎の戦い①大軍の秀吉vs味方の少ない光秀

味方を集めきれず、10日には羽柴秀吉接近の報告を受けた明智光秀は、急いで淀城(京都府伏見区)を修築して戦の準備を進めます。光秀は結局約1万6000人(1万とも)の兵とともに羽柴秀吉と戦うことになりました。明智軍には「明智五宿老」と呼ばれる重臣の明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝や、伊勢貞興、阿閉貞征などが参加していました。

一方の秀吉ですが、京の進路上にいる摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)衆の取り込みをはかっています。畿内の入り口にある摂津国は以前荒木村重が治めていましたが織田信長に謀反。その後摂津国は高山右近や中川清秀らが治めていました。秀吉は中川清秀に対し「信長は生きている」と嘘をつき、摂津国衆を味方につけることに成功しました。

さらに、四国征伐のために兵を集めていた織田信孝・丹羽長秀らも、残った4000の兵らとともに羽柴軍に合流。こうして羽柴軍は2万超(4万とも)の軍となったのです。秀吉は6月12日、富田(大阪府高槻市富田町)で軍議を開き山崎を主戦場とした作戦を立てます。この際秀吉は事実上の盟主となり、総大将には織田一族ということで信孝が就任しました。

こうして両者は12日ころから、円明寺川(小泉川)を挟んで対陣します。羽柴軍は高山右近や中川清秀といった摂津国衆が川沿いの最前線に着陣し、その右に池田恒興らが布陣。黒田官兵衛や羽柴秀長らが天王山の山裾の街道沿いに布陣。秀吉の本陣は天王山の南麓にある宝積寺に置かれており、その手前に織田信孝や丹羽長秀が着陣していました。

一方光秀は円明寺川を隔てた御坊塚に本陣を置き、その前に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆などを配置しています。当時の山崎には沼地が広がっており、天王山と沼の間の狭い場所しか大軍を通過させることができませんでした。明智軍はその出口にふたをする形で布陣して羽柴軍を各個撃破する作戦でした。得意の鉄砲を活用する作戦を考えていたようですが、残念ながら13日は雨。ちなみに秀吉が鉄砲を無力化できる雨の日を狙って決戦を仕掛けたという説もあります。

山崎の戦い②わずか数時間で明智軍が敗退

6月13日、いよいよ山崎の戦いの始まりです。午後4時ごろ、高山右近隊の横に陣取ろうとして移動中だった中川清秀隊に、明智軍の伊勢貞興隊が襲いかかりました。さらに斎藤利三隊が高山右近隊を攻撃します。明智軍の奇襲に劣勢に立たされる羽柴軍でしたが、秀吉本隊から堀秀政軍の増援があり、何とか持ちこたえました。そうこうしているうちに羽柴秀長・黒田官兵衛隊も明智軍と交戦。戦は膠着状態に陥りました。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03