淀殿(淀君・茶々)(1/2)悪女と呼ばれた女が招いた最期

淀殿(淀君・茶々)

淀殿(淀君・茶々)

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人物記
名前
淀殿(淀君・茶々)(1569年〜1615年)
出生地
滋賀県
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室町時代後期、戦国と呼ばれた時代。北近江の浅井家に3人の姫がいました。3姉妹のうち長女は浅井茶々と言います、後の淀君です。淀君は実の父である浅井長政、養父である柴田勝家と次々と失い、豊臣秀吉の側室となりました。そして豊臣秀頼をもうけます。ところが天下人となった徳川家康は豊臣家の存続を許さず、大坂の陣を迎えました。今回は、戦国時代悲運の姫、淀君を見ていきます。

淀君の名前

天下人となった豊臣秀吉の子、豊臣秀頼。その母であったのが淀君でした。
「淀君」という名は死後に付けられた名前で、本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)或いは浅井菊子(あざいきくこ)とされています。

その他、生存中は居場所によって呼び名が変わり、最初の子鶴松(棄)を産むときに在城した淀城の時には「淀の方」「淀の女房」など、大坂城に在城していた時には「二の丸殿」「西の丸殿」などと呼ばれていました。鶴松、秀頼出産後は「御袋様」「御上様」「御台様」とも。更に秀吉の死後は落飾して「大広院」「大康院」とも名乗っていたとされます。

現在使われている「淀殿」「淀君」は江戸時代に使われ始めた名前で一次資料にもありません。今回のお話ではいままで使用されてきた「淀君」で統一したいと思います。

淀君の出生と浅井家

淀君は永禄12年(1569)、近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)に生まれます。父は北近江浅井家当主の浅井長政、母は尾張、美濃国(現在の愛知県西部、岐阜県)を領した織田信長の妹お市の方です。兄に万福丸、妹たちに初、江がいました。
淀君は茶々と呼ばれ、乳母の大蔵卿局(大野治長の母)・饗庭局(大叔母にあたる海津殿の次女)に育てられます。

お市の方の兄、織田信長は永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて京へ上洛します。織田信長はこの時、姻戚関係にあった三河国(現在の愛知県東部)の徳川家、近江国の浅井家にも参加を呼びかけ、浅井長政も上洛の進軍に参加しました。

ところが元亀元年(1570)春、浅井長政は織田家を裏切りました。6月28日には浅井家、朝倉家と織田家は姉川で戦います。(姉川の戦い)ここから浅井家は織田家に抗戦を続けました。ところが戦いは浅井家の不利となり、天正元年(1573年)父の浅井長政などは自害しました。兄の万福丸も亡くなります。
淀君は母のお市の方、妹たちと織田家に引き取られました。

柴田家と羽柴家

さて母お市の方や妹たちと織田家の岐阜城で暮らしていた淀君。
天正10年(1582)、織田信長は本能寺の変で明智光秀に攻められ自刃に追い込まれます。同じ年、母お市の方は柴田勝家と再婚しました。淀君はお市の方や妹たちと越前国北の庄城(現在の福井県福井市)に移り住みます。

ところが翌年の天正11年(1583)、柴田勝家は羽柴秀吉と対立します。両者は賤ケ岳で戦いましたが、柴田勝家が負けました。お市の方は北の庄で柴田勝家と自害しましたが、淀君や妹たち3人は羽柴秀吉によって保護されます。3人は従弟に当たる織田信雄や叔父に当たる織田長益(織田有楽斎)によって後見され、叔母(織田信長の妹)お犬の方に世話をされ過ごします。

豊臣秀吉の側室に

父浅井長政、母お市の方を亡くした浅井3姉妹。
淀君の妹たち、初は天正15年(1587)、豊臣(羽柴)秀吉の計らいで浅井家の主筋にあたる京極家当主であり、従兄にもあたる京極高次と結婚します。

また小督は当初、織田家家臣であった佐治一成と結婚しましたが、秀吉により離縁させられて、秀吉の甥にあたる豊臣秀勝と再婚します(豊臣秀勝は朝鮮の役で病死し、後に徳川秀忠と再婚、後水尾天皇の女御となる徳川和子や三代将軍徳川家光をもうけます)。

そして長女である淀君。淀君は天正16年(1588)ごろ、秀吉の側室となりました。
天正17年(1589)には鶴松を授かり、産所として秀吉から山城淀城を賜りました。ここから「淀の方」や「淀殿」「淀君」と呼ばれるようになります。鶴松は天正19年(1591年)に夭折しましたが、文禄2年(1593)に拾(後の豊臣秀頼)を産みました。

なお、最初の鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画を納めます。更に秀頼を産んだ時に浅井長政の二十一回家忌供養のため秀吉に願って血縁を弔う養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は浅井長政の弟に当たる比叡山の僧成伯法印)を建立しました。この養源院は大坂の陣の後、元和2年(1616)2代将軍徳川秀忠の正室で淀君の妹、小督により淀君と豊臣秀頼の菩提を弔う寺ともなっています。

慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が亡くなります。淀君は豊臣秀頼の後見人として自らの乳母であった大蔵卿局・饗庭局らを重用し豊臣家の実権を握っていきました。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の死後、朝廷においては内大臣、豊臣家においては5大老の1人であった徳川家康。この徳川家康が政治をリードしていきます。これを問題視したのが石田三成でした。石田三成は会津(現在の福島県)の上杉景勝と組み、徳川家康の追い落としを画策します。上杉景勝は会津において軍事行動の準備を行い、徳川家康は問題視します。

慶長5年(1600)5月、徳川家康は上杉征伐を決め会津へと向かいます。
ところが7月。石田三成と大谷吉嗣が大坂で挙兵する準備を始めているという知らせが届きました。これは淀君と三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)が、「三成が挙兵を企てているので事態を鎮静化する為、徳川家康に戻って上洛して欲しい」という要請があった話を榊原康政(徳川家康家臣)から秋田実季(現在の秋田県の大名)への手紙の中で記しています。ここから淀君は豊臣秀吉の遺言にある徳川家康、五奉行(ないし三奉行)体制の維持を望んでいたことが伺えます。

その後、石田三成に付いた毛利輝元が総大将となり三奉行もこれに同調します。石田三成は豊臣秀頼による出陣などを淀君は許さず、事態を静観しました。

9月15日、関ヶ原において石田方、徳川方が戦い(関ヶ原の戦い)徳川家康は勝利しました。勝った家康は、淀君が石田三成方に加担していないと信じていると述べ、淀君もこれに感謝の返答をしています。

9月27日、徳川家康は大坂城へ入城。淀君、豊臣秀頼と対面しました。そして大阪城西の丸へ移り、関ヶ原の戦いの論功行賞や政務をとり行っていきます。
こうして政治の主導権は完全に徳川家康に移りました。

徳川家との対立

さて大坂城西の丸に入った徳川家康。家康は石田三成に付いた大名の領地削減、取り潰しを行い、徳川家康に付いた大名の領地を増やしました。それと並行し、豊臣家の藏入地(豊臣家の直轄領)が廃止され、これもそれぞれの大名に編入されていきます。関ケ原開戦前夜には222万石あった豊臣家の直轄領は、摂津・河内・和泉国65万石あまりに削減されました。豊臣家に忠誠を誓っていた大名は、領地を増やされた事で徳川家康に忠誠を誓うようになります。

さらに京都、堺、長崎を始めとする大都市や佐渡金山、石見銀山、生野銀山といった鉱山も徳川家の管理に移します。豊臣家の財政基盤を支えた都市や鉱山も徳川家に移りました。
こうして豊臣家の力を削ぎ、徳川家の力を増大させたことで徳川家康は権力を掌握しました。

豊臣家の権力が徳川家に移っていく中で、大坂城にいた淀君。城の中から淀君はどう感じていたでしょう。豊臣家の力を削がれていた事を感じていたでしょうか。それは今になると分かりませんが、気鬱が激しくなったと言われています。慶長6年(1601)、淀君は気鬱が激しくなり胸の痛み・摂食障害・頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔(曲直瀬道三の孫娘婿)から薬を処方されたそうです。

慶長8年(1605)徳川家康は征夷大将軍に任じられます。
慶長10年(1605)5月8日、徳川家康は高台院(豊臣秀吉の正室、北政所)を通じて、豊臣秀頼へ臣下の礼を取るように要求します。ところが厳密には豊臣家は徳川家の臣下になった訳ではないので、淀君は遺憾の意を表明し拒絶しました。徳川家康は6男松平忠輝を大坂に派遣し融和を図ります。
ですが豊臣家と徳川家の対立は避けられないものとなっていきました。

大坂の陣

主導権を徳川家康に取られた豊臣家と淀君。豊臣家は徳川家とは一線を画した独立した大名として振舞います。このころ、従弟である織田信雄が領地を失い大坂城に住まわせていました。更に大叔父に当たる織田有楽も大坂に住みます。淀君はこの二人の親族を頼りにしました。ところが織田有楽は徳川家に内通し、大坂城内の話は筒抜けでした。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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