顕如(1/2)織田に抗した宗教家

顕如

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顕如(1543年〜1592年)
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大阪府
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大阪城

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仏教は飛鳥時代に伝来し、特に平安時代から鎌倉時代には、人々に受け入れられやすい教えの宗派が増えました。その一つが、浄土真宗です。この浄土真宗の本願寺は、浮き沈みを繰り返しながら発展していきます。そして戦国時代、顕如が住職を務める頃に最盛期を迎えます。ところが、同時に飛躍してきた織田信長とも対立しました。今回は、石山本願寺の顕如について見ていきたいと思います。

そもそも本願寺とは?

顕如が住職を務めていた石山本願寺。石山本願寺は現在の大阪城と大阪城公園にあった浄土真宗のお寺です。
そもそも浄土真宗は鎌倉時代に出来た仏教宗派の1つで(鎌倉仏教)、親鸞により起こります。親鸞は浄土宗の宗祖法然の弟子となり教えを学びました。

さて親鸞の曾孫に当たる第3世覚如の頃。覚如は京にあった親鸞の墓所(大谷廟堂)に寺を建てます、本願寺の実質的な始まりです(既に親鸞を祖とする浄土真宗は幾つかの宗派に分かれ、本願寺もその宗派の一つでした)。

京にできた本願寺。室町時代に入ると、本願寺は浄土真宗の一宗派として中心的な寺院となっているはずでした。ところが他の仏教宗派の圧力や同じ浄土真宗内の他宗派との確執など苦難の歴史をたどります。苦しい運営を行っていた本願寺は天台宗青蓮院の下に連なる寺となっていました。

蓮如と顕如誕生までの本願寺

他宗派寺院の下に属していた本願寺。
応永22年(1415)本願寺に一人の僧侶が生まれます、本願寺中興の祖8世蓮如です。しかし蓮如が本願寺の住職に付いた時には没落を極めていました。

そこで蓮如は京を後にし、積極的な布教活動を行います。その甲斐あって全国に門徒を獲得し、特に加賀国(現在の石川県)は守護大名の御家騒動もあり本願寺が事実上専有するに至ります。こうして多くの門徒を獲得した蓮如は文明10年(1478)、京の西隣山科に本願寺を作ります、山科本願寺です。更に明応6年(1497)引退した蓮如は大坂にも寺を造営しました、石山本願寺(大坂本願寺)です。

こうして蓮如が住職となった頃には山科本願寺を中心に全国に門徒を獲得し飛躍します。
ところが蓮如が亡くなり顕如の父10世証如が住職となった享禄5年(1532)、本願寺は室町幕府管領細川晴元の御家騒動に巻き込まれ山科本願寺を失いました。証如は拠点を石山本願寺へ移します(天文法華の乱)。ここから本願寺は摂津国大坂の石山本願寺を拠点とするようになりました。
そして顕如が生まれます。

顕如の誕生

顕如は天文12年(1543)に本願寺第10世証如の子として生まれます、諱(僧が授戒時に受ける名)を光佐であることから、本願寺光佐とも呼ばれています。

天文23年(1554)顕如が10歳の頃、父の証如が重篤となり急遽得度(僧となる儀式)が行われる事になります。この時、証如が九条家の猶子(養子とは異なり相続権のない後見を受けるような制度)となっていた先例に習い前関白、九条稙通の猶子となり証如を師として得度しました。得度を受けた翌日、父の証如が亡くなり祖母の鎮永尼(9世実如の室で証如の母)の補佐を受けて本願寺住職を引き継ぎました。石山本願寺は幼い顕如を住職に運営を行います。

さて本願寺住職となった顕如。弘治3年(1557)、三条公頼の三女如春尼を室に迎えます。如春尼は六角定頼の猶子を受けた後、顕如の下へ嫁いできました。また姉は武田信玄の継室三条の方で、顕如と信玄は義兄弟の間柄になりました。
これが後々、織田信長と対立する際に反織田勢力を造る下地となります。

本願寺の門跡成と最盛期

さて蓮如より積極的な布教活動を行い、全国に門徒を獲得できた石山本願寺。裕福となった本願寺はその財力をもって朝廷などに寄付を行うようになりました。特に正親町天皇の即位に際して、多額の寄付を行ったそうです。そこで永禄2年(1559)、正親町天皇は顕如を門跡に列します。門跡は平安時代から江戸時代まであった寺の格付けのうち最高位の寺の僧侶で(門跡になった僧を門跡、門跡が住職を務める寺を門跡寺院)、室町時代に入ると門跡は藤原五摂家と皇族の出家した子弟のみ就くことが出来ました。しかし親鸞の直系子孫と言われる顕如は藤原五摂家とも皇族とも所縁がないので門跡にはなれません。そこで父の証如と顕如が出家する際に九条家の猶子となっている事から五摂家九条家に連なる者として門跡になりました。後にも先にも五摂家、皇族以外で門跡と成れたのは石山本願寺だけです(本願寺の門跡成)。一時は他宗派(天台宗青蓮院)に属していた本願寺は完全に独立した宗派となります。更に永禄4年(1561)、顕如は僧正に任じられます。

また管領細川家や公家との姻戚関係を進め地盤を固めていきます。その一方で石山本願寺のある大坂を中心に畿内に本願寺に属する寺を配置し、また父の証如より進めていた門徒による一揆の掌握を務め石山本願寺は名実を備えて大名並みの力を有するようになりました。

信長包囲網への参戦

ところで石山本願寺が力を持つようになった同じころ、永禄11年(1568)。
尾張国、美濃国(現在の愛知県西部、岐阜県)を領していた織田信長が足利義昭を擁し上洛を果たします。上洛を果たした織田家は京を越え摂津国や河内国(現在の大阪府)へも侵攻しました。侵攻した織田家は各地で略奪や矢銭(寄付)を強要します。そして石山本願寺や堺に矢銭を求め、石山本願寺は5000貫を払ったと言われます。しかし自治領の堺はこの矢銭を拒否、結果的に堺は織田家の管理下に置かれました。こうして織田家の圧迫を受けた石山本願寺は織田家に反感を覚えるようになります。

そして元亀元年(1570)、四国に逼塞していた三好家が摂津国へ侵攻、織田家と交戦状態に入ります(野田城福島城の戦い)。この戦いの最中の9月12日深夜、石山本願寺は一揆を起こし織田家に反抗します、石山合戦の始まりです。また一揆を起こした前日、浅井家朝倉家と湖西の講により組織された本願寺の一揆が琵琶湖の西を南進し京を目指しました。これに織田信長は驚き摂津国を撤退、今度は近江国坂本で浅井朝倉、本願寺の一揆、比叡山延暦寺と睨み合います(志賀の陣)。この間、顕如は各地に一揆を促し北伊勢の寺々が蜂起しました(伊勢長島の一向一揆)。この元亀元年の戦い(野田城福島城の戦いから志賀の陣、俗に第一次信長包囲網)は冬が来た事で正親町天皇の綸旨により停戦しました。この停戦直後、顕如は義理の兄にあたる武田信玄(この元亀元年の夏に三条の方は亡くなっていますが)と書簡を交わし始めます。

石山合戦

さて石山本願寺や浅井朝倉の反抗にあい窮地に陥った織田信長。信長は講和を結ぶ事で危機を乗り越えます。ところが同じころ、擁立しているはずの足利義昭と織田信長との関係が崩れ始めます。織田家の影響力を落したい足利義昭は独自に顕如や浅井朝倉、甲斐国武田家に書状を送り自らを支えるよう求めました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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