四国攻め(1/2)豊臣秀吉VS長宗我部元親

四国攻め

記事カテゴリ
事件簿
事件名
四国攻め(1585年)
場所
徳島県・香川県・愛媛県・高知県
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天正13年(1585年)、信長の後を継いで天下統一に乗り出した豊臣秀吉は、四国の覇者・長宗我部元親を下して四国を統一します。実は元親は秀吉の主君である織田信長と因縁のある人物で、秀吉はいわば信長の後を継いで大軍で四国を攻め、元親を叩きのめしたのです。四国攻め、四国征伐、四国の役などと呼ばれるこの戦いにより、秀吉は西日本を手中に収めることとなりました。今回はそんな四国攻めについて解説します。

長宗我部元親と織田信長の因縁とは?

そもそも四国は誰が治めていたのか。それを知るためには長宗我部元親について解説する必要があります。元親は土佐(現高知県)の有力豪族の一人でしたが、天正3年(1575年)に土佐を統一して織田信長と同盟を結び、残りの伊予国(愛媛県)、阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)を手に入れて四国を統一しようと考えます。

元親は信長に長男の烏帽子親を引き受けるよう願い、信長はこれを承諾。長男に自分の名を一字与えて「信親」と名付けるようにとしています。また、信長は元親に対し「四国は切り取り次第領土に加えてよい」、つまり戦に勝った領地は自分のものにしてよいという朱印状を発行したと言われています。これを受け、元親は三好氏の勢力範囲である阿波国から攻略しにかかります。

天正8年(1580年)、元親は部下の香宗我部親泰を信長のもとに派遣。岩倉城(徳島県美馬市)の三好康俊を下したことを報告するとともに、三好氏が自分たちと敵対しないように信長に工作を依頼しています。

ところが天正9年(1581年)6月、信長は香宗我部氏に対し、「長宗我部氏は三好氏と協力するように」と求める朱印状を発行。長宗我部氏と対立していた三好氏におもねる内容でした。これは信長が当時敵対していた中国の毛利氏に対抗するため、三好氏の三好水軍を味方につけようと考えたためのようです。ちなみに、長宗我部氏は毛利氏と協調関係にあったことから、信長が元親に不信感を抱いたのではという説もあります。

さらに、長宗我部氏に攻められた伊予の勢力が信長に助けを求めたこともあり、信長は元親に対し、土佐一国と阿波国の南半分の領有を許可する一方、他の土地を返還するよう命じました。この上から目線の命令に元親は怒ります。当初の約束では「切り取り次第」だったのになぜいきなり一方的に変更されるのか。しかも、自領は信長の手助けなく自力で勝ち取った土地です。信長の言い分を当然突っぱね、毛利氏との関係を深めます。こうして信長と元親の関係は悪化。ついに信長は長宗我部元親を下すため、四国攻めを決定します。

幻に終わった信長の四国攻め

天正10年(1582年)5月、織田信長は三男の織田信孝を総大将に据えて四国の攻略に乗り出します。ところが、信孝率いる総勢1万4000の本軍が四国に攻め入ろうとしていた時、明智光秀による本能寺の変が発生。これにより四国攻めは立ち消えてしまいます。

信長に攻められるというピンチを脱した長宗我部元親は、政治的空白が生まれた本能寺の変直後をチャンスととらえて阿波国を攻め、ほぼ手中におさめます。その後は讃岐国や伊予国を攻略し、天正13年(1585年)には四国を統一しました。ただし、阿波・讃岐・伊予各国では元親に敵対する勢力がまだ残っていたことから、「元親は四国を統一していない」という説もあり、研究者で意見が分かれています。

秀吉・毛利氏と長宗我部氏の争い

本能寺の変の後、頭角を現した豊臣秀吉。織田信長の後継者として長宗我部元親と対立を続けており、元親も秀吉と敵対する姿勢を崩しませんでした。元親は天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家が信長の後継を争った「賤ヶ岳の戦い」では勝家方に、天正12年(1584年)、秀吉が徳川家康と争った「小牧長久手の戦い」では家康方に味方をして秀吉と戦っています。

その一方で、四国の領有問題については、両者とも当初は交渉で解決できないかと考えていたようです。まずは元親が伊予を秀吉に渡して和睦しようとしますが、秀吉は拒否。その後、元親は土佐・伊予2国を安堵するのであれば他の2国は諦めるとともに、長男の長宗我部信親を大阪に住まわせて秀吉に仕えさせ、もう一人子供を人質として差し出すという和睦案を提案しています。

秀吉はこの案を一度は受け入れようとしますが、毛利氏との調整がうまくいかず結局ご破算に。この時点で毛利氏は秀吉と和睦しており、その毛利氏と長宗我部氏は伊予国の領有をめぐって争っていました。結局秀吉・毛利氏と長宗我部氏の和睦交渉は失敗に終わり、秀吉は土佐以外の3国を手に入れるため、四国攻めを決意します。

四国攻めの準備は入念に

天正13年(1585年)に四国を攻略することを決めた豊臣秀吉ですが、初めての海を渡っての戦というだけあって入念に準備を進めていきます。まずは5月4日に黒田官兵衛を淡路島に出兵させるとともに、一柳直末を明石に派遣して現地に待機させます。

8日には弟の豊臣秀長に和泉(大阪府南部)と紀伊(和歌山県・三重県南部)の船の数の調査を、紀伊の国人である白樫氏と玉置氏に四国攻めのための準備と船の手配をそれぞれ命じました。これを受けた秀長は船の調査を実施し、和泉と紀伊の船を紀ノ港(和歌山県和歌山市)に集結させるよう命じています。

そして6月、ついに秀吉は四国への出陣を決定します。当初は秀吉自身が兵を率いて6月3日に出陣する予定でしたが病気になったこと、さらに秀吉と敵対している越中国(富山県)の佐々成政への牽制の意もこめて、自分の代わりに秀長を総大将に据えました。副将は甥の豊臣秀次。秀吉は岸和田城(大阪府岸和田市)に残ります。

一方の長宗我部元親は秀吉側の動きを察知しており、天正13年の春ごろから防備を固めて戦に備えていました。四国から土佐勢6000人を含む4万人(2万人とも)の兵を集めるとともに、5月には四国統一の拠点である、他の3国とのアクセスが良い阿波国三好郡の白地城に本陣を置きます。

また、秀吉たちが阿波方面から侵攻すると予想した元親は、阿波の各城に重臣と兵を配置。木津城には東条関兵衛、渭山城には吉田康俊、牛岐城には香宗我部親泰、一宮城には谷忠澄と江村親俊、岩倉城には比江山親興、脇城には長宗我部親吉を配して防備を固めます。さらに讃岐国でも植田城(高松市)に伏兵を置いています。

四国攻め①秀吉の作戦は三方向攻め

四国攻めで豊臣秀吉が取った作戦は、軍を3つに分けて四国を三方向から攻めるというものでした。具体的には淡路島から阿波を、備前(岡山県)から讃岐を、安芸(広島県)から伊予を攻める考えです。兵力は合わせて10万から12万。大軍で長宗我部元親を下す計画でした。

  • 阿波国担当:豊臣秀長率いる本隊と豊臣秀次が淡路島から攻める。兵は合計6万
  • 讃岐国担当:宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛達が備前から攻める。兵は合計2万3000(1万5000の説も)
  • 伊予国担当:毛利輝元、小早川隆景、吉川元長達毛利勢が安芸から攻める。兵は3万~4万

それでは、国ごと四国攻めの詳細を見ていきましょう。

四国攻め②主力軍が激突!阿波国の戦い

豊臣秀長が率いる約3万の本隊が担当したのは阿波国攻め。本隊は6月16日に堺を出港し、淡路島に到着しています。これに副将の豊臣秀次が3万の兵と共に明石経由で合流しました。そして大小800隻の大船隊で阿波国の土佐泊(徳島県鳴門市)に上陸。讃岐国担当群が合流し、軍はさらに膨れ上がります。

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執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。