伊東祐兵(1/2)伊東氏中興の祖

伊東祐兵

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人物記
名前
伊東祐兵(1559年〜1600年)
出生地
宮崎県
関連する城
飫肥城

飫肥城

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戦国時代、東海地方や機内では「京都に上洛し、畿内を抑えることが天下統一のひとつの指標」とされていました。同じ頃、九州の地では激しい争いが繰り広げられていました。大友氏や島津氏なとど戦い、いったんは没落した伊東家を復活させた中興の祖として知られる伊東祐兵が現れました。戦国の世から豊臣秀吉の天下、そして関ヶ原の戦いまで駆け抜けた伊東祐兵の生涯について紹介します。

日向伊東氏とは

伊東氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族でした。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族で、一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となっています。伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住み、後に尾張伊東氏・備中国岡田藩藩主にもなりました。

伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりです。
やがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国武士の勢力を扶植していきました。

伊東氏の本家が実際に日向を支配するようになるのは、建武2年(1335)足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からになります。
祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子の所領であった穆佐院を守るため、日向都於郡300町を賜ったと伝わっています。

祐持は国大将として下向した畠山直顕に属して日向国内の南朝方と戦います。征西府の拡大、観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内は混乱しますが、伊東氏は基本的に北朝方の立場を守り、幕府に忠節を尽くしました。息子の祐重(すけしげ)も将軍・尊氏から偏諱を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名しているほどです。

室町〜戦国時代に、伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながら次第に版図を広げていきました。天正5年(1577)、島津氏の侵攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われ、瀬戸内などを流浪して堺で死去。伊東氏は一時的に没落します。

家臣の山田宗昌が大友氏に客将として入り、栂牟礼城などで何度も島津軍を破るなど多くの戦功を立て、義祐の三男・伊東祐兵は中央に逃れて羽柴秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州平定で先導役を務め上げた功績を認められ、日向に大名として復帰を成し遂げました。

伊東祐兵の前半生と伊東氏の没落

永禄2年(1559)、日向国の都於郡城で、伊東義祐の次男として誕生します。(早世した嫡男も含めれば三男)幼名は虎熊丸。翌永禄3年(1560)に兄の義益が家督を継いで都於郡城主となり、父は隠居して後見になりました。

永禄11年(1568)、伊東氏四代にわたる5回目の攻撃により飫肥城を島津氏から奪うと、まだ幼い虎熊丸(祐兵)が飫肥城の城主となります。しかし翌年に、兄が病死。祐兵が家督を継いで、義祐が再び当主を代行するようになりますが、これを機に伊東氏の勢力が減退していきます。

天正5年(1577)、福永祐友・米良矩重ら家臣の謀反に呼応した島津氏の侵略により、義祐が佐土原を追われると、祐兵ら一族もこれに同行。戦国大名の大友宗麟のもとを頼って、米良山中から高千穂へ抜けて豊後国に退去しました。

天正6年(1578年)、宗麟は、義祐や孫・義賢のため、また日向国をキリスト教国にするという自身の大望で、日向国へ大軍で攻め入ります。しかし大友氏・伊東氏の連合軍は島津氏(島津家久、山田有信ら)に大敗を喫しました。

この敗戦で有能な家臣を多く失った大友氏は、家運が傾きます。このため合戦の発端ともいえる伊東氏一族は大友領内に居づらくなり、義賢と祐勝らを豊後に残して祐兵は義祐、正室の阿虎の方、河崎祐長・権助父子ら家臣20余人と共に、海を渡って伊予国の道後へのがれます。河野氏の一族の大内栄運(信孝)を頼りました。

一方、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が日向国を一時退去した後、祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏の三部快永という者がおり、三部が播磨姫路城の普請を見物にいったところ、三部に日向の者かと聞く者がいました。

伊東家が島津家に国を取られ浪人して伊予河野家に寄宿しているというと、「イトウは伊藤か伊東どちらだ」と問うので、伊東であると三部が答えます。
同族であると意気投合した伊東掃部助の知己を得て、天正10年(1582)正月、掃部助が仲介して祐兵の主従20余名は羽柴秀吉に仕官することになります。

同10年6月、明智光秀と羽柴秀吉が争った山崎の戦いで祐兵は活躍。秀吉の命令に応じて首級を上げた恩賞として、金房兵衛尉政次の造る抛鞘の鎗を拝領しました。
さらに翌11年(1583)、賤ヶ岳の戦いにも従軍しています。

日向への復帰と最期

天正14年(1586)、秀吉が島津征伐を始めるにあたって祐兵は先導役として抜擢されます。黒田孝高(黒田官兵衛)に従って先陣に加わりました。豊前国の宇留津城攻めで軍功を挙げます。翌15年(1587)には豊臣秀長を大将とする軍に加わって日向国に入り、旧臣を集めて根白坂の戦いにも参加。ほどなく島津氏は降参しました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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