太田城和歌山県和歌山市

秋の太田城1
  • 羽柴秀吉による太田城水攻めの舞台
  • 来迎寺周辺が本丸跡と伝わる平城
  • 出水地区に水攻め堤跡が残る

太田城とは、和歌山県和歌山市太田にあった戦国時代の平城である。紀伊国の土豪・太田氏の城として知られ、天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、太田左近を中心とする勢力が籠城した。秀吉は城の周囲に長大な堤を築き、宮井用水を利用して水を引き込む水攻めを行った。現在、城郭遺構の多くは市街地化により失われているが、来迎寺が本丸跡と伝わり、境内には太田城跡の碑が建つ。出水地区には太田城水攻め堤跡が残り、秀吉の水攻めを現在に伝えている。

太田城の特長
目的 太田氏の居城、紀伊国北部の地域支配拠点、秀吉の紀州攻めに対する籠城拠点
特長 太田城水攻め、太田左近、来迎寺、太田城跡碑、水攻め堤跡、平城、宮井用水
他の城との違い ・羽柴秀吉による水攻めの舞台として知られる
・現在は城郭遺構よりも、来迎寺の城跡碑と出水地区の水攻め堤跡で歴史をたどる城である
・備中高松城、忍城と並び、日本三大水攻めのひとつとして語られることがある
太田城の石垣・土塁
石垣 現存遺構なし
土塁 城跡本体の明確な現存遺構は限定的。水攻め堤跡は現存
種類 平城、堀、土塁、水攻め堤、防御集落、城下町
石材 該当なし
特長 太田城は石垣を主体とする近世城郭ではなく、平地に堀や土塁をめぐらせた戦国時代の平城であったと考えられる。現在、城跡周辺は市街地化しており、城郭遺構は確認しづらい。一方で、太田城水攻めの際に築かれた堤跡が出水地区に残る。発掘調査では、東西基底幅20.8メートル、上端幅15.8メートル、高さ2.4メートル、長さ66.0メートルの堤跡が確認されており、城本体よりも水攻め堤跡が太田城の歴史を伝える重要な遺構となっている。
太田城DATA
別称 紀伊太田城
所在地 和歌山県和歌山市
築城 戦国時代
築城者 太田氏、または紀氏系の勢力と伝わる
住所 和歌山県和歌山市太田周辺
電話番号 073-435-1194
開館時間 来迎寺境内・太田城跡碑は見学自由。太田城水攻め堤跡も外観見学
休館日 なし
入館料 無料
備考 来迎寺が太田城の本丸跡と伝わり、境内に太田城跡の碑が建つ。太田城水攻め堤跡は和歌山市出水に残り、和歌山県指定文化財である。太田城跡周辺は住宅地のため、見学時は寺院や周辺住民への配慮が必要である。
太田城への交通アクセス
JR西日本・和歌山電鐵「和歌山」駅から徒歩約7分。

HISTORY 太田城について

太田城の歴史
戦国時代 紀伊国の土豪・太田氏の居城として、太田城が築かれたと伝わる
戦国時代後期 太田氏が雑賀衆や紀州の在地勢力と関わりながら、和歌山平野の一角を支配する
1585年 羽柴秀吉が紀州攻めを行い、太田城が攻撃対象となる
1585年 太田左近を中心とする勢力が太田城に籠城する
1585年 羽柴秀吉が太田城の周囲に長大な堤を築き、宮井用水を利用して水攻めを行う
1585年 太田城が開城し、太田左近ら中心人物が処刑されたと伝わる
1585年以降 太田城は城としての役割を終え、紀州支配は豊臣政権下で再編される
2021年 和歌山市により太田城水攻め堤跡の発掘調査が行われ、堤跡の構造が確認される
2023年 太田城水攻め堤跡が和歌山県指定文化財となる

太田城と関連する事件を読む

紀州征伐織田信長・豊臣秀吉vs雑賀衆・根来衆
紀州征伐とは 天正5年(1577年)と天正13年(1585年)の2度にわたり、織田信長と豊臣秀吉が紀伊国へ侵攻した戦いである。 雑賀衆や根来衆など、鉄砲を活用する宗教勢力・武装集団が力を持つ紀伊国を平

太田城と関連する人物記を読む

豊臣秀吉戦国一の出世頭
豊臣秀吉とは 天文6年(1537年)に尾張国愛知郡中村郷、現在の愛知県名古屋市中村区に生まれた、戦国時代の武将である。 幼名を日吉丸といい、出自については農民または下層武士の家に生まれたとされるが、正