加藤清正(1/2)賤ヶ岳の七本槍

加藤清正

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人物記
名前
加藤清正(1562年〜1611年)
出生地
愛知県
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熊本城

熊本城

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戦国時代、多くの有力武将を生み出した地が尾張・三河(今の愛知県)界隈でした。三英傑と呼ばれた織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、前田利家など多くの歴史に名を残した戦国武将がいます。加藤清正もそのひとり。豊臣秀吉と母親同士が親類とも言われ、代々の譜代家臣を持たなかった秀吉に子飼いとして仕えました。今回は、肥後の大名にまで上り詰めた加藤清正について紹介します。

誕生から肥後の大名へ出世

永禄5年(1562)6月24日、刀鍛冶である父・加藤清忠と母・鍛冶屋清兵衛の娘である伊都の子として尾張国愛知郡中村に生まれました。

しかし、永禄7年(1564)、清正が3歳の時に父が死去。母と共に津島に移ります。天正元年(1573)に、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚との説もあり)であった縁から、近江長浜城主となったばかりの又従兄弟になる秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576)に170石を与えられました。
その後、近江の守護大名佐々木氏の一族で、近江の名門である山崎片家の娘と結婚、正室としています。

天正10年(1582)4月14日、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めた時、清正は城に一番乗りを果たして、竹井将監を討ち取りました。しかし、同年6月2日、本能寺の変が起こると清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加しています。

翌年、秀吉が柴田勝家と激突した賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の1人として3,000石の所領を与えられました。

天正13年(1585)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭に叙任されます。天正14年(1586)、秀吉の九州平定に従い、天正16年(1588)に肥後国領主となった佐々成政が失政により改易された後、替わって肥後北半国19万5,000石を与えられて隈本城に入りました。後の天正19年(1591)頃には改修を加えて熊本城としています。

清正が肥後半国を与えられた理由として、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた肥後の情勢から、長年代官を務めて九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣され現地に通じている清正ならと考え肥後半国を託したと言われています。
肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた内政能力がありました。

文禄・慶長の役

文禄元年(1592)からの文禄・慶長の役では、清正は朝鮮へ出兵します。
文禄の役では二番隊主将となり、鍋島直茂・相良頼房などを傘下に置きました。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路で、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城しています。

漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を撃破。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破って、咸鏡道を平定。
現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にしました。

慶長2年(1597)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となります。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしたと言われています。しかし敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けませんでした。
日本軍の作戦目標は先ず全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道へも進撃することと、その達成後は後退して拠点となる城郭群を建設することでした。
西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出し、最初の作戦目標を達成しました。

慶長2年(1597)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城しています。未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に大きな損害を与えて勝利へと導きました。

関ヶ原の戦いから江戸幕府

豊臣秀吉が死去し、清正らは日本に帰国することになります。
帰国した清正は向こう数年の百姓の夫役を停止するなど領国建て直し策を出しました。また、朝鮮出兵時から続けられていた国内外を舞台にした投機的な取引によって、収取された米や大豆、麦などの農産物を売買し、少しでも財政難を解消することにも努めました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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