耳川の戦い(1/2)九州最強、島津氏が本領発揮、大友氏を破る

耳川の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
耳川の戦い(1578年)
場所
宮崎県
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鹿児島城

臼杵城

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戦国時代、九州では大友氏、島津氏、龍造寺氏の3勢力が争う「九州三国志」状態でした。そんななか、天正6年(1578年)に日向国高城川原(現宮崎県木城町)で大友氏と島津氏が争ったのが「耳川の戦い(高城川の戦い)」。勢力を拡大する島津氏を大友氏が攻めた戦いは、「戦国最強」と名高い島津が釣り野伏などを巧みに使って勝利し、九州統一に大きく歩みを進めました。今回はそんな耳川の戦いについて解説していきます。

戦国時代の「九州三国志」

戦国時代、九州内では大名たちが覇権を争い、激しい戦いを繰り広げていました。そして年号が元亀から天正に変わる1573年頃には九州北東部・豊後(大分県中南部)の大友氏、九州北西部・肥前(佐賀県)の龍造寺氏、南九州・薩摩(鹿児島県)の島津氏の3強が覇権を争う「九州三国志」時代が訪れていました。

しばらく三すくみの状態が続いていましたが、そんななか、天正5年(1577年)に日向国の伊東義祐が島津氏の猛攻に敗れ、縁戚関係にあった大友氏を率いる大友宗麟を頼ったことで、島津氏と大友氏の対立が深まることになります。

大友宗麟は伊東義祐を庇護するとともに、旧領地の半分を譲渡するので日向を取り返そうと願う義祐を助力することを決定します。宗麟は島津氏の勢力拡大を恐れていました。日向国が島津氏の手に落ちたことで、周辺の小勢力は島津氏の傘下に入ろうとしていたのです。さらに、大友方についていた日向国北部の土持親成が、島津氏の調略の結果島津についたことも対する怒りも、日向への遠征の一因だったようです。

キリシタン大名、大友宗麟の野望

また、この時大友宗麟には1つの大きな野望がありました。それが「日向をキリスト教徒の楽園にしよう」というものです。いきなり何だ?と思われるかもしれませんが、宗麟はもともとキリスト教への関心が高く、常にポルトガル人宣教師を保護してきました。キリスト教の布教を保護しながら南蛮貿易を実施し、海外とのパイプを強くしていきます。そして天正6年(1578年)、ついにキリスト教徒に改宗。反対する、宮司の娘で神道を信仰していた正室の奈多夫人を捨てて側室のキリシタン・ジュリアと臼杵に引っ越しています。

キリスト教に傾倒していった大友宗麟は、キリスト教徒のための理想郷を作ろうと考えるようになっており、伊東義祐の申し出はまさにタイミングとしては最適でした。「天が与えたもうたチャンス」と思ったのか、天正6年(1578年)、宗麟は島津氏から日向を取り戻そうと、3万(一説には4万)の兵を率いて日向に出兵します。ちなみにこの出兵、立花道雪をはじめとした家臣からは反対を受けていますが、キリスト教命の宗麟は聞きいれませんでした。こうしてキリスト教は大友氏の内部分裂を進めていったのです。

出兵を決めた大友宗麟は軍を肥後口と自ら率いる豊後口に分け、豊後口の軍は2月には日向国の門川城に入城し、伊東氏の家臣たちと合流。伊東氏家臣の長倉祐政・山田宗昌は島津氏の勢力圏内である石城に入り挙兵します。さらに伊東氏の家臣たちは、島津方だった縣城の土持親成を攻めます。4月には松尾城に籠城していた土持親成を、城を落とした後に捕縛し殺害。こうして大友氏は耳川以北の土持領の制圧に成功しました。一方、肥後口の軍は高千穂に向かい、吉村氏を滅ぼしています。

無事に土持親成の領土を得た大友宗麟は、早速キリスト教徒の理想郷づくりに乗り出します。8月には無鹿(むじか、宮崎県延岡市)に本営を置き、教会を建設して毎日ミサを実施。理想のキリストに基づく街づくりにいそしんでいました。

島津氏の反撃・石城の戦い

一方、島津氏といえば、当主・島津義久とその弟の義弘・歳久・家久が九州統一をめざして北上している最中。義久は日向を取り返そうと、従兄弟で家老の島津忠長率いる7000の軍を派遣し、長倉祐政・山田宗昌など伊東氏の家臣団がこもる石城(宮崎県児湯郡木城町)を攻めます。

石城は三方を急流に囲まれており、背後は険しい山がそびえる山城で攻めにくいのが特徴。7月の戦いでは伊東軍が勝利し、島津軍は500人もの死者を出すばかりか、副将の川上範久は討ち死にし、島津忠長も矢で射抜かれて重傷を負いました。島津軍は一度は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)に撤退しますが、9月には島津以久が大将となり、1万の軍で再度石城を攻めました。約10日の激戦の結果、援軍もなくも兵糧も不足してきた伊東軍側が不利に。結局伊東軍は9月29日、講和の末城を明け渡して門川に撤退しました。

なお、この日向攻めの際、大友宗麟はキリスト教信仰のために土持領の寺社仏閣を破壊。経典や仏像まで徹底して打ち壊しました。もともと寺社仏閣が強い地域だったことから、その力を弱めようという政治的な理由もあったようですが、この行為は家臣から大反発を招きます。宗麟自身はキリスト教徒でしたが、部下や領内の民たちは仏教を信じているものもいたため、こうした宗麟の行為は大友氏の団結を崩し、分裂を招く一因になっていくのです。

耳川の戦い①大友軍が高城を包囲

10月20日、大友軍は3万(または4万)の大軍で再度南下を開始します。そして島津方の山田有信ら300の兵が高城を包囲。高城は東・南・北が断崖絶壁で、西には空堀が7つ(5つとも)設けられる堅城でした。そこで大友軍はまず、「国崩し」ことフランキ砲や大量の鉄砲を活用して、砲撃で攻めたてます。フランキ砲は大友宗麟が南蛮貿易でポルトガルから手に入れていたもので、国も崩せそうな破壊力があることからその名がつけられました。もっとも家臣からは「値段が高いからうちの国が崩されそうだ」と皮肉られたそうですが。

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執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。