織田信長(2/2)天下統一前に斃れた武将

織田信長

織田信長

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人物記
名前
織田信長(1534年〜1582年)
出生地
愛知県
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清洲城

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小牧山城

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岐阜城

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墨俣一夜城

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関係する事件

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃します。わずかな手勢しか率いていなかった信長でしたが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘します。
しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てました。享年49。
翌朝、明智方は信長の遺体を探しましたが、焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったため発見されませんでした。本能寺の変から4ヶ月後、明智光秀を討った羽柴秀吉の手によって、信長の葬儀が大徳寺により盛大に行われました。

織田信長の菩提寺は、二つあります。岐阜市にある崇福寺と京都市の大徳寺総見院です。また、京都市北区の船岡山の中腹にあり、明治時代に建てられた建勲神社(たけいさおじんじゃ/けんくんじんじゃ)は、織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀した神社です。

織田信長の人物像

織田信長が尾張国にいた若い頃、異様な格好をして瓜を食べながら歩く「おおうつけ」とされています。この行動が、逆に成長した信長の天才性を象徴しているかのように見られがちですが、逆に成長するに従い、分別のある(多分に信長個人の価値観に左右されるものでしたが)人物へと成長しました。
武芸にも熱心で、馬術、水泳、弓術、砲術を習ったとされます。

織田信長と謁見した宣教師ルイス・フロイスの『大日本史』によると信長は、中背で華奢、髭は少なく、声は高かったそうです。酒を飲まず、食を節制し、人の扱いにはきわめて率直だが意見は聞かず、自らの見解を重視した。
名誉を重んじ、正義に対して厳格であり、きわめて稀に見る優秀な人物な司令官として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であった、と記されています。

信長の趣味として、茶の湯や相撲とともに、若い頃から鷹狩を暇な時には毎日、行って
いたそうです。幸若舞や小歌を愛好したことも知られています。

清須城、小牧山城、岐阜城

織田信長にゆかりのある城は、いくつかありますがその中で尾張国、美濃国にいた頃の城をご紹介します。

清須城(きよすじょう)
清洲城は、尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄えました。尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城です。もともとは尾張・遠江・越前守護の管領斯波家によって築かれた城でした。信長が那古野城から移って本拠とし、美濃国攻略の為に小牧山城へ居城を移すまでの10年間を過ごしています。
現在は本丸土塁の一部が残っています。平成元年(1989)に再建された天守閣の内部は歴史資料館として利用され、また清須城城跡(清洲公園、清洲古城跡公園)には信長の銅像と清洲城跡顕彰碑があります。
小牧山城(こまきやまじょう)
小牧山城のあった小牧山は、愛知県小牧市にあります。小牧山城は、織田信長が美濃国攻略の拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉と争った徳川家康の陣城となりました。
現在は山全体が史跡公園として、昭和42年(1967)に建てられた天守閣風の建物の中に、小牧市歴史館があります。桜の名所としても知られます。
岐阜城(ぎふじょう)
岐阜城は、美濃国井之口の稲葉山(現在の岐阜県岐阜市の金華山)にあった城です。もとは稲葉山城と言い、本格的に整備されたのは室町時代後期の斎藤道三の時期だと考えられます。織田信長が斎藤龍興から奪い、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城でした。
明治43年(1910)に模擬天守閣が建てられましたが、戦前に焼失。戦後、市民の募金を中心として昭和31年(1956)に建てられたのが現在の城です。平成の日本100名城の一つに数えられます。

織田信長のゆかりの地など

ぎふ信長まつり
ぎふ信長まつりは、岐阜県岐阜市で毎年10月の第1土曜と翌日日曜に行われ、織田信長の偉業、遺徳をしのび開催されるお祭りです。市内中心部が歩行者天国になり、審査によって選ばれた人々が織田信長等に扮して行進する騎馬武者行列をはじめ、時代行列が神田
町通りをパレードするほか、毎年趣向を凝らした様々なイベントが催されています。
あづち信長まつり
滋賀県近江八幡市安土において毎年6月に開かれるお祭りです。一番の見所は安土城下をめぐる武者行列。最後の居城、安土城跡を背景にJR安土駅前で出陣式を行い、信長をはじめ武将、姫君、宣教師などの衣装を身にまとい、安土山麓まで練り歩きます。
また地元の特産物を販売する「あづち楽市」やお堀巡りなどのイベントも行われます。
安土城跡と安土城天主
織田信長、最後の居城安土城約3年の歳月をかけて、当時の日本で最高の技術と芸術を用いた天下の名城だったといわれますが、本能寺の変で信長が倒れた後に焼失しました。
現在は国の特別史跡に指定され、石垣などの跡を見ることができます。さらに安土町内には、スペイン・セビリア万国博覧会の日本館で出展された、安土城天主の原寸大で復元されている「安土城天主 信長の館」があります。
本能寺跡
織田信長が明智光秀によって討たれ生涯を終えた本能寺。現在の本能寺は移転し、信長が討たれた当時の本能寺があった地は跡地として石碑が建っています。石碑の字はヒが2つ使われる通常の「能」の字ではなく、火が去るようにとの願いを込めて旧漢字を使用したと言われています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03