浅井長政(1/2)北近江の浅井家最後の当主

浅井長政

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人物記
名前
浅井長政(1545年〜1573年)
出生地
滋賀県
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一乗谷朝倉邸

一乗谷朝倉邸

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戦国時代、近江国は交通の要所として重要な場所でした。この場所を抑えることは、天下統一に近づくことにもつながっていたのです。岐阜から京都に出るルート上にあった北近江を支配していたのが、浅井家。その最後の当主、浅井長政が今回の主人公です。織田信長の妹・お市の方の夫でもある彼の生涯はどのようなものだったのでしょうか。なぜ信長を裏切ったのか。激動の生涯を紹介します。

誕生から家督相続まで

天文14年(1545)、浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれたとされています。幼名は猿夜叉丸。

下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏でしたが、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れてしまい、初代当主であった浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地まで失い、六角氏に臣従していました。

そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質として扱われていたようです。父・久政は六角氏との外交に力を入れ、何とか北近江を維持している状況でした。家臣の中には久政の政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていたため、不安定な一面もありました。

15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井が臣従関係にあることをはっきりさせるために、長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって、賢政と名乗らせています。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強要しました。

浅井家拡大と六角家衰退

永禄3年(1560)8月中旬、賢政(新九郎)は16歳で軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦い振りを披露しました。

六角氏に服従する状況に不満を持っていた家臣達は賢政(長政)に期待を寄せていきます。父・久政を竹生島に追放して隠居を強要、長政は家督を強奪に近い形で相続しました。
長政は六角氏から離反する意思を明確にするため平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻しました。

野良田の戦いの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と違い、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためだと言われています。

また、長政が六角氏から離反した際に朝倉氏と臣従関係を結んだという説もあります。これは浅井氏側が朝倉氏を「御屋形様」と位置づける文書(「下郷共済会所蔵文書」『浅井氏三代文書集』)が出てきたこと、一乗谷に「浅井殿」・「浅井前」の地名が残されていることから出た説です。特に後者に関しては、浅井氏が一乗谷に与えられていた屋敷に由来する地名で、対等な同盟関係ではなく、朝倉氏(義景)に出仕していたことを伺わせるとも言われています。

また、当時の国衆は対立していない複数の大名に従属していたケースも存在し、朝倉氏に従属した長政が織田信長の妹を娶って新たな臣従関係を結んだとしても、朝倉氏と織田氏が対立しない限りは許容されていたようです。

永禄6年(1563)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が六角氏当主の義治により殺害されます(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井家に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的となり、徐々に弱体化を辿ります。

同年、長政の美濃遠征中に、留守を狙った六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿を守らせた赤尾清綱は、500の兵で見事な働きを見せています。
この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大した反面、その後は六角氏との停戦協議によって膠着状態が続きます。

織田信長との同盟とお市の方の輿入れ

1560年代、織田信長は、美濃国の斎藤氏との膠着状態を打破する方策を探しており、不破光治を使者として浅井家に送り、長政に同盟を持ち掛けます。

同盟のあかしとして、織田と浅井の両家は政略結婚を取り決めます。永禄10年(1567)9月頃に、長政は信長の妹のお市の方を妻として娶ります。なお、長政と市の婚姻時期については諸説あります。永禄7年(1564)、永禄8年(1565)とする説などいくつかの説があり、現在でもはっきりしない部分があります。

織田家と浅井家の同盟によって、信長は京都への上洛経路ともなる近江口を確保することができ、同時に美濃国攻略の足掛かりを得ました。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井家側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったにもかかわらず、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとも言われています。

長政とお市の方の結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名したとも言われていますが、 さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作ったという話も残っています。

この同盟が結ばれたことで、永禄11年(1568)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せることになります。

9月、信長は上洛を開始。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃します。これにより、長政の敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に縮小。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護しました。

信長との同盟を破棄し、信長包囲網を形成

元亀元年(1570)、信長が徳川家康と一緒に琵琶湖西岸を通過して、若狭および越前の朝倉方の城の攻略に乗り出します。このため、長政はとつぜん同盟関係にあった信長を裏切って、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかかります。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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