三好三人衆(1/2)三好家三頭政治

三好三人衆

三好三人衆

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人物記
名前
三好三人衆(年)
出生地
徳島県
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応仁の乱の後、日本は戦国と呼ばれる時代に入ります。この戦国時代中期、織田信長が台頭してくる直前に京を支配していたのは三好長慶でした。三好家は四国から近畿の半分を支配し、日本でも最大の大名でした。ところがこの三好家に不幸が続き、その中で長慶も亡くなります。指導者の居なくなった三好家を指導したのが三好三人衆でした。今回は三好三人衆について見ていきたいと思います。

三好家と享禄・天文の乱

日本は応仁の乱の直後、細川政元が政治を主導しました。ところが細川政元が暗殺されると、細川家の当主の座を巡り政元の養子たちが争います(両細川の乱)。

三好氏は、そんな争っていた細川家に仕えていました。三好氏は阿波国三好郡(現在の徳島県三好市)より興ります。阿波国讃岐国(現在の徳島県、香川県)を地盤に置き、力をつけていきました。

この三好家に三好元長が当主に就きます。元長は細川高国を討ち細川家内部の争いを鎮めました。ところが手柄のあった三好元長。この三好元長を主君の細川晴元は快く思っていませんでした。疎んじた細川晴元は三好元長を排除しようと決めます。しかし排除するには力のなかった細川晴元。そこで晴元は山科本願寺の証如に助力を求め、三好元長は一向一揆に追い込まれ自害します。(「享禄・天文の乱」)

三好元長は堺において自害しますが、その死の直前に子供達と妻を四国に逃しました。その元長の長男が三好長慶でした。そして一族の一人として初期から長慶を支えたのが、三好三人衆の一人となる三好長逸でした。

三好三人衆

三好長逸(みよしながやす)
三好長逸の生年は不明ですが、父の三好長則が等持院の戦いで戦死しているので、長逸の出生は永正12年(1520)より以前と考えられています。三好元長が亡くなり、三好長慶が幼くして三好家当主に就くと、三好長逸は一族の年長者として長慶を支えます。三好家は細川家の内紛で多くの死者を出していました。そこで三好長逸など若い世代が主導していかなければならなかったのです。
三好家の当主となった三好長慶。長慶は四国から畿内に戻ると管領細川晴元に仕えます。三好家は細川晴元に仕えながら独自の拡大路線をとっていき、四国の他に摂津国から播磨国(大阪府から兵庫県南西部にかけて)へ版図を拡大しました。
三好元長が亡くなり、一度は衰退しかけた三好宗家。しかし三好長慶が当主に就くことで三好家は徐々に拡大していきます。そんな三好長慶を苦々しく見ていた者がいました、同じ三好氏の一門として細川晴元につかえていた三好政長です。
三好宗渭
三好政長は三好氏一族の1人として管領細川晴元に仕えていました。ところが宗家の三好元長(三好長慶の父)と折り合いが悪く、主君の細川晴元にしばしば讒言しました。結果、三好元長は細川晴元から疎まれ堺において自害に追い込まれました。 そして自害した三好元長の嫡男三好長慶とも、三好政長は不仲でした。三好長慶は細川晴元に政長追討の許可を迫ります。細川晴元はこれに応じなかったので、三好長慶は独断で三好政長追討の兵を挙げました。
後に三好三人衆の一人となる三好宗渭は、三好政長の嫡男として生まれます。
三好長政は子の宗渭や為三、当主の細川晴元と共に三好長慶に抵抗します。しかし三好長逸などに攻められた三好政長は討たれました。 父の三好政長が討たれた後も、宗渭、為三の兄弟は三好長慶と対立していました。ところが三好長慶は更に勢いをつけると抗しがたくなり、永禄元年(1558)までには兄弟そろって三好長慶の家来になっています。兄弟は管領細川家に長く仕えていた為に畿内の大名国人とパイプがあり、それを重要視し重用しました。
こうして政敵であった三好政長の息子、三好宗渭は畿内の半分を治めた三好長慶の家来として仕えていく事になります。
岩成友通
主君細川晴元を追放し、四国から畿内の半分を統べた三好長慶。ところが急激な拡大路線を行った結果、人手不足となりました。三好長慶は自らが直接支配している畿内において人材を発掘します。例えば松永久秀や長頼の兄弟が代表的で、三好三人衆の1人となる岩成友道もその1人でした。人材不足を現地(畿内)で積極登用する事で、それまであった三好家にとらわれない家臣団を作る事が出来たのです。
有能な家臣団に支えられ三好長慶。三好家の版図は四国の東側(阿波国、讃岐国)から畿内の西半分(摂津、河内、和泉、大和、丹波、播磨)を押さえる事が出来ました。当時としては日本屈指の大大名です。
三好長慶は畿内を中心とした天下人になりました。
そんな三好家家臣団の1人となった岩成友道の出自は分かっていません。しかし天文19年(1550)には三好家家臣として名前が出はじめ、奉行衆の一員として頭角を現し三好家の中で地位を高めていきました。

三好家の絶頂期

永禄年間(1558)の三好家が誇った影響力は畿内の西半分から四国の東半分にまで及んでいました。日本最大の大名です。
そんな力を付けた三好長慶を将軍であった足利義輝は疎ましく思っていました。三好長慶と足利義輝は度々争います。

しかし永禄4年(1561)、争いにくたびれた三好長慶と将軍足利義輝は和解します。その和解の証として、京にある三好家の屋敷へ足利義輝を迎え酒宴を開きました(将軍御成)。将軍を邸宅に招き宴を開く事は名誉なこととされています。
まさに四国から興った三好家の絶頂の瞬間でした。

この宴席で三好長逸は三好家一門トップの席次として参加します。長逸は三好長慶の覇権成就の最初から一門を纏め、三好長慶、義興親子を除いた三好家最高位となりました。また官位も従四位下日向守に就くなど三好家一門の中でも長老格となっていきます。

長慶の死と三好三人衆の台頭

将軍足利義輝と和解し、畿内を中心とした天下を治めた三好家。ところが三好家の栄華は長くは続きませんでした。足利義輝が三好家の邸宅を訪れた時から坂を転げ落ちるように、三好家は衰退していきます。

足利義輝が三好家の邸宅へ招かれた同じ年から相次いで、三好長慶を支えた弟たちが亡くなります。更に永禄6年(1563)、長慶の実子である三好義興も22歳で早世してしまいました。三好長慶の子は三好義興しかいませんでした。長慶は義興を亡くし、体を壊したと言われています。跡継ぎの居なくなった長慶は甥である三好義嗣を養子に迎え三好家を継がせる形を取りました。

そして永禄7年(1564)、三好家当主の三好長慶も亡くなりました。三好家は養子として入った三好義嗣が継ぎます。この若い義嗣を補佐したのが三好三人衆と呼ばれるようになる三好長逸、三好宗渭、岩成友通でした。三好長逸は亡くなった三好長慶が当主に就いた時から三好家を支えた長老格、三好宗渭は長慶と敵対していた時に旧主細川晴元に仕えていたので畿内の大名国人にパイプがあったので交渉役、岩成友通は奉行出身者として三好家家臣団の取り纏め役として三好家を主導していきます。この3人は『言継卿記』や『多聞院日記』において「三人衆」と記されていたことから当時から三好三人衆と呼ばれていました。

畿内を中心とした三好家の天下を、この三好三人衆が管理していく事になります。

永禄の変

天下人となった三好長慶は亡くなりました。三好家は三好義嗣を当主に据え、三好三人衆が支える体制を取ります。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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