清洲城愛知県清須市

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清洲城DATA
別称 清須城
築城 1405年
住所 愛知県清須市朝日城屋敷1-1
清洲城への交通アクセス
JR「清洲」駅・名鉄「新清洲」駅下車徒歩15分。

HISTORY 清洲城について

清洲城と関連する事件を読む

関ヶ原の戦い天下分け目の戦〜きっかけ・まとめ・その後とは?
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関ヶ原の戦い
桶狭間の戦い織田信長がまさかの勝利!?
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桶狭間の戦い
稲葉山城の戦い織田信長が美濃を制覇
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稲葉山城の戦い
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清洲会議
清洲同盟織田信長と徳川家康、約20年続いた同盟
織田信長と徳川家康は乱世の戦国時代にもかかわらず、長きにわたって良好な関係を築いていたことで知られています。その象徴ともいえるのが、永禄5年(1562年)に両者の間で締結された「清洲同盟」です。織徳同
清洲同盟

清洲城と関連する人物記を読む

織田信長天下統一前に斃れた武将
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織田信長
松平忠吉関ヶ原の火蓋を切った大名
室町時代後期、戦国時代とも呼ばれた戦乱の世は徳川家によって終わります。この時代の終止符を打った戦いがあの「関ケ原の戦い」です。東西に分かれて10万人以上が対峙したこの戦い、最初の発砲を行ったのが松平忠
松平忠吉
福島正則賤ケ岳の七本槍
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福島正則

清洲城を藩庁とする、清洲藩の歴史

丸に三つ葵

松平家の家紋「丸に三つ葵」

清洲藩DATA
藩庁 清洲城
旧地域 尾張国清洲
石高 47万石
譜代・外様 親藩
主な藩主 松平氏・徳川家
推定人口 26万人(明治元年)

戦国時代、清洲城は守護代の織田氏(織田大和守家)の居城であったが、分家出身の織田信長がこれを奪い居城とした。しかし信長が岐阜城、次いで安土城と拠点を移してからは清洲城の存在価値は極度に低下していく。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると、信長の後継者を合議する会議、いわゆる清洲会議が清洲城で開かれ、このとき豊臣秀吉によって信長の後継者は信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)と決められ、清洲城主には信長の次男・織田信雄が据え置かれた。

日本の城フォトコンテスト.03