織田信長天下統一前に斃れた武将

織田信長

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人物記
名前
織田信長(1534年〜1582年)
出生地
愛知県
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戦国武将の中でも抜群の知名度と人気を誇る織田信長に、どんな印象を持っているでしょうか。三英傑のひとりに数えられるだけでなく、戦でのエピソードから、革新的な一面、そして非業の死まで波乱万丈な武将です。決して順風満帆な局面ばかりではなく、時には辛酸を舐めるような出来事に見舞われ、まさにドラマともいえる人生でした。
今回は、そんな織田信長の生涯についてご紹介します。

織田信長の誕生

織田信長は天文3年(1534)5月、尾張(愛知県西部)の一地方領主であった織田信秀の
子として誕生します。父の信秀は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲
織田家)の分家でした。清洲三奉行という家柄で、信秀の代において勢力を急拡大させて
いきました。

信長は、信秀が奪った那古野城を早くから譲られ、城主となっています。幼少期から奇抜な行動が多く、周囲から「大うつけ」と呼ばれていました。
天文16年(1547)には今川家との小競り合いにおいて初陣を果たします。翌年、父の信秀と敵対していた美濃国の戦国大名であった斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘、濃姫(帰蝶)と信長との間で婚姻が交わされました。
その後、信長は父信秀の亡き後、織田弾正忠家の家督を継ぎ、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていきました。

桶狭間の戦い

織田信長は、尾張国内の敵対勢力や弟の織田信行を排除して領国であった尾張国の足場を固めました。そんな中、永禄3年(1560)5月、駿河国遠江国(現在の静岡県)の守護であった今川義元が尾張国へ侵攻します。駿河・遠江に加えて三河国(現在の愛知県東部)をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍でした。織田軍はこれに対して防戦しましたがその兵力は数千人程度であったとされます。

今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の砦に対する攻撃を行いました。それに対し信長は東海道を進み縦に伸びていた今川軍の本陣に強襲をかけ、義元を討ち取りました(桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させます。これを機に信長は今川氏の支配から独立した松平元康(後の徳川家康)と手を結び、両者は同盟を結んで互いに背後を固めました。

美濃国攻略

妻であった濃姫(帰蝶)の父である斎藤道三が亡くなると、織田信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなってしまいます。桶狭間の戦いと前後して両者は兵を出し合い一進一退の攻防を行っていました。
しかし永禄4年(1561)、道三の息子である斎藤義龍が急死、その義龍の息子の斎藤龍興が後を継ぐと徐々に、信長は美濃国に進出していきます。
同じ頃、北近江の浅井長政に対して妹のお市の方を輿入れさせる事で同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化していきました。

一方、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好家は、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害します(永禄の変)。
義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶)は、殺害を免れ、大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めます。信長も同年12月には義昭に書状を送り、義昭の上洛に協力する旨を約束します。義昭は信長などの協力を得て、上洛するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させました。

ところが永禄9年(1566)8月、信長は領国秩序の維持を優先して、停戦を破り美濃斎藤
氏との戦を再開させます。そして、加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にし、中濃の諸城を手に入れると、美濃国の有力な武将であった西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけます。
永禄10年(1567)、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ斎藤氏の居城、稲葉山城を手に入れます。このとき、稲葉山城を岐阜城と改称しました。

こうして、信長は尾張国に続き、美濃国も所領として治めるようになります。
同年11月には「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめます。この印の「天下」とは、日本全体を指すものではなく、五畿内(近畿)を意味すると考えられており、室町幕府再興と近内(近畿)平定を構想に描いていました。

足利義昭擁立

美濃国の稲葉山城攻略と同じ頃、織田信長は北伊勢に本格的な侵攻を行い、北伊勢の神戸氏には三男の織田信孝を、長野氏には弟の織田信良(信包)を養子として入れ、北伊勢八郡の支配を固めました。
一方、足利義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せ上洛の機会を伺っていました。しかし周辺の環境から朝倉義景は義昭を擁して上洛できずにいます。

永禄11年(1568)7月、信長は義昭を擁立して上洛する為、配下の村井貞勝や不破光治・島田秀満らを越前国に派遣。義昭は一乗谷を出て美濃国に向かい、岐阜城下の立政寺にて信長と会見を行いました。
同じ年の9月、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始しました。畿内を支配していた三好家は内部分裂を行っていて、三好家のうち三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動きます。
一方、義昭を擁立し上洛する信長に対して、その途上にある南近江の六角義賢・義治父子は織田軍と戦いましたが退けられ、居城の観音寺城を放棄しました。更に軍を進め、琵琶湖の南端にある大津まで進軍すると、摂津国河内国(現在の大坂府北部、東部)の守護、国人も織田方についた為、大和国に遠征していた三好家は抵抗できずに四国へと撤退します。
信長は京に上洛を果たし、足利義昭は第十五代室町幕府将軍となりました。

反織田包囲綱

元亀元年(1570)、織田信長は越前(現在の福井県嶺北)の朝倉家を討とうと出兵しましたが妹婿の浅井長政に裏切られて窮地に陥ります。
辛くも危機を脱した信長は6月、朝倉、浅井家と戦い勝っています(姉川の戦い)。ここから、越前の朝倉家、北近江(現在の滋賀県北部)の浅井家、四国を領する三好家、大坂の石山本願寺、比叡山の延暦寺と敵対し苦戦に陥ります。この年は、将軍足利義昭や正親町天皇の仲介で各地の勢力と和平を結びました。

ところが翌年、信長は擁立した足利義昭との関係が壊れ始めます。義昭は反信長の姿勢を取り始め、各地の有力大名に上洛を促しました。これに応えたのが甲斐(現在の山梨県)の武田信玄です。元亀4年(1573)、武田信玄は義昭の要請に応じて上洛すべく軍を率いて、甲斐を後にします。遠江国(現在の静岡県西部)で信長と同盟していた徳川家康を破り(三方ヶ原の戦い)ましたが、その途上で病死。武田家は、上洛途上で甲斐に引き返しました。

これで息を吹き返したのが、信長です。反信長の姿勢をとった足利義昭を都から追放し、畿内各地の反織田勢力を駆逐していきます。
天正3年(1575)、信長を苦しめた武田信玄の跡を継いだ武田勝頼と、三河国(現在の愛知県東部)で徳川家康と共に戦い勝利(長篠の戦い)。
およそ、最後まで抵抗したのは石山本願寺ぐらいでした。天正8年(1580)石山本願寺と和平を結び、信長は完全に畿内を手中に収めます。

こうして、畿内を平定した後、中国地方の毛利家、四国の長曾我部家、北陸の上杉家、中部地方の武田家、関東の北条家と対峙していきます。
天正10年(1582)、中部地方を支配下におく武田勝頼を討伐すべく、信長は甲州征伐を行いました。勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡します。こうして織田家は甲斐と信濃(現在の長野県)を版図に入れました。
「天下は既に織田信長の手中にある」と誰もが思っていたでしょう。

本能寺の変

天正10年(1582)5月29日、織田信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留しました。

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃します。わずかな手勢しか率いていなかった信長でしたが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘します。
しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てました。享年49。
翌朝、明智方は信長の遺体を探しましたが、焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったため発見されませんでした。本能寺の変から4ヶ月後、明智光秀を討った羽柴秀吉の手によって、信長の葬儀が大徳寺により盛大に行われました。

織田信長の菩提寺は、二つあります。岐阜市にある崇福寺と京都市の大徳寺総見院です。また、京都市北区の船岡山の中腹にあり、明治時代に建てられた建勲神社(たけいさおじんじゃ/けんくんじんじゃ)は、織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀した神社です。

織田信長の人物像

織田信長が尾張国にいた若い頃、異様な格好をして瓜を食べながら歩く「おおうつけ」とされています。この行動が、逆に成長した信長の天才性を象徴しているかのように見られがちですが、逆に成長するに従い、分別のある(多分に信長個人の価値観に左右されるものでしたが)人物へと成長しました。
武芸にも熱心で、馬術、水泳、弓術、砲術を習ったとされます。

織田信長と謁見した宣教師ルイス・フロイスの『大日本史』によると信長は、中背で華奢、髭は少なく、声は高かったそうです。酒を飲まず、食を節制し、人の扱いにはきわめて率直だが意見は聞かず、自らの見解を重視した。
名誉を重んじ、正義に対して厳格であり、きわめて稀に見る優秀な人物な司令官として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であった、と記されています。

信長の趣味として、茶の湯や相撲とともに、若い頃から鷹狩を暇な時には毎日、行って
いたそうです。幸若舞や小歌を愛好したことも知られています。

清須城、小牧山城、岐阜城

織田信長にゆかりのある城は、いくつかありますがその中で尾張国、美濃国にいた頃の城をご紹介します。

清須城(きよすじょう)
清洲城は、尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄えました。尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城です。もともとは尾張・遠江・越前守護の管領斯波家によって築かれた城でした。信長が那古野城から移って本拠とし、美濃国攻略の為に小牧山城へ居城を移すまでの10年間を過ごしています。
現在は本丸土塁の一部が残っています。平成元年(1989)に再建された天守閣の内部は歴史資料館として利用され、また清須城城跡(清洲公園、清洲古城跡公園)には信長の銅像と清洲城跡顕彰碑があります。
小牧山城(こまきやまじょう)
小牧山城のあった小牧山は、愛知県小牧市にあります。小牧山城は、織田信長が美濃国攻略の拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉と争った徳川家康の陣城となりました。
現在は山全体が史跡公園として、昭和42年(1967)に建てられた天守閣風の建物の中に、小牧市歴史館があります。桜の名所としても知られます。
岐阜城(ぎふじょう)
岐阜城は、美濃国井之口の稲葉山(現在の岐阜県岐阜市の金華山)にあった城です。もとは稲葉山城と言い、本格的に整備されたのは室町時代後期の斎藤道三の時期だと考えられます。織田信長が斎藤龍興から奪い、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城でした。
明治43年(1910)に模擬天守閣が建てられましたが、戦前に焼失。戦後、市民の募金を中心として昭和31年(1956)に建てられたのが現在の城です。平成の日本100名城の一つに数えられます。

織田信長のゆかりの地など

ぎふ信長まつり
ぎふ信長まつりは、岐阜県岐阜市で毎年10月の第1土曜と翌日日曜に行われ、織田信長の偉業、遺徳をしのび開催されるお祭りです。市内中心部が歩行者天国になり、審査によって選ばれた人々が織田信長等に扮して行進する騎馬武者行列をはじめ、時代行列が神田
町通りをパレードするほか、毎年趣向を凝らした様々なイベントが催されています。
あづち信長まつり
滋賀県近江八幡市安土において毎年6月に開かれるお祭りです。一番の見所は安土城下をめぐる武者行列。最後の居城、安土城跡を背景にJR安土駅前で出陣式を行い、信長をはじめ武将、姫君、宣教師などの衣装を身にまとい、安土山麓まで練り歩きます。
また地元の特産物を販売する「あづち楽市」やお堀巡りなどのイベントも行われます。
安土城跡と安土城天主
織田信長、最後の居城安土城約3年の歳月をかけて、当時の日本で最高の技術と芸術を用いた天下の名城だったといわれますが、本能寺の変で信長が倒れた後に焼失しました。
現在は国の特別史跡に指定され、石垣などの跡を見ることができます。さらに安土町内には、スペイン・セビリア万国博覧会の日本館で出展された、安土城天主の原寸大で復元されている「安土城天主 信長の館」があります。
本能寺跡
織田信長が明智光秀によって討たれ生涯を終えた本能寺。現在の本能寺は移転し、信長が討たれた当時の本能寺があった地は跡地として石碑が建っています。石碑の字はヒが2つ使われる通常の「能」の字ではなく、火が去るようにとの願いを込めて旧漢字を使用したと言われています。

織田信長の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1534年 天文3年 0歳 尾張国勝幡城に生まれる(父:織田信秀)
1546年 天文15年 12歳 元服
1551年 天文20年 17歳 父・織田信秀が死去。家督を継ぐ
1560年 永禄3年 26歳 桶狭間の戦いで今川義元を討つ
1567年 永禄10年 33歳 美濃を平定。岐阜城に入る
1568年 永禄11年 34歳 足利義昭を奉じて上洛
1570年 元亀元年 36歳 姉川の戦い(浅井・朝倉軍と戦う)
1571年 元亀2年 37歳 比叡山延暦寺を焼き討ち
1573年 天正元年 39歳 足利義昭を追放。室町幕府が事実上滅亡
1575年 天正3年 41歳 長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576年 天正4年 42歳 安土城の築城開始
1582年6月 天正10年 49歳 本能寺の変。明智光秀の謀反により自害
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。