津城三重県津市

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津城DATA
別称 安濃津城
築城 1558年
住所 三重県津市丸之内33-5
津城への交通アクセス
近鉄・津新町駅から徒歩10分。

HISTORY 津城について

津城は三重県津市の中心部に位置していた城です。織田信長の弟、織田信包によって築城され、1611年に築城の名手と呼ばれた藤堂高虎の手によって大規模な改修が行われました。そして、明治になり廃藩置県が行われるまで津藩の藩庁であり続けたのです。今回は、津城、そして津藩の歴史をひもといていきましょう。

戦国時代の津城
津は古称を「安濃津」といい、平安時代から伊勢国の政治経済の中心地でした。この地を鎌倉時代から支配したのは、藤原氏の流れを汲む長野工藤氏です。長野工藤氏の一族である細野藤光という武将が永禄年間(1558年 - 1569年)に建てた小規模な安濃津城という城が、津城の始まりとなりました。
永禄11年(1568年)、織田信長が伊勢に侵攻します。このときに織田掃部頭(津田一安)が安濃津城入城し、翌年には織田信長の弟である織田信包が入城しました。織田信包は城の改築に着手します。城郭を拡大して堀を造り、石垣を普請して本丸・二の丸・三の丸を整備しました。天正5年(1577年)には5重天守と小天守を落成させます。なお、織田信長の妹であるお市の方が浅野家が滅ぼされた後、3人の娘と実母と共に津城で暮らした、という説がありましたが、現在は守山城で暮らしていたというのが定説になっています。
安濃津城の戦い
織田信長の死後、武士の頂点にたった豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に、織田信包を津から丹波国柏原に移します。主を失った津城には文禄4年(1595年)7月に豊臣家家臣の富田一白という人物が6万石を与えられて入城しました。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると富田一白の一子、富田信高が東軍につきます。そのため、津城は西軍についていた毛利秀元・長宗我部盛親軍3万に包囲されてしまいました。迎え撃った富田信高の軍はわずか1,300人であったため、津城は建物の大半を焼失します。富田信高はその後、木食応其の調停により津城を開城しますが、江戸幕府成立後、この戦いを評価されて2万石の加増を受けることができました。
藤堂高虎の改築
慶長13年(1608年)、富田信高は伊予宇和島藩に国替えになりました。代わって津藩に入城したのが、伊予今治藩より国替えしてきた藤堂高虎です。石高は伊勢・伊賀合わせて22万石でした。藤堂高虎は築城の名手であり、入城後に津城を輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備しました。今も「津城跡」として「お城公園」内に残っている遺構は藤堂高虎が築城したものです。その後、藤堂高虎は大阪の陣で功を立てて元和元年(1615年)と元和3年(1617年)にそれぞれ5万石ずつの加増を受けて32万3,000石まで出世しています。
江戸時代の津城
藤堂高虎が改築した津城は、その後江戸時代を通して藤堂家の居城となり津藩の藩庁になります。津城は関ヶ原の戦い以来天守が消失したままになったと考えられてきましたが、近年の研究で寛永年間(1624年 - 1643年)に描かれた絵図の中に三重天守と二重小天守がある津城が描かれていることが分かりました。この天守閣は藤堂高虎ではなく富田氏が再建したものと考えられています。なお、この天守閣は寛文2年(1662年)の火災で焼失しましたが、再建されることはありませんでした。
明治以降の津城
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となりました。建物は順次壊されて城跡は「お城公園」として日本庭園などが整備されます。そして、昭和33年(1958年)に丑寅櫓が復元されましたが、これは江戸時代に現存していた櫓とは全く異なるものです。しかし、在りし日の津城の姿を想像することができます。また、現在本丸跡の日本庭園入口にある収入利の門は、藩校有造館の正門の入徳門が移築されものです。

津城と関連する人物記を読む

藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は

津城を藩庁とする、津藩の歴史

津藩富田氏と藤堂氏による藩政
津藩は、富田氏と藤堂氏という2つの家が治めてきた藩です。富田氏は江戸時代初期に国替えし、以降は藤堂氏が代を重ねて津藩を治めていきます。その歴史と代々藩主の功績をひもといていきましょう。 津藩の基礎を築
津藩DATA
藩庁 津城
旧地域 伊勢安濃郡安濃津
石高 32万3000石
譜代・外様 外様
主な藩主 藤堂氏
推定人口 26万人(明治元年)

藩祖は築城の名手で知られる藤堂高虎。外様ではあるが、幕末まで「奉幕」の藩風が続いたが、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍として参戦。しかし、現地統帥藤堂元施が勅使の説得に応じて新政府軍に転じた。

津城、藤堂高虎が改修した織田家ゆかりの城

三重県津市にある津城は、築城の名手・藤堂高虎が手がけた城として知られています。堀と石垣が美しく残り、徳川期には伊勢国津藩の中心として栄えました。現在は「津城跡公園」として整備され、市民に親しまれています。

津城の歴史
津城は永禄11年(1568年)の織田信長の伊勢侵攻により、織田信長の弟・織田信包が同地に安濃津城を築城したのが始まりです。城は天正8年(1580年)にほぼ完成しました。安濃川下流の低湿地に建てられ、安濃川と岩田川に挟まれた堅固な城で、本丸には5重の天守がそびえ、周囲には出丸も設けられました。
信包の次は富田知信が入り、その息子の信高とともに城下町の整備を進めました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、東軍方の城として安濃津城が戦の舞台になりました(安濃津城の戦い)。安濃津城は東軍方で1700の寡兵で籠城し、毛利秀元ら西軍3万を迎え撃ちます。東軍方は籠城するも、攻撃に耐えきれず和平交渉により開城しました。信高は剃髪して高野山に移ります。
関ヶ原の戦い後、籠城戦の功績を認められた富田信高は引き続き津を治めて戦争からの復興に務めますが、慶長13年(1608年)に伊予宇和島城に転封となりました。代わって伊予から藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石の大名として入城。高虎は慶長16年(1611年)から津城を全面的に改修し、近世城郭化しました。
この時高虎は本丸を拡張して石垣を築き、既存の3重の天守に加え、2重の小天守を新たに築きました。また、城域を北側に拡張し、三重櫓を新設しています。さらに東の丸と西の丸の曲輪を作り、堀を整備。二の丸には役所や重臣の屋敷などを設置しました。
加えて城下町を整備し、海岸沿いを通っていた参宮街道(現伊勢街道)を城下町に引き入れ、津に宿場町としての賑わいを創出しています。以後、津藩は藤堂氏が明治維新まで治めました。
なお、天守については関ヶ原の戦いで焼失したとされていましたが、近年では富田氏が再建し、寛文2年(1662年)の火災で失われて以降そのままになったと考えられています。
津城は明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となり、建物は取り壊されましたが、堀と石垣の一部は今もその姿をとどめています。明治時代の終わり頃から外堀が埋め立てられましたが、現在まで本丸と西の丸、内堀の一部が残されており、公園として整備されています。
昭和33年(1958年)には模擬建築で鉄筋コンクリート製の三重櫓が建てられました。平成17年(2005年)3月には、三重県の指定史跡に指定され、平成29年(2017年)4月には続日本100名城に選ばれています。
津城の見どころ①美しい高石垣
津城の見どころは、「石垣づくりの名人」藤堂高虎の手がけた石垣です。石垣には花崗岩などが使われており、打ち込みハギ、切込みハギのものがほとんど。織田信包や富田信高時代の野面積みの石垣も一部残されています。
見応えがあるのが本丸北側の高石垣で、最大高さ約13mを誇ります。石垣の隅に設けられた、高虎が得意とする算木積みも見事です。また、石垣にはさまざまな刻印がある石が点在しているため、探しながら城内の散策を楽しむのがおすすめです。
このほか、内堀には高虎の城の特徴である、軟弱な地盤を補強するための犬走りが設けられています。本丸の南側にある埋門跡などで確認できますよ。
津城の見どころ②今も残る内堀
津城はかつて内堀と外堀がありましたが、外堀は埋め立てられており、内堀も北側などに一部が残るのみとなっています。堀の幅も往時は80m〜100mあったものの、現在は狭くなっています。堀には錦鯉が泳いでおり、春は満開の桜が楽しめます。
津城の見どころ③入徳門
津城内の本丸跡には日本庭園が整備されていますが、その入り口にある「入徳門」は第10代藩主の藤堂高兌が文政3年(1820年)に創設した藩校「有造館」の正門です。藩校の廃校後は小学校をはじめさまざまな場所の正門となり、解体・復元され、昭和46年(1970年)に同地に移築されました。
津城の見どころ④藤堂高虎像
本丸跡には築城主・藤堂高虎の銅像が建てられています。高虎は「築城の名手」として江戸城や今治城なども手がけ、津城はその集大成の一つとされています。像の隣には高虎の遺訓のひとつを記した石碑があります。
津城のおすすめフォトスポット
津城のおすすめフォトスポットは、本丸北側の高石垣です。桜のシーズンは堀に映る花を狙いましょう。藤堂高虎像もフォトスポットとして人気を博しています。
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。