藤堂高虎(1/2)多数の主君に仕えた築城の名手

藤堂高虎

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人物記
名前
藤堂高虎(1556年〜1630年)
出生地
滋賀県
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藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。
父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は近江を離れ甲斐(山梨県)の武田信虎(武田信玄の父)に仕えます。しかし、武田家で不始末を起こすと出奔。再び近江に戻ると、藤堂忠高の婿養子になりました。

藤堂家は近江犬上郡の土豪でしたので、住まう地域の大名である京極氏、次は浅井氏に仕えることになります。
このような環境で育った藤堂高虎。成長すると、身の丈6尺2寸(約190㎝)を誇る偉丈夫となり、父と同様に浅井氏に仕える事から武士のキャリアをスタートしました。

高虎が若い時、仕えた仕官先は?

まず、最初に仕えた浅井氏について。浅井氏は当時、北近江(滋賀県北部)を治めていた大名です。浅井氏で有名な武将と言えば、織田信長の妹(お市の方)を妻にしていた浅井長政が知られています。

周辺の大名である南近江(滋賀県南部)の六角氏や越前国(福井県嶺北)の朝倉氏、尾張美濃(岐阜県、愛知県西部)で勢力を拡大していた織田信長などと、うまく関係を維持していました。しかし元亀元年(1570年)6月、姉川の戦いで浅井氏が織田信長に敗れたことを機に、衰退の道をたどります。その後、天正元年(1573年)に滅んでしまいます。

浅井氏が滅亡する直前、高虎は浅井家を見限って出奔。その後、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、磯野員昌といった近江の国人に仕えるも、長続きせず磯野家からも再び出奔します。
そして近江を出ると織田信長の甥、津田信澄に仕えますが、ここでも長く持ちません・・・。

当時の仕官事情とは?

当時の大名家や土豪に仕える武士たちは、能力次第で主君を変える買い手市場でした。

  • 仕官先の大名に将来性を見いだせない
  • 正当な評価を得られず、俸禄が少ない
  • 周囲と馴染めない。主君とそりが合わない。家風に合わない。

など、様々な理由から納得できなければ仕官先を変えていました。

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言われるほど部下と主君の関係を重視しており、主君を変えることはけっして珍しいことではなかったのです。

高虎も他の武士たちと同様、若い頃は自分の価値を認めてくれる、納得して仕えることのできる主君を探していたと思われます。

高虎が落ち着いた先

藤堂高虎が本格的に腰を落ち着けたのは天正四年(1576年)、20歳の頃からでした。

織田信長の麾下にいた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟、羽柴秀長に仕える事になってからです。当初300石の知行で仕え始めます。出世こそ遅かったのですが、羽柴秀吉の栄達に合わせるように羽柴秀長の麾下で手柄を立てていきました。

天正九年(1581年)には鉄砲大将として一手の将に。これをきっかけに、天正十三年(1585年)には四国征討でも武功を挙げました。結果、与えられた知行地も一万石と出色の出世を遂げています。

また出世するに従い、与えられる命令も戦いだけではなくなっていきました。城の普請奉行も命じられるようになり、この天正十三年(1585年)には猿岡山城、和歌山城の普請を命じられています。後世、三大築城名人(黒田官兵衛、加藤清正、藤堂高虎)の一人と謳われた高虎の最初の築城でした。

高虎は亡くなるまでに、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城、二条城などを築城しています。高虎の築城した城は石垣を高く上げる事、堀の設計に特徴を持っています。同じく築城の名人として謳われた加藤清正の築城手法が、石垣に「武者返し」「扇の勾配」と呼ばれる反りを付けたことに特徴を持っていたため、この二人の築城手法は対比されています。

主君、羽柴秀長の死とその後

高虎の主君、羽柴秀長は天正十九年(1591年)に病没しました。その秀長の跡を継いだのは養子としていた甥の羽柴秀保(豊臣秀保)でしたが、高虎は秀保に引き続き仕官します。ところが、文禄四年(1595年)に秀保も病没。羽柴秀長の系統が途絶えてしまいました。

この秀保が亡くなった後、秀長、秀保に仕えていた多くの家臣は、豊臣秀吉に仕える事となります。

しかし、高虎は豊臣家を辞し出家。僧となり秀長、秀保を弔うため高野山に籠ってしまいました。ところが高虎の将才を惜しんだ豊臣秀吉は、生駒親正を通じ説得させます。高虎もこの説得に折れ、再び還俗して七万石の大名として伊代板島(現在の愛媛県宇和島市)を拝領します。野を懸け、戦で走り回った叩き上げの高虎が城持ち大名となった瞬間でした。

高虎の人柄とは?

藤堂高虎は永禄四年(1595年)に豊臣家配下の大名となりました。後年、津(三重県津市)を中心に三十二万石の大名となっています。

高虎は、領国運営の中核を血縁の藤堂家で固めていたことが特徴です。
これは、父の虎高が近江の土豪であった事や、虎高自身が長生き(享年84歳)で高虎の兄弟姉妹(異母兄弟や姉妹)などに恵まれていました。高虎が羽柴秀長の元で知行地を増やすに従い、身近な縁者を取り込み自分の下で働かせて、高虎一家として形成していったのでしょう。

ただし、高虎は身内だけでなく一族以外からも積極的に人材を集めています。
浅井氏一族や、磯野員昌の子、津田信澄の子など、若い頃仕官していた主君の子などを取り立てたり、助命して助けたりしました。こうしたエピソードからも、義理堅い性格だったようです。こうした性格は当時から世間に評価され、多くの武将が高虎の元に仕えています。

関ケ原の戦い後に迎え入れた部下たち

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川方に敵対した大名が取り潰され、大量の失業した武士が浪人として市中に溢れかえりました。大名たちは、浪人となった有能な武将たちを自分の家臣に取り込み、自家の発展に繋げようとします。高虎も、多くの武将を迎え入れました。関ケ原の戦い後、高虎の家臣となった武将たちには以下のような人物がいます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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