津藩(1/2)富田氏と藤堂氏による藩政

津藩

記事カテゴリ
藩史
藩名
津藩(1595年〜1871年)
所属
三重県
関係する城

津藩は、富田氏と藤堂氏という2つの家が治めてきた藩です。富田氏は江戸時代初期に国替えし、以降は藤堂氏が代を重ねて津藩を治めていきます。その歴史と代々藩主の功績をひもといていきましょう。

津藩の基礎を築いた富田信高
富田信高は富田一白の一子で、津藩二代目藩主です。初代藩主の富田一白は文禄4年(1595年)7月に津城に入りましたが、慶長4年(1599年)に隠居して同年に死去しています。ですから、富田信高が実際に津藩の初代藩主的な役割を果たしました。津城の歴史で説明したように、富田信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、毛利秀元・長宗我部盛親軍に城を包囲されながらも開城まで持ちこたえます。その功績を称えられ、江戸幕府から2万石の加増を受けました。伊予宇和島藩に国替えされるまで、富田信高は関ヶ原の戦いで消失した城下町の再建に尽力を尽しています。
津藩の基礎を築いた藤堂高虎
藤堂高虎は富田信高が伊予宇和島藩に国替えされた代わりに津藩に入った大名です。君主を8回も代えた苦労人の武将として有名であり、戦国時代を舞台にしたゲームや小説、漫画などでもよく登場するのでご存じの方も多いでしょう。藤堂高虎が治めた地は。内訳は伊予越智郡今治2万石、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡、一志郡内10万石で計22万石となっています。藤堂高虎は築城の名手として知られており、現在残っている津城の遺構も彼が大改造した後のものです。藤堂高虎は家康に高く評価され、外様大名で有りながら譜代大名格として扱われました。秀忠の五女、和子が皇室に嫁ぐ際は彼女の入内に反対する公卿の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ったという逸話も伝わっています。内政では、上野城と津城という2つの城で城下町を建設、地方の農地開発、寺社復興などに尽力しました。また、晩年は陸奥会津藩と讃岐高松藩、肥後熊本藩の後見をつとめ、家臣団を派遣して当地の政治を行いました。

藤堂高虎の死後財政が悪化

藤堂高虎がなくなると、彼の嫡子である藤堂高次が後を継ぎます。なお、藤堂高虎はなかなか嫡子に恵まれなかったため、丹羽長秀の子どもである藤堂高吉を養嗣子にしていました。しかし、藤堂高虎が46才のときに高次が生まれたため、高吉は寛永13年(1636年)に藤堂高次の命令で伊賀名張へ転封されます。その後、高吉は名張藤堂家を起こしましたが、藤堂家との仲は決して良くありませんでした。藤堂高次は父と同じように築城の才能に恵まれていたため、幕府の要請により江戸城二の丸、寛永16年(1639年)におきた火災によって焼失した江戸城本丸の復興、日光の大猷院霊廟などさまざまな石垣普請を行います。しかし、石垣普請の費用を津藩でも多く負担した結果、財政難に陥りました。藤堂高次は新田開発を推奨し、年貢も増収します。しかし、それでも財政難は対して改まることなく、悪化の一途を辿っていったのです。

名君と名高かった藤堂高久

藤堂高久は藤堂高次の長男であり、津藩の4代目藩主です。父である高次が藩主の座についていたときに津藩城下町で大きな火災が起こりましたが、高久は父を助けて城下町の復興に力を尽しました。藩主についた藤堂高久は、悪化した藩の財政を建て直すために綱紀粛正に努め、新田開発水利事業を行いました。そのため、領民からの評判は大変よく、元禄時代に描かれた各藩の藩主や政治状況を記した「土芥寇讎記」(どかい こうしゅうき)という本には「領民から仏のように慕われていた」と記載されています。その一方で、寛文9年(1669年)に白土山の陶土採掘を禁止したため、伊賀焼の陶工が大量に信楽に流出するという結果を引き起こしました。陶工が流出した伊賀焼はだんだんと廃れていきます。また、高久は保身のために幕府閣僚に接近し、綱吉の学問講義などにも盛んに出席しました。

相次ぐ天災、揺らぐ財政

元禄16年(1703年)に藤堂高久が死去すると高久の末弟であった藤堂高睦が4代目の藩主となります。藤堂高久は子どもに恵まれなかったので、兄から弟へと藩主の座がゆずられたのです。藩主の座に就いた年、江戸では「元禄地震」が発生し、藩邸が大きな被害を受けました。また、藩主の座について4年後の宝永4年(1707年)には、宝永地震、さらに富士山最後の噴火と呼ばれる宝永大噴火が立て続けに起きて、藩は大きな損害を被ります。藤堂高睦は、藩の財政を建て直そうと藩政の引き締め、奉行制度、家老制度、側用人制度の見直しなどを行いました。藤堂高睦は42才という若さでなくなります。子どもは二男一女がいましたが全て早世したため、藩主の座は、津藩の支藩である久居藩から迎えた養嗣子の高敏が継ぎました。

絶える高虎の直系の系統

藤堂高敏は、血筋から行けば藤堂高次の孫に当たる人物です。宝永5年(1709年)藤堂高睦が死去したと同時に藩主の座につきました。津藩はそのころ宝永地震・宝永大噴火の影響で凶作が続き、津藩では正月の餅つきが中止になるほどであったという記録が残っています。高敏は懸命に国を治めようとしましたが、享保13年(1728年)に疱瘡(天然痘)に倒れ、徳川吉宗から薬を下賜されたものの、病状は好転せずになくなりました。高敏には子女がいなかったため、高虎の男系血統は5代で絶えることになったのです。後を継いだのは、藤堂高虎の弟、藤堂高清の孫に当たる藤堂 高治。彼は地震の影響で荒廃した農村の復興に勤め、学問を奨励しました。その後を継いだ7代目藩主、藤堂 高朗も同じように学問を奨励しましたが、彼自身が奢侈に走ったため藩の風紀が乱れました。また、幕府の関心を買うため自ら式をして日光東照宮の修補造営を行いましたが、藩はその結果24万両の借金を負ってしまいます。

悪化し続ける財政

藤堂高治が明和6年(1769年)に隠居するとその後を孫である藤堂高悠が継ぎ、8代目藩主の座につきます。津藩の財政は歴代藩主達の努力にもかかわらず悪化し続けました。藤堂高悠は勤王の意識が強く、仙洞御所の普請役などを積極に引き受けますがそれが皿に藩の財政を悪化させてしまいます。また、藤堂高悠は生来から病弱であり明和7年(1770年)にわずか20才で病没しました。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。