多聞城奈良県奈良市

秋の多聞城1 秋の多聞城2
  • 松永久秀が大和支配の拠点として築いた城
  • 四階櫓や多聞櫓を備えた近世城郭の先駆け
  • 現在は奈良市立若草中学校周辺に痕跡が残る

多聞城とは、奈良県奈良市にあった戦国時代の平山城である。永禄2年(1559)から翌年にかけて、松永久秀が眉間寺山に築いた城で、東に奈良と京都を結ぶ街道、南に東大寺・興福寺をはじめとする奈良の町を見下ろす立地にあった。城内には四階櫓、主殿、庭園、白壁や瓦葺きの建物があったと伝わり、後に多聞櫓と呼ばれる長屋状の櫓の存在から、近世城郭の先駆けとも評価される。現在、城跡の主要部は奈良市立若草中学校周辺となり、遺構は限られるが、土塁跡・竪堀跡・曲輪跡などが一部に残る。

多聞城の特長
目的 松永久秀の居城、大和支配の政治・軍事拠点、奈良町と京街道の監視
特長 松永久秀、四階櫓、多聞櫓、主殿、庭園、白壁、瓦葺建物、近世城郭の先駆け
他の城との違い ・松永久秀が奈良支配の拠点として築いた城である
・四階櫓や長屋状の櫓を備え、後の近世城郭につながる要素を持っていた
・現在は学校敷地を中心とするため、城郭遺構を広く見学できる城跡ではない
多聞城の石垣・土塁
石垣 発掘確認・一部痕跡あり
土塁 一部現存
種類 土塁、竪堀、曲輪、石組溝、井戸、平山城
石材 自然石、石造物の転用石など
特長 多聞城は、高石垣を主役とする近世城郭ではなく、奈良の町を見下ろす丘陵地形を利用した平山城である。発掘調査では、井戸や石造物を転用した石組溝、多数の瓦などが確認されており、瓦葺き建物を備えた先進的な城であったことを示している。現在、若草中学校の校舎が建つ地盤面には遺構が残存しない可能性が高いが、校舎西側・北側の一段高い部分には土塁跡や竪堀跡、南斜面には曲輪跡が残るとされる。城跡としては、石垣よりも立地、土塁、竪堀、文献に残る建築表現を中心に見るのが自然である。
多聞城DATA
別称 多聞山城、多聞山城跡
所在地 奈良県奈良市
築城 1559年
築城者 松永久秀
住所 奈良県奈良市法蓮町周辺
電話番号 0742-34-5369
開館時間 城跡周辺は見学自由。ただし学校敷地内への立ち入りは不可
休館日 なし
入館料 無料
備考 多聞城跡の主要部は、現在の奈良市立若草中学校周辺にあたる。城跡の多くは学校建設などにより改変されているため、見学できる遺構は限られる。奈良市公式では、校舎西側・北側に土塁跡や竪堀跡、南斜面に曲輪跡が残るとされる。周辺からは東大寺・興福寺方面を望む立地を確認できる。
多聞城への交通アクセス
近鉄奈良線「近鉄奈良」駅から徒歩約18分。

HISTORY 多聞城について

多聞城の歴史
1559年 松永久秀が大和へ進出し、奈良の眉間寺山に多聞城の築城を始める
1560年頃 多聞城が大和支配の拠点として整備される
1565年 宣教師ルイス・デ・アルメイダが奈良を訪れ、多聞城の豪華な建築について記録する
1567年 東大寺大仏殿の戦いで、松永久秀が三好三人衆・筒井順慶連合軍を破る
1568年 松永久秀が織田信長から大和支配を認められる
1573年 松永久秀が織田信長に降伏し、多聞城を明け渡す
1576年 織田信長が筒井順慶に大和支配を認め、多聞城の破却を命じる
1576年 多聞城の主殿は京都へ、城の石材は筒井城へ運ばれたと伝わる
1978年 奈良市教育委員会による発掘調査で、井戸や石造物を転用した石組溝、多数の瓦などが確認される

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