興福寺奈良県奈良市

春の興福寺1 春の興福寺2 春の興福寺3 春の興福寺4
  • 藤原鎌足ゆかりの山階寺を前身とし、藤原不比等が平城京へ移した藤原氏の氏寺
  • 南都七大寺の一つに数えられ、法相宗大本山として奈良仏教の中心を担った寺院
  • 五重塔、東金堂、北円堂、南円堂、中金堂、阿修羅像をはじめとする国宝仏像群で知られる世界文化遺産

興福寺とは、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。興福寺の前身は、天智8年(669)、藤原鎌足が病に伏した際、夫人の鏡大王がその回復を祈って山背国山階に建てた山階寺とされる。その後、飛鳥の厩坂に移されて厩坂寺となり、和銅3年(710)の平城京遷都にともない、藤原不比等が現在の奈良へ移して興福寺と名付けた。以後、興福寺は藤原氏の氏寺として、藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大した。奈良時代には中金堂、東金堂、西金堂、五重塔、北円堂などが整えられ、南都七大寺の一つとして大きな位置を占めた。平安時代以降は春日社と一体化し、藤原氏の氏神と氏寺が結びつくことで、宗教的・政治的な影響力を強めた。治承4年(1180)の南都焼き討ちでは多くの堂宇を失ったが、鎌倉時代に再建が進み、運慶・快慶ら慶派仏師による優れた仏像が生み出された。現在の境内には、中金堂、東金堂、北円堂、南円堂、五重塔、三重塔、国宝館などがあり、阿修羅像を含む八部衆像、十大弟子像、無著・世親菩薩像など、日本仏教彫刻を代表する寺宝を伝えている。平成10年(1998)には「古都奈良の文化財」の構成資産として世界文化遺産に登録された。

興福寺の特長
目的 藤原氏の氏寺としての祖先供養、法相宗の教学継承、国家安泰、釈迦如来への信仰、弥勒信仰、不空羂索観音信仰、春日社と結びついた神仏習合の信仰、南都仏教文化の継承、国宝建造物・仏像群の保存、世界文化遺産としての文化財公開
特長 興福寺、法相宗大本山、南都七大寺、藤原氏の氏寺、藤原鎌足、鏡大王、藤原不比等、山階寺、厩坂寺、中金堂、東金堂、西金堂跡、北円堂、南円堂、五重塔、三重塔、大湯屋、国宝館、阿修羅像、八部衆像、十大弟子像、無著菩薩像、世親菩薩像、不空羂索観音像、春日社、春日大社、薪御能、世界文化遺産
他の寺院との違い ・藤原氏の氏寺として、氏族の政治的権力と仏教信仰が強く結びついた寺院である
・春日大社と一体化して発展し、神仏習合の中で大和国に大きな影響力を持った
・奈良の中心市街地と接しており、古代寺院でありながら奈良の町と密接に関わって発展した
・阿修羅像をはじめ、天平時代から鎌倉時代にかけての国宝仏像を多数伝える
・五重塔は奈良の景観を象徴する塔であり、猿沢池や奈良公園周辺の風景と結びついている
興福寺への交通アクセス
近鉄奈良線「近鉄奈良」駅から徒歩約4分。

HISTORY 興福寺について

興福寺の歴史
645年頃 藤原鎌足が、のちに山階寺へ安置される釈迦三尊像を造立したと伝わる
669年 天智8年、藤原鎌足が重い病を患った際、夫人の鏡大王が夫の回復を祈り、山背国山階に山階寺を建立したと伝わる
669年 藤原鎌足が没する。山階寺は藤原氏ゆかりの寺として記憶される
672年 壬申の乱の後、都が近江から飛鳥へ戻り、山階寺も飛鳥の厩坂へ移されたとされる
飛鳥時代後期 山階寺は大和国高市郡厩坂に移り、地名にちなみ厩坂寺と呼ばれるようになる
710年 和銅3年、平城京遷都にともない、藤原不比等が厩坂寺を平城京左京へ移し、興福寺と名付ける
奈良時代前期 中金堂を中心とする伽藍が整えられ、興福寺は藤原氏の氏寺として発展する
714年 和銅7年頃、藤原不比等の発願により中金堂が整備されたと伝わる
721年 養老5年、橘三千代が夫・藤原不比等の一周忌に弥勒浄土変の群像を造立したと伝わる
721年 藤原不比等の追善のため、北円堂が創建される
726年 神亀3年、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈って東金堂を建立する
730年 天平2年、光明皇后の発願により五重塔が建立される
734年 天平6年、西金堂が創建される。阿修羅像を含む八部衆像や十大弟子像など、天平彫刻の名品が造られた
奈良時代 興福寺は南都七大寺の一つとして、法相宗の教学と藤原氏の信仰を支える大寺院となる
813年 弘仁4年、藤原冬嗣が父・藤原内麻呂の追善のため南円堂を建立する
平安時代 興福寺は藤原氏の氏寺として、摂関家の繁栄とともに寺勢を拡大する
平安時代 藤原氏の氏神である春日社と結びつき、興福寺と春日社は神仏習合のもとで一体的に発展する
11世紀~12世紀 興福寺は大和国に大きな影響力を持ち、僧兵を擁する大寺院として政治的にも力を持つようになる
1180年 治承4年、平重衡による南都焼き討ちで、興福寺の堂塔の多くが焼失する
鎌倉時代初期 焼失後、藤原氏や朝廷、鎌倉幕府の支援により復興が進められる
1203年 建仁3年、北円堂が再建される。現在の北円堂はこの時の建物で、国宝に指定されている
鎌倉時代 運慶、快慶ら慶派仏師が興福寺復興に関わり、無著菩薩像、世親菩薩像など鎌倉彫刻の名品が造られる
鎌倉時代 興福寺は大和守護職の実権を握り、実質的に大和国一帯に強い影響力を持つ
1210年 承元4年頃、三重塔が再建される。現在の三重塔は鎌倉時代の国宝建築である
1411年 応永18年、火災により五重塔などが焼失する
1426年 応永33年、現在の五重塔が上棟される。室町時代を代表する国宝五重塔である
1415年 応永22年、現在の東金堂が再建される。室町時代の国宝建築として残る
室町時代 興福寺は戦乱や火災に見舞われながらも、藤原氏ゆかりの大寺として寺勢を保つ
江戸時代 興福寺は幕府の保護を受けながら堂塔の維持を続けるが、かつての広大な寺勢は次第に縮小していく
1789年 寛政元年、南円堂が再建される。現在の南円堂は日本最大級の八角円堂で、西国三十三所第9番札所として信仰を集める
1868年以降 明治維新後、神仏分離と廃仏毀釈の影響により、興福寺は大きな打撃を受ける
明治時代前期 春日社との神仏習合関係が分離され、寺領や堂宇の多くを失い、興福寺は一時衰退する
1881年 明治14年、興福寺の再興が認められ、寺院としての復興が進み始める
1897年 明治30年、古社寺保存法により、五重塔、東金堂、北円堂などが文化財として保護されるようになる
1952年 昭和27年、五重塔、東金堂、北円堂、三重塔などが国宝に指定される
1959年 昭和34年、国宝館が開館し、阿修羅像をはじめとする寺宝を公開・保存する施設となる
1998年 平成10年、興福寺が「古都奈良の文化財」の構成資産としてユネスコ世界文化遺産に登録される
2010年 平成22年、創建1300年を迎え、伽藍復興の機運が高まる
2018年 平成30年、中金堂が約300年ぶりに再建され、落慶する
2023年 令和5年、五重塔の明治時代以来となる大規模保存修理工事が本格化する
現在 興福寺は、法相宗大本山、藤原氏の氏寺、南都七大寺の一つ、国宝仏像群を伝える世界文化遺産として、多くの参拝者を迎えている

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