信貴山城の戦い(1/2)梟雄・松永久秀の最期

信貴山城の戦い

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
信貴山城の戦い(1577年)
場所
奈良県
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信貴山城

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多聞城

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戦国時代の「三大梟雄」として有名な武将の一人が松永久秀です。その久秀が織田信長に謀反を起こし、壮絶な死を遂げた戦いが、天正5年(1577年)10月に起こった「信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)」でした。信長が欲した茶釜「平蜘蛛」とともに爆死したという話が広く知られている久秀ですが、実際はどんな最期だったのでしょうか?今回は久秀にまつわる誤解の数々と信貴山城の戦いの結末について、詳しく見ていきます。

「通説」は嘘ばかり?史実の松永久秀とは

松永久秀は永正5年(1508年)生まれ。出身については諸説ありはっきりとはわかっていませんが、身分は低かったようです。京都など畿内を中心に「三好政権」を確立していた三好長慶に祐筆として仕えはじめたのち、室町幕府や公家、寺社との交渉役を担当するりょうになり、どんどん出世してきます。三好家の中核的存在まで上り詰めた後に織田信長仕え、本拠地である大和国(奈良県)の支配を認められました。野心家のイメージが強い久秀ですが、外交官的な役割を果たせるレベルの知識を持った文化人としての側面もあり、茶人としても有名でした。

久秀は「三つの悪事を行った」ことでも知られています。これは江戸時代中期に書かれた軍談書『常山紀談』のエピソードがもとになっているようです。本には織田信長が徳川家康に久秀を紹介する際、「この老人は世の人が為しがたいことを3つもやってのけた」と説明。信長は「将軍足利義輝の暗殺」「三好家の乗っ取り(主君殺し)」「東大寺大仏殿の焼き討ち」を挙げ、これを聞いた久秀は汗を流しながら赤面したそうです。

それでは三つの悪事について一つずつ見ていきましょう。まずは「三好家の乗っ取り」。久秀が長慶に仕えている時、長慶の弟の十河一存、三好実休と、嫡男の三好義興が相次いで死亡しました。三好実休は戦死し、十河一存と三好義興は病没とされていますが、実は久秀による毒殺だったのではという説があり、それが拡大解釈されたようです。なお、この相次ぐ不幸が長慶に与えたダメージは大きく、徐々に心を病み体調を崩すように。そして病に倒れてこの世を去ってしまいます。

二つ目は将軍・足利義輝の弑逆への関与です。永楽8年(1565年)、久秀の息子・松永久通と長慶の後を継いだ三好義継、三好三人衆が軍を率い、将軍を襲撃して殺害しました。この「永禄の変」と呼ばれる事件の黒幕が久秀と言われています。なお、久秀も軍を率いていたと誤解されがちですが、実際は大和国にいて参加していません。この黒幕説が松永久秀=陰で暗躍する悪役、というイメージを創りだしたようです。

将軍殺害後、久秀は三好三人衆と政治的な対立を深めていきます。三好義継を担ぎ上げ、協力関係にあった筒井順慶と協力して久秀方の城を攻める三好三人衆。久秀は窮地に陥りますが、そのとき三好三人衆に軽んじられ続けた義継が久秀側に寝返ります。主君が久秀についたことに対してあせる三好三人衆。一方、久秀は「主君の仇討ち」という大義名分を得たのです。

その後、三好三人衆は大和国まで攻め入ります。永禄10年(1567年)4月、東大寺付近で両軍は激突。半年間にわたる戦いは「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれており、この戦いの際、久秀は陣地として活用できそうな東大寺周辺の寺院を焼き払っています。そして10月10日、三好三人衆の本陣のある東大寺を奇襲し、その際に大仏の頭部が焼失したほか、伽藍も燃えてなくなりました。この大仏殿の焼失が三つ目の悪行とされていますが、火事は三好三人衆側の失火によるものという説や、戦の最中の過失で火事が起き、大仏殿が燃えてしまったという説もあり、真相は明らかになっていません。三つの悪行についてはいずれも物語的には面白いですが信ぴょう性の低いものだったといえるでしょう。

松永久秀、織田信長に接近

さて、その後の松永久秀ですが、東大寺大仏殿の戦いで、三好三人衆と筒井順慶を何とか退けたものの、大和国を中心に争いは依然として続いており、しかも久秀側が苦戦していました。永禄11年(1568年)6月には久秀の本拠地である信貴山城(奈良県生駒郡平郡町)が攻め落とされています。

こうした中で久秀がとった策は、織田信長の力を利用することでした。久秀は永禄9年(1566年)ころから信長と連絡を取り合っており、永禄11年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛する際に協力しています。そして上洛に成功した信長のもとにかけつけ、茶道具の名物として有名な茶入れ「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を信長に献上。戦国時代、茶道具の名品収集は武将たちの間で流行しており、富と権力を表す一種のステータスでした。有名な茶入れを献上したこともあり、久秀は大和国の支配を認められています。

その後、信長は三好三人衆を駆逐して畿内を平定。久秀は信長の助けを得て大和国を取り戻し、信長の下で活躍することになります。元亀元年(1570年)に信長が朝倉義景を攻めた際、信長は浅井長政に裏切られて窮地に陥ります。この時の「金ヶ崎の戦い」で久秀は朽木元網を説得し、信長が京に戻るのを手助けしました。

「信長を2度裏切った」男

織田信長の下で活躍する松永久秀でしたが、その野心は途切れることはなく、なんと信長を2回も裏切っています。1回目は信長が将軍・足利義昭と対立を深めていった際のこと。義昭は信長を排除しようと、各地の武将に信長を討つ、つまり「信長包囲網」の一員となるよう呼びかけており、各武将がこれに応えあちこちで戦が発生しました。このうち第2次包囲網に応えたのが武田信玄や三好三人衆、浅井氏、朝倉氏に石山本願寺など。そのなかに久秀と松永久通の姿がありました。

元亀3年(1572年)、信玄が西上作戦をスタート。上洛を前提にしていたとも、信長を倒すためとも言われているこの作戦で、信玄は信長と徳川家康を攻めます。こうした動きを受け、久秀も三好三人衆と手を組み、信長に反旗を翻します。長年敵対していた相手ですが、信長という強敵に対し手を結ぶことにしたのでしょう。しかし翌年4月に信玄は病死。足利義昭も挙兵するも信長に敗退し、義昭の妹婿にあたる三好義継のところに追放されてしまいます。信長包囲網は一気に崩れさりました。

ところが懲りない義昭は再び信長の討伐を大名に向かって呼びかけます。このため信長は三好家を攻め、天正元年(1573年)11月、若江城の戦いで義継は自害し三好本家は滅びました。久秀は義継とともに挙兵していましたが、12月に信長の降伏勧告を受け入れる形で多聞城を無血開城。翌年岐阜の信長のもとを訪れ、信長に名物を大量にプレゼントして助命嘆願しています。その成果か、それとも信長が久秀を高く評価していたからかは分かりませんが、久秀は許されました。ただし、大和国の大半と多聞城は信長が没収。さらに孫を人質として差し出すはめになりました。その後、天正2年(1574)に久秀は出家して「道意」と名乗るとともに隠居。久道が後を継いで信長に出仕しました。

本願寺攻めの途中に2度目の裏切り

再び松永久秀が表舞台に現れたのが天正4年(1576年)のこと。織田軍の石山本願寺攻めに参戦したのです。久秀は松永久通とともに大坂の天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)の守備を担当していましたが、天正5年(1577年)8月、突如戦から兵を引き上げるとともに信貴山城に立てこもってしまいます。驚いた織田信長は久秀と親しかった側近の松井友閑を久秀のもとに使者として派遣し、「謀反の理由があるなら教えてほしい。望みがあるなら聞き入れる」と伝えます。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03