高取城奈良県高市郡

秋の高取城1 秋の高取城2 秋の高取城3 秋の高取城4 秋の高取城5 秋の高取城6 秋の高取城7 秋の高取城8 秋の高取城9 秋の高取城10
  • 日本三大山城のひとつに数えられる大和の山城
  • 標高583.6mの高取山山頂に築かれた巨大城郭
  • 建物は残らないが、本丸・二の丸周辺に壮大な石垣が残る

高取城とは、奈良県高市郡高取町にある中世から近世にかけての山城跡である。南北朝時代に越智氏が高取山に砦のような城を築いたことに始まると伝わり、戦国時代から近世にかけて大和南部の重要拠点となった。豊臣秀長が大和を治めた時代以降、近世城郭として整備され、江戸時代には植村氏が高取藩の居城として明治維新まで治めた。現在は天守や櫓などの建物は残らないが、本丸・二の丸・大手道周辺に大規模な石垣が残り、日本三大山城の名にふさわしい威容を伝えている。

高取城の特長
目的 大和南部の支配拠点、高取藩の政庁、吉野方面への備え
特長 日本三大山城、総石垣、天守台、本丸、二の丸、大手道、猿石、高取山
他の城との違い ・標高583.6mの高取山山頂に築かれた大規模な山城である
・建物は残らないが、山上に本格的な石垣群が残る
・城内周囲約3km、郭内周囲約30kmともいわれる広大な城域を持つ
高取城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 一部あり
種類 野面積、打込接、算木積み、石垣、天守台、曲輪、山城
石材 自然石、割石、転用石など
特長 高取城の最大の見どころは、高取山上に残る大規模な石垣群である。本丸、二の丸、天守台、大手道沿いには、山城とは思えないほど重厚な石垣が残り、近世城郭として整備された姿を伝えている。石垣は自然石を用いた野面積や、割石を用いた打込接を中心とし、隅部には算木積みも見られる。建物は残らないが、苔むした石垣が山中に連なる景観は、高取城を象徴する遺構である。猿石のように、石材の転用や信仰との関わりを感じさせる見どころもある。
高取城DATA
別称 芙蓉城、高取山城
所在地 奈良県高市郡高取町
築城 南北朝時代
築城者 越智氏と伝わる
住所 奈良県高市郡高取町高取周辺
電話番号 0744-52-1150
開館時間 高取城跡は見学自由。高取町観光案内所「夢創舘」は9時30分~16時30分
休館日 高取城跡はなし。夢創舘は年末年始
入館料 高取城跡は無料。夢創舘も無料
備考 高取城跡は国指定史跡で、日本100名城にも選定されている。日本三大山城のひとつとされ、山上に大規模な石垣が残る。近鉄吉野線「壺阪山」駅から徒歩で登城する場合は約2時間が目安。壷阪寺方面から登る場合は、本丸まで徒歩約1時間ほどが目安とされる。夢創舘では高取城のCG再現映像などを見学できる。
高取城への交通アクセス
近鉄吉野線「壺阪山」駅からバス約1時間。

HISTORY 日本三大山城の1つに数えられた高取城

高取城は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の山城です。江戸時代を通じて高取藩の藩庁として機能しました。幕末まで藩庁として機能した山城であり、岡山の「備中松山城」、岐阜の「美濃岩村城」と並んで日本三大山城の1つに数えられています。
現在は石垣や石塁が残されているのみですが、国の史跡及び日本百名城も指定されています。 そんな高取城の歴史を紐解いていきましょう。

高取城の歴史
南北朝時代 越智氏が高取山に砦のような城を築いたことが始まりと伝わる
中世 越智氏の詰城として、大和南部と吉野方面を結ぶ重要拠点となる
1585年 豊臣秀長が大和を領し、越智氏はその支配下に入る
安土桃山時代 脇坂氏、本多氏らが高取城に関わり、近世城郭として整備が進む
1640年 植村家政が高取藩主となる
江戸時代 植村氏が代々高取城を治め、高取藩の政庁として機能する
1873年 廃城令により高取城が廃城となる
明治時代 天守や櫓などの建物が失われ、石垣のみが山上に残る
1953年 高取城跡が国の史跡に指定される
2006年 日本100名城に選定される
江戸時代以前の高取城
高取城は南北朝時代、元弘2(1332)年に南朝方に与していた豪族である越智邦澄という人物が築城したのがはじまり、といわれています。越智氏は「貝吹山城」を本城としていたので、高取城は支城扱いであったようです。
越智氏は室町時代を通じて高取の地を支配してきましたが、浄土真宗本願寺教団によって組織された一向一揆衆が、大坂の東部より高取の地に攻めてきます。その頃、奈良の地を実質的に治めていた興福寺は一向一揆衆と敵対関係にあったため、高取城に助けを求めてきました。高取城は一向一揆衆と興福寺派の僧兵との戦場となり、一向一揆衆が勝利します。
このとき、高取城は松永秀久と奈良の地で戦い続け、後に織田信長の家臣となった筒井順慶の手に渡りました。筒井順慶は天正12(1584)年に高取城を郡山城の詰城として再建し、近世的城郭へと拡張、整備を行います。その後、高山城は織田信長が「大和国内の城は郡山城一城のみ」と定めたことで一旦廃城となりました。しかし、本能寺の変によって織田信長が自害すると、筒井順慶は天正12年(1584年)に高取城に再び手を入れて支城の1つとして要塞化します。 その後高取の地は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長の領地となり高取城は本多利久が入りました。
本多利久は、天正17年(1589年)より高取城の改築に乗り出し、最終的に三重の天守閣、大名屋敷、17基の三重櫓、侍屋敷などを備えた壮麗な山城が誕生します。本多利久は城を改築しながら城下町の整備のも力をいれ、家臣団が集団で移り住みました。
本多利久は後継である本多俊政とともに豊臣秀長と後嗣、秀保に使えますが慶長6年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは本多俊政が東軍に加わり、結果的に領地を安堵されます。さらに戦功によって1万石を増石されて2万5千石の大名となって高取藩を開藩します。
江戸時代の高取藩
高取藩を開いた本多氏は、本多政武まで3代にわたって高取藩を治めますが、本多俊政の嫡子、本多政武が後継ぎを残さずに没したため、断絶しました。
その後、桑山一玄と小出吉親が城番を務めた後、寛永17年(1640年)に旗本の植村家政が2万5,000石の大名に取り立てられて、高取藩の藩主となります。植村家は代々徳川家に仕えた古参の家臣です。しかし、徳川家康の父、祖父両方の謀殺の現場に居合わせてしまったことから、「縁起の悪い家臣」とされ、冷遇されてしまいます。しかし、3代将軍徳川家光への忠臣ぶりが認められて、はれて大名に取り立てられました。以後、植村家は幕末まで14代にわたって高取城の城主となり、高取藩を治めます。なお、山の上では治世がしにくかったのか、幕末になると山の上にあった御殿が城下町に移されています。
明治以降の高取城
高取城は明治6年(1873年)に廃城となりました。建物の一部は寺院などに払い下げられましたが、明治20年(1887年)頃まで天守閣などは残っていたと記録にあります。しかし、高取山の山頂という不便な場所にあったので手入れが行き届かず、残された建築物の大半が経年劣化によって自然倒壊したと考えられています。
なお、明治24年(1891年)ごろに建物の取り壊しが行われたとも言われていますが、正式なことはわかりません。しかし、建物以外の石垣や石塁はほぼ当時のまま現在まで残っており、山城の遺構としては貴重です。
また、高取城の二の門は高取町にある子嶋寺の山門に移築され、現在も見ることができます。 松ノ門は町立高取小学校に移築されましたが火災により一部損傷し、平成16年(2004年)に町内にある児童公園の表門として再建されました。
高取城址そのものは、貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)に国史に指定され、平成18年(2006年)には日本100名城に指定されています。
まとめ
現在、高取城址は自由に見学できます。ただし、最寄駅から史跡までは約2時間の道のりで、車では直接いけません。山頂には水道もないためトイレも整備されておらず、事前にしっかり準備を調えておきましょう。夜景が美しいといわれていますが、山頂までの道のりは険しく、外灯も整備されていません。ヘッドライトなどの装備が必要です。
なお、途中に壷阪寺の有料駐車場があり、そこまでは車で行けます。山頂までは約1時間のコースで、駅から上るより時間を短縮できます。
4月は桜、10月よりは紅葉が楽しめます。

高取城を藩庁とする、高取藩の歴史

高取藩徳川家に代々仕えた古参の家臣が治める
高取藩は、奈良県高市郡高取町一帯を治めた藩です。関ヶ原の戦いで功績を治めた本多俊政が開藩し、寛永17年(1640年)より旗本の植村家が2万5千石の大名に取り立てられて幕末まで藩を治めました。 植村家は
高取藩DATA
藩庁 高取城
旧地域 大和国
石高 2万5000石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 本多家、植村家
推定人口 2万2000人(明治元年)