松平家の家紋「丸に三つ葵」
清洲城とは、愛知県清須市にあった中世から近世初頭にかけての城である。尾張守護所に関わる城として始まり、弘治元年(1555)に織田信長が那古野城から入城したことで、尾張支配の中心となった。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、信長が清洲城から出陣し、天下統一への第一歩を踏み出した城として知られる。現在は清洲城天主閣が建ち、清須の歴史や織田信長、清須会議などに関する展示を見学できる。
| 目的 | 尾張支配の拠点、織田信長の居城、交通・軍事・政治の要衝 |
|---|---|
| 特長 | 織田信長ゆかりの城、清須会議の舞台、城下町を取り込む大規模城郭 |
| 他の城との違い | ・織田信長が桶狭間の戦いへ出陣した城である ・本能寺の変後、織田家の後継を決める清須会議の舞台となった ・現在の天主閣は、平成元年(1989)に建てられた天守風の展示施設である |
| 石垣 | 一部復元・出土遺構あり |
|---|---|
| 土塁 | 一部痕跡あり |
| 種類 | 石垣、土塁、堀、曲輪、城下町を含む城郭 |
| 石材 | 不明 |
| 特長 | 清洲城は、近世後期の高石垣を見せる城ではなく、城下町を取り込む大規模な城郭として発展した城である。現在の清洲城天主閣周辺には復元された石垣があり、発掘調査では石垣遺構や土塁状遺構も確認されている。城跡の多くは河川改修や市街地化により失われているため、現地では復元施設と城跡碑、周辺に残る地形や史跡をあわせて清洲城の広がりを理解するのが自然である。 |
| 別称 | 清須城 |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県清須市 |
| 築城 | 1405年頃 |
| 築城者 | 斯波義重と伝わる |
| 住所 | 愛知県清須市朝日城屋敷1-1 |
| 電話番号 | 052-409-7330 |
| 開館時間 | 9時~16時30分。入館は16時15分まで |
| 休館日 | 月曜日。祝日の場合は翌平日。年末年始 |
| 入館料 | 大人400円、小人200円 |
| 備考 | 現在の清洲城天主閣は平成元年(1989)に再建された天守風建物で、史実上の天守を正確に復原したものではない。館内では清須の歴史、織田信長、清須会議、清須越などに関する展示を見ることができる。 |
| 1405年頃 | 尾張守護・斯波義重により、下津城の別郭として清洲城が築かれたと伝わる |
|---|---|
| 1555年 | 織田信長が那古野城から清洲城へ入城する |
| 1560年 | 織田信長が清洲城から桶狭間の戦いへ出陣し、今川義元を破る |
| 1582年 | 本能寺の変後、織田家の後継を決める清須会議が開かれる |
| 1580年代 | 織田信雄により清洲城が大改修され、天守を備えた大規模城郭となる |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いで、清洲城が東軍の最前線拠点となる |
| 1609年 | 徳川家康の命により、名古屋城の築城が始まる |
| 1610年頃 | 清須越により、城下町の機能が名古屋へ移される |
| 1613年頃 | 清洲城が廃城となる |
| 1989年 | 現在の清洲城天主閣が再建される |
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松平家の家紋「丸に三つ葵」
| 藩庁 | 清洲城 |
|---|---|
| 旧地域 | 尾張国清洲 |
| 石高 | 47万石 |
| 譜代・外様 | 親藩 |
| 主な藩主 | 松平氏・徳川家 |
| 推定人口 | 26万人(明治元年) |
戦国時代、清洲城は守護代の織田氏(織田大和守家)の居城であったが、分家出身の織田信長がこれを奪い居城とした。しかし信長が岐阜城、次いで安土城と拠点を移してからは清洲城の存在価値は極度に低下していく。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると、信長の後継者を合議する会議、いわゆる清洲会議が清洲城で開かれ、このとき豊臣秀吉によって信長の後継者は信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)と決められ、清洲城主には信長の次男・織田信雄が据え置かれた。
愛知県清須市にある清洲城は、織田信長の跡継ぎを決定する「清洲会議」が開かれた城として知られています。現在は当時を想像して設計したという模擬天守が残されており、朱塗りの橋とともに華やかな外観が人気です。