犬山城愛知県犬山市

犬山城DATA
天守 現存天守|国宝五城
別称 白帝城
築城 1469年
住所 愛知県犬山市犬山北古券65-2
電話番号 0568-61-1711
開館時間 9時~17時(入場は16時30分まで)
休館日 12月29日~31日
登閣料 大人550円/小中学生110円

天守のみが現存し「現存天守12城」の一つ。また天守が国宝指定された5城のうちの一つでもある。

平成半ばまで個人の持ち物であった国宝 犬山城

犬山城は織田信長の叔父、織田信康によって築かれた平山城です。現在の愛知県と岐阜県の中間にあり、木曽川を背にした交通の要所にありました。「白帝城」という別名を持ち、天守が国宝に指定されている5城の1つです。平成16年まで個人で所有していた天守としても知られています。ここでは、犬山城の歴史をひもといていきましょう。

織田信康によって創建された城
犬山城は、文明元年(1469年)に応仁の乱の最中に岩倉織田氏の祖と言われる織田敏広の弟・織田広近が建てた砦が始まりといわれています。岩倉織田氏は織田信長を排出した一族です。
その後、天文6年(1537年)に織田信長の叔父である織田信康がそれまでの居城であった木の下城を廃城にして砦に城郭を築き移り住みました。これが、犬山城の基礎となりました。その後、織田信康が斎藤道三との戦い(加能口の戦い)で戦死すると城は息子織田信清のものとなりますが、織田信清は永禄7年(1564年)に従兄弟である織田信長と対立して破れ、甲斐の国に逃れます。その後、犬山城は織田信長の家臣である池田恒興や、織田信長の五男、織田勝長などが城主を務めました。
小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで拠点となる
本能寺の変で織田信長が死去した後、犬山城は織田信長の次男織田信雄の配下、中川定成が城主となります。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが勃発すると、大垣城主であった池田恒興が織田信雄を裏切って犬山城を奪取しました。その後、犬山城は羽柴秀吉の本陣となり、徳川家康との戦いに望んでいます。
戦いの後、犬山城は一端は織田信雄に変換されますが、その後改易され、豊臣秀吉の甥豊臣秀次の領地となり、実父三好吉房が城代を務めました。
文禄4年(1596年)に豊臣秀次が豊臣秀吉の名で切腹させられると、石川貞清が城主となります。なお、犬山城は織田信長の死後に改築が行われたと記録が残っています。2021年に犬山市が会見で犬山城に使われている材木は、年輪年代測定法によって調査したところ天正13年〜天正16年(1585〜1588)に伐採されたものが使われていたと発表しています。
つまり、1588年以降に犬山城が現在の姿に改築されたという証明がされたのです。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、岐阜城、竹鼻城などと共に犬山城は西軍の拠点となります。石川貞清をはじめ、加藤貞泰・関一政・竹中重門などが配置されましたが、岐阜城が落城したことをきっかけに、石川貞清のぞく全ての大名が東軍に寝返り、貞清は犬山城を放棄して敗軍の将となりました。
江戸時代は付家老の居城となる
徳川家康が江戸幕府を開くと、犬山城は尾張藩の「付家老」の居城となります。付家老とは、正式名称を御附家老といい、将軍に命じられて大名の家老になった者を指します。一般的な家老より身分が高く、将軍に拝謁できる特権がありました。犬山城は尾張藩を治めた尾張徳川家の初代藩主、徳川義直の付家老の一家、成瀬死の居城となります。成瀬氏は元和3年(1617年)〜元和6年(1620年)にかけて犬山城の改築を行い、天守に唐破風出窓などを設置しました。以来幕末まで成瀬氏九代の居城となります。白帝城の別名は江戸時代中期の儒学者「荻生徂徠」によって命名されました。
成瀬氏は大名並の力がありましたが、正式な大名ではありません。しかし、幕末についに独立が認められわずか数年ではありますが、犬山藩が誕生しました。
明治以降の犬山城
明治4年(1871年)、犬山城は廃城となり、天守をのぞく櫓や山門などがほとんど取り壊されます。天守も取り壊し予定でしたが、明治28年(1895年)に濃尾地震で壊れた天守を修理することを条件に、犬山城の最後の城主であった成瀬正肥へ無償譲渡されます。
成瀬正肥は私財と犬山市民からの寄付を募り、犬山城を修復しました。以後、犬山城は平成16年(2004年)まで成瀬氏の所有物となります。
昭和10年(1935年)に当時の法律に基づき犬山城が国宝に指定されました。その後、法律の改正に基づき一度は重要文化財になりますが、昭和27年(1952年)に改めて文化財保護法に基づき、国宝に指定されます。
現在の犬山城
犬山城は昭和34年の伊勢湾台風をはじめとする天災によりたびたび被害を受け、その度に成瀬家が私財や寄付で城の修繕を行ってきました。しかし、個人で所持することが限界を迎え、2004年、11代目成瀬正俊さんを最後に個人所有から財団法人犬山城白帝文庫という法人の所有になりました。
なお、財団の初代理事長には成瀬正俊さんの長女である成瀬淳子が就任しています。その後、平成18年(2006年)には、日本100名城に指定され、数回の修復をかねた調査によって現在にいたります。

犬山城と関連する事件を読む

小牧・長久手の戦い豊臣秀吉vs徳川家康
豊臣秀吉と徳川家康が直接対決した唯一の合戦といえば、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」です。織田信長が討たれた天正10年(1582年)の「本能寺の変」から約2年。明智光秀を討った秀吉が有利と思いきや、家康も着々と勢力を増していました。今回はそんな2人が戦った小牧・長久手の戦いについて、合戦に至った背景からもやっとした結果となった結末まで見ていき
稲葉山城の戦い織田信長が美濃を制覇
永禄10年(1567年)8月、織田信長は美濃国(岐阜県)にあった斎藤氏の本拠地「稲葉山城」を攻め落として斎藤龍興を下し、美濃を平定しました。「稲葉山城の戦い」と呼ばれるこの戦い以降、信長は稲葉山城を「岐阜城」と改称して拠点化し、本格的に天下統一に突き進みます。難攻不落と名高い稲葉山城を信長はどう攻め落としたのでしょうか?今回は稲葉山城の戦いと戦いに至るまでの

犬山城と関連する人物記を読む

平岩親吉天下人から絶大な信頼を得た忠臣
室町時代後期、中国の歴史になぞらえて戦国時代とも呼ばれた戦乱の世。この時代の終止符を打ったのが、徳川家康でした。家康は多くの家来に支えられながら、江戸幕府を興して天下人となります。この家康を支えた代表的な家来を徳川16神将と呼びますが、その中でも特に信頼された家来が、平岩親吉でした。今回は天下人から絶大な信頼を得た家来、平岩親吉に付いて見ていきたいと思います

犬山城への交通アクセス

名鉄犬山線・名鉄小牧線「犬山駅」または名鉄犬山線「犬山遊園駅」より徒歩15分

犬山城を藩庁とする、犬山藩の歴史

犬山藩慶応4年にようやく独立
犬山藩は慶応4年(1868年)に明治政府により、ようやく独立した藩として認められた特殊な藩です。江戸時代は尾張徳川家の附家老の一家であった成瀬家が代々藩主を務めました。そんな犬山藩の歴史をひもといていきましょう。 戦国時代、数々の合戦の舞台となった犬山城 犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父である織田信康によって改修・創建された城です。現在の愛知県
犬山藩DATA
藩庁 犬山城
旧地域 尾張国と美濃国の境
石高 11万3000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 小笠原家、平岩家、成瀬家

犬山藩が藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らい。江戸幕府の幕藩体制のもとでは藩として認められていない。