犬山城愛知県犬山市

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冬の犬山城1 冬の犬山城2 冬の犬山城3 冬の犬山城4 冬の犬山城5 冬の犬山城6 冬の犬山城7 冬の犬山城8 冬の犬山城9
犬山城DATA
天守 現存天守|国宝五城
別称 白帝城
築城 1469年
住所 愛知県犬山市犬山北古券65-2
電話番号 0568-61-1711
開館時間 9時~17時(入場は16時30分まで)
休館日 12月29日~31日
登閣料 大人550円/小中学生110円

天守のみが現存し「現存天守12城」の一つ。また天守が国宝指定された5城のうちの一つでもある。

犬山城への交通アクセス
名鉄犬山線・名鉄小牧線「犬山駅」または名鉄犬山線「犬山遊園駅」より徒歩15分。

HISTORY 平成半ばまで個人の持ち物であった国宝「犬山城」

犬山城は織田信長の叔父、織田信康によって築かれた平山城です。現在の愛知県と岐阜県の中間にあり、木曽川を背にした交通の要所にありました。「白帝城」という別名を持ち、天守が国宝に指定されている5城の1つです。平成16年まで個人で所有していた天守としても知られています。ここでは、犬山城の歴史をひもといていきましょう。

織田信康によって創建された城
犬山城は、文明元年(1469年)に応仁の乱の最中に岩倉織田氏の祖と言われる織田敏広の弟・織田広近が建てた砦が始まりといわれています。岩倉織田氏は織田信長を排出した一族です。
その後、天文6年(1537年)に織田信長の叔父である織田信康がそれまでの居城であった木の下城を廃城にして砦に城郭を築き移り住みました。これが、犬山城の基礎となりました。その後、織田信康が斎藤道三との戦い(加能口の戦い)で戦死すると城は息子織田信清のものとなりますが、織田信清は永禄7年(1564年)に従兄弟である織田信長と対立して破れ、甲斐の国に逃れます。その後、犬山城は織田信長の家臣である池田恒興や、織田信長の五男、織田勝長などが城主を務めました。
小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで拠点となる
本能寺の変で織田信長が死去した後、犬山城は織田信長の次男織田信雄の配下、中川定成が城主となります。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが勃発すると、大垣城主であった池田恒興が織田信雄を裏切って犬山城を奪取しました。その後、犬山城は羽柴秀吉の本陣となり、徳川家康との戦いに望んでいます。
戦いの後、犬山城は一端は織田信雄に変換されますが、その後改易され、豊臣秀吉の甥豊臣秀次の領地となり、実父三好吉房が城代を務めました。
文禄4年(1596年)に豊臣秀次が豊臣秀吉の名で切腹させられると、石川貞清が城主となります。なお、犬山城は織田信長の死後に改築が行われたと記録が残っています。2021年に犬山市が会見で犬山城に使われている材木は、年輪年代測定法によって調査したところ天正13年〜天正16年(1585〜1588)に伐採されたものが使われていたと発表しています。
つまり、1588年以降に犬山城が現在の姿に改築されたという証明がされたのです。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、岐阜城、竹鼻城などと共に犬山城は西軍の拠点となります。石川貞清をはじめ、加藤貞泰・関一政・竹中重門などが配置されましたが、岐阜城が落城したことをきっかけに、石川貞清のぞく全ての大名が東軍に寝返り、貞清は犬山城を放棄して敗軍の将となりました。
江戸時代は付家老の居城となる
徳川家康が江戸幕府を開くと、犬山城は尾張藩の「付家老」の居城となります。付家老とは、正式名称を御附家老といい、将軍に命じられて大名の家老になった者を指します。一般的な家老より身分が高く、将軍に拝謁できる特権がありました。犬山城は尾張藩を治めた尾張徳川家の初代藩主、徳川義直の付家老の一家、成瀬死の居城となります。成瀬氏は元和3年(1617年)〜元和6年(1620年)にかけて犬山城の改築を行い、天守に唐破風出窓などを設置しました。以来幕末まで成瀬氏九代の居城となります。白帝城の別名は江戸時代中期の儒学者「荻生徂徠」によって命名されました。
成瀬氏は大名並の力がありましたが、正式な大名ではありません。しかし、幕末についに独立が認められわずか数年ではありますが、犬山藩が誕生しました。
明治以降の犬山城
明治4年(1871年)、犬山城は廃城となり、天守をのぞく櫓や山門などがほとんど取り壊されます。天守も取り壊し予定でしたが、明治28年(1895年)に濃尾地震で壊れた天守を修理することを条件に、犬山城の最後の城主であった成瀬正肥へ無償譲渡されます。
成瀬正肥は私財と犬山市民からの寄付を募り、犬山城を修復しました。以後、犬山城は平成16年(2004年)まで成瀬氏の所有物となります。
昭和10年(1935年)に当時の法律に基づき犬山城が国宝に指定されました。その後、法律の改正に基づき一度は重要文化財になりますが、昭和27年(1952年)に改めて文化財保護法に基づき、国宝に指定されます。
現在の犬山城
犬山城は昭和34年の伊勢湾台風をはじめとする天災によりたびたび被害を受け、その度に成瀬家が私財や寄付で城の修繕を行ってきました。しかし、個人で所持することが限界を迎え、2004年、11代目成瀬正俊さんを最後に個人所有から財団法人犬山城白帝文庫という法人の所有になりました。
なお、財団の初代理事長には成瀬正俊さんの長女である成瀬淳子が就任しています。その後、平成18年(2006年)には、日本100名城に指定され、数回の修復をかねた調査によって現在にいたります。

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犬山藩
犬山藩DATA
藩庁 犬山城
旧地域 尾張国と美濃国の境
石高 11万3000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 小笠原家、平岩家、成瀬家

犬山藩が藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らい。江戸幕府の幕藩体制のもとでは藩として認められていない。

木曽川の岸辺にある織田氏ゆかりの国宝・犬山城

木曽川沿いにある国宝・犬山城は、現存12天守として知られる平山城です。2004年まではなんと個人所有のお城だったという珍しい来歴の城で、近年では科学的な調査方法により「日本最古の木造天守」との説が有力となってきました。ここでは犬山城について魅力や見どころを解説します。

犬山城
犬山城とは?
愛知県犬山市にある犬山城は、木曽川沿いの高さ約88mの丘の上に築かれました。背後は木曽川で、断崖の上に城があるため背後からは攻め込めにくいという、典型的な「後堅固の城」です。曲輪は本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に配置。城郭は城下町を堀で囲み、城と城下町が一体化した「総構え」の構造でした。
犬山城の別名は「白帝城」。江戸時代中期の儒学者・荻生徂徠が、中国・長江流域にある「白帝城」を詠った李白の詩「早發白帝城」にちなんで名付けたと伝えられています。
犬山城の歴史
犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田信康が築城したとされています(※諸説あり)。2021年の調査で柱や梁などに使われている木材を分析したところ、天正13年(1585年)から天正16年(1588年)に伐採されたものとの結果が出ており、そのころに建てられたという説が出てきました。ただし、以前別の城や寺で使われていた木材を再利用する城ケースも多いので、今後のさらなる検証が待たれるところです。
信康の死後は息子の織田信清が跡を継ぎましたが、信長と敵対して城を攻め落とされ、信清に代わって池田恒興が入城。その後はさまざまな武将が城主を務め、元和3年(1617年)に尾張徳川家の重臣・成瀬正成が城主になって以降、成瀬氏が城主を務めました。この正成のころに天守の大改修が実施され、現在の姿になったと言われています。
その後、1891年の濃尾大地震により天守が半壊。天守の修復を条件に、犬山城は成瀬家に譲与されています。2004年に所有権が成瀬家から財団法人犬山城白帝文庫に移され、現在にいたります。
犬山城の見どころ①格式高い天守
犬山城の天守は3重4階地下2階の望楼型天守で、入母屋破風と、成瀬正成がつけたとされる唐破風があります。
地下には穴倉があり、天守を支える石垣や太い梁を内側から見学できます。1階、2階には武者走りが部屋をぐるっと囲んでいるのも特徴です。敵を落とすための急階段を上って3階に進むと破風の間に到着します。
さらにそこから上がれば最上階の4階に到着です。江戸時代から続くという真っ赤なじゅうたんが出迎えてくれます。4階は柱や梁をそのまま露出させる「真壁造り」で、北面と南面には合計4つの華頭窓がついています。共に格式の高い建築様式です。
犬山城には高欄つきの廻縁があり、国宝で唯一、この廻縁に出ることができます。廻縁からの木曽川や濃尾平野の景色は絶景で、天気が良ければ御嶽山、岐阜城、名古屋駅ビルまで拝めますよ。
犬山城の見どころ1 犬山城の見どころ2 犬山城の見どころ3
犬山城の見どころ②付櫓と桃瓦
犬山城には天守の入り口を守るため、側面攻撃ができるよう付櫓があります。一般的には一天守あたり1つなのですが、犬山城は現存天守の中で唯一、東南隅と西南隅の2ヶ所に付櫓があります。天守直結なので天守と合わせて内部を見学してみましょう。
付櫓は切妻造の本瓦葺きの切妻破風。屋根には桃の形をした「桃瓦」が2棟合わせて4つ乗せられています。南北にある唐破風にも計4つ乗っており、全て形が違うこだわりようです。雨水の侵入を防ぐ留蓋の役割を果たしているほか、魔よけの意味もあるようです。
犬山城の見どころ4 犬山城の見どころ5 犬山城の見どころ6
犬山城の見どころ③お堀
犬山城は北の木曽川を堀に見立てて築城されました。他の方角はといえば、江戸時代には空堀や水堀に囲まれていましたが、明治維新後の埋め立作業等で現存するものはほぼありません。
そんな中でも現代まで残っているのが、西側の大きな空堀です。幅約8m、深さ約3mで逆台形をしています。草木に覆われているところもありますが、形が分かりやすいところも多くありますよ。
犬山城の見どころ④大杉様
天守の東側には築城の頃からの杉の枯れ木が「大杉様」として祀られています。樹齢約650年の老木で、もとは犬山城の天守閣と同じくらいの高さがあり、落雷除けや台風の風よけにもなり城を守る御神木としてあがめられてきました。
残念ながら杉の木は1965年頃に枯れてしまいましたが、現在も「大杉様」としてしめ縄をして祀られています。
犬山城のおすすめ撮影スポット
木曽川と城のコラボを楽しみたいのであれば、犬山橋を渡った対岸からの撮影がおすすめです。ライン大橋から撮影すると、木曽川と天守・二つの付櫓が綺麗に入ります。夕暮れ時に犬山橋などから城のシルエットを撮るのも素敵ですよ。ただし、雨が降ると川が濁るので要注意です。
アップで撮りたい場合は本丸内から。特に桜の季節がおすすめです。
3月から11月までは木曽川を「犬山城遊覧船」が運航しています。船の上から犬山城の景色を楽しんでみてはいかがでしょうか。
犬山城の見どころ7 犬山城の見どころ8 犬山城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。

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