小早川隆景毛利両川の一翼を担い、秀吉に重用された知将
小早川隆景
- 小早川隆景とは
- 小早川隆景とは、毛利元就の三男として生まれ、兄の吉川元春とともに毛利家を支えた戦国武将である。
- 竹原小早川氏と沼田小早川氏の家督を継いで両家を統合し、瀬戸内海沿岸の支配を進めて毛利氏の勢力拡大に貢献した。
- 厳島の戦いでは小早川氏の海上交通網を活かして来島村上氏を味方に引き入れ、陶晴賢を破る毛利軍の勝利に貢献した。
- 兄の吉川元春とともに「毛利両川体制」を形成し、主に山陽・瀬戸内海方面の軍事や外交を担って毛利本家を支えた。
- 織田信長との対立では毛利水軍を率いて戦い、羽柴秀吉の中国攻めに対しては備中高松城の戦いなどで対抗した。
- 本能寺の変後は秀吉との和睦を維持し、中国国分の交渉や四国攻めへの協力を通じて毛利家の領国維持に尽力した。
- 豊臣秀吉のもとで伊予国や筑前国などを与えられ、四国攻め、九州征伐、朝鮮出兵などで活躍し、豊臣政権の重鎮となった。
- 文禄3年(1594年)に小早川秀秋を養子に迎え、翌年に家督を譲って三原城に隠居し、慶長2年(1597年)に65歳で死去した。
毛利元就の三男として生まれ、兄の吉川元春とともに毛利家を支えたのが小早川隆景です。毛利家の水軍を率いて厳島の戦いなどで活躍し、中国攻めでは羽柴秀吉と対峙しますが、本能寺の変後は秀吉と協力関係を築き、豊臣政権下で大老に上り詰めました。今回は、戦国屈指の知将として知られる小早川隆景について詳しく解説します。
毛利元就の三男として誕生
小早川隆景は天文2年(1533年)、安芸国(現広島県西部)の国人領主・毛利元就の三男として生まれました。母は吉川国常の娘で元就の正室・妙玖で、同母兄には毛利隆元と吉川元春がいます。
当時の中国地方では周防国の大内氏と出雲国の尼子氏が勢力を争っており、安芸国吉田郡山城を本拠地にしていた毛利氏は両者の間で揺れ動いていました。
元就は大永5年(1525年)に大内氏に従属。天文9年(1540年)の郡山合戦では尼子晴久の攻撃を受けましたが、大内氏の援軍を得て撃退し、大内氏の有力な国人領主として存在感を高めていきます。
竹原小早川家の養子に
元就は息子たちを周辺の有力な国人領主の家に養子として送り込み、毛利氏の勢力基盤を強化しました。次男の元春は安芸国の有力国人・吉川氏の養子となり、三男の隆景は瀬戸内海沿岸に勢力を持つ小早川氏に入ることになりました。
小早川氏は竹原小早川氏と沼田小早川氏に分かれており、このころ共に大内氏に属していました。隆景は竹原小早川氏の当主・小早川興景が跡継ぎを残さず亡くなったことを受け、天文13年(1544年)に養子に入ります。
興景の妻が元就の姪だったことから、両家には縁戚関係がありました。元就は当初養子入りを拒みましたが、主君・大内義隆の強い勧めもあり承諾。大内氏、尼子氏討伐のための出雲遠征で失敗した直後で、傘下の国人領主の結束を強めたいという思惑があったと考えられています。
沼田小早川氏の跡継ぎに
さらに、隆景は沼田小早川氏の跡を継ぐことになります。沼田小早川氏は当主の小早川正平の死後、2歳の小早川繁平が跡を継いでいました。しかし、繁平は病弱で3歳の時に病気で目が見えなくなったとされます(諸説あり)。このため家中では隆景を養子に迎えるかどうかで対立が発生。元就は「繁平では尼子氏の猛攻を防げないのでは」と懸念した主君・大内義隆の後ろ盾を得て反対派を排除し、繁平を陥れ出家させました。さらに隆景を繁平の妹と結婚させ、天文19年(1550年)に家督を継がせました。
こうして隆景は竹原・沼田の両小早川氏を統合し、天文21年(1552年)に築城した新高山城を本拠として瀬戸内海沿岸の支配を進めました。
沼田小早川氏は瀬戸内海の交通や海上勢力と深いつながりを持つ一族で、隆景が小早川氏を継いだことで、毛利氏は瀬戸内海への影響力を強めることになります。
厳島の戦いで活躍
隆景が若くして活躍した戦いの一つが、弘治元年(1555年)の厳島の戦いです。天文20年(1551年)、大内義隆の重臣・陶晴賢が謀反を起こし、義隆を自害に追い込みました。晴賢は義隆の姉の息子・大内義長を当主に迎えて実権を握りましたが、やがて元就と対立。弘治元年(1555年)9月、両者は厳島で激突しました。
この厳島の戦いで、隆景は、小早川氏の持つ海上交通のネットワークを生かし、来島村上氏を味方に引き入れます。村上水軍の助力もあり毛利軍は大勝し、晴賢は自害しました。毛利氏はこの勝利をきっかけに勢力を大きく拡大します。
毛利両川体制と「三本の矢」
厳島の戦いの後、元就は周防・長門を攻略し、急速に勢力を拡大していきました。こうした毛利家の発展を支えたのが、吉川元春と小早川隆景による「毛利両川体制」です。吉川氏と小早川氏が毛利本家を軍事・政治の両面から支える仕組みで、元春が主に山陰方面、隆景が山陽・瀬戸内海方面で活躍しました。
天文15年(1546年)、元就は長男の毛利隆元に家督を継がせます。以後は隆元を中心に元春と隆景が毛利家を支えていくのですが、兄弟は必ずしも「仲良し三兄弟」ではありませんでした。
弘治3年(1557年)、元就は兄弟に「三子教訓状」を送り、毛利を守るために兄弟の結束を強めるよう求めます。元春と隆景には毛利本家を重んじ、隆元に従うよう説きました。
元就には、3本の矢を束ねれば折れにくいという教えを息子たちに説いた「三本の矢」の逸話があります。これは後世の創作ですが、そのもとになったのが「三子教訓状」と言われています。
その後も兄弟間には不和があり、隆元は「弟2人が自分をないがしろにしている」「毛利本家よりそれぞれの家を重んじている」と疑念を抱き、それを元就がなだめる書状が残っています。
元就は兄弟の仲をとりなそうとします。ところが、永禄6年(1563年)8月4日、肝心の隆元が出雲国に向かう途中に急死してしまいます。享年41歳。11歳の幸鶴丸(後の輝元)が家督を継承。元就の後見のもと、元春と隆景が毛利本家を支える両川体制が確立していきました。
永禄8年(1565年)2月、幸鶴丸は元服して毛利輝元となります。隆元の死後、毛利本家を支える元春と隆景の権限は、以前より強まっていきました。
尼子氏との戦いと元就の死
毛利氏は永禄9年(1566年)、尼子義久を降伏させて出雲国を制圧しました。その後、九州北部の大友氏とも対立し、隆景も軍事行動に参加します。しかし、尼子勝久らによる出雲侵攻を受け、毛利氏は九州から撤退しました。元亀2年(1571年)に元就が亡くなると、隆景は兄の元春とともに輝元を補佐し、毛利家の重鎮として活動していきます。
武勇に優れた元春に対し、隆景は軍事だけでなく外交や領国経営にも手腕を発揮した人物として知られています。隆景は水軍を通じた情報網に加え、室町幕府の成立に貢献し、奉公衆を務めた竹原小早川氏の人脈も生かしていた可能性があります。
織田信長との対決と木津川口の戦い
天正年間に入ると、毛利氏は織田信長との対立を深めていきます。
当初、毛利氏と信長は友好的な関係を維持しており、信長方は秀吉が、毛利氏は隆景が窓口となって交流していました。
しかし、信長と対立した室町幕府第15代将軍・足利義昭が毛利氏を頼り、信長の勢力が中国地方に迫ると関係が悪化。当初は義昭と信長の仲介を試みますが失敗し、天正4年(1576年)、信長から京を追い出された義昭が備後国鞆(広島県福山市)に移ったことを機に、毛利氏は信長と断交しました。
同年7月、毛利水軍は信長と戦う石山本願寺へ海上から兵糧を輸送。第一次木津川口の戦いで焙烙火矢などを用いた攻撃によって織田方の水軍を破り、石山本願寺への兵糧搬入に成功しました。隆景も瀬戸内海方面の軍事を担い活躍しました。しかし、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは織田方が勝利しました。
さらに信長は羽柴秀吉を中国方面の攻略に投入し、毛利氏は東からの圧力にさらされることになりました。
備中高松城の戦いと中国大返し
織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、中国地方への侵攻を進めていきました。天正7年(1579年)には宇喜多直家が織田方に寝返り、隆景は備前辛川で宇喜多軍と戦いますが大敗します。天正8年(1580年)には三木城が、翌天正9年(1581年)には鳥取城が陥落。毛利氏は次第に追い詰められていきました。
天正10年(1582年)、秀吉は備中・備前に侵攻し、毛利水軍を調略で崩していきます。これに対し、隆景は備中・備前の国境付近に「境目七城」を据えて対抗します。七城の要となるのが、清水宗治の守る備中高松城でした。
秀吉は備中高松城を包囲し、堤防を築いて川の水を引き入れる水攻めで城を水没させました。輝元や隆景は救援に向かいますが、水攻めで孤立した城を救うのは困難でした。
さらに信長の本軍も到着する見通しだったため、隆景は安国寺恵瓊を秀吉方に派遣して講和交渉を開始します。しかし、領土の割譲や宗治の切腹をめぐり交渉は難航しました。
ところが6月2日、明智光秀が本能寺の変を起こし、信長が自害すると、秀吉は毛利氏との講和を急ぎます。最終的に清水宗治の切腹と備中・美作・伯耆の3ヶ国の割譲を条件として和睦が成立し、秀吉はすぐさま明智光秀を討つために「中国大返し」を開始しました。
毛利氏は秀吉が撤退した翌日には本能寺の変について知っていましたが、秀吉を追撃しませんでした。理由としては諸説あり、和議の際に起請文を結んだため「武士の精神」を重視したこと。味方の水軍が崩れたことによる補給路の問題、毛利氏が領国の維持を優先していたため、などの説が挙げられています。
なお、隆景は後年、「この時追撃しなかったことで毛利家の所領が安堵された」と自らの判断を肯定的に評価していたことが、吉川広家の証言からうかがえます。
秀吉と和睦も、難航する領土交渉
本能寺の変後、羽柴秀吉は明智光秀を山崎の戦いで破り、織田家中での主導権を握っていきます。隆景らは勝利を祝う書状を送りましたが、秀吉と柴田勝家が対立すると、隆景は秀吉と、吉川元春は勝家と接触しながら争いを見守りました。
ただし、秀吉との間では「中国国分」の交渉が難航していました。秀吉は備中・美作・伯耆の割譲を求めますが、毛利氏は領土の縮小を避けようと交渉を続けます。
毛利氏としては、割譲地域の国人領主からの反発もあり、なんとか割譲地域を減らしたいところでした。このため、隆景は養子で元就の9男である元総と、元春の三男経信(後の吉川広家)を大坂に人質に出し、臣従を誓います。また、秀吉の四国攻めへの協力を約束しました。
天正13年(1585年)2月、領土問題は双方のある程度の妥協により決定します。秀吉は当初求めていた高梁川より東の毛利領の全面割譲はやめ、毛利氏が備中国の賀陽郡・都宇郡・窪屋郡、美作国と備前国児島郡を割譲することで合意。約3年かかった領土交渉は無事に終了しました。
天正13年(1585年)同年、隆景は秀吉の四国攻めに参加し、長宗我部方の諸城を攻略。戦後、伊予国35万石を与えられました。隆景は中国国分で所領を失った毛利方の国人領主のために、新たな所領を確保する必要がありました。ただし、伊予国は秀吉から毛利輝元に与えられ、輝元が隆景に与える形を取っており、毛利本家との主従関係が維持されていました。
九州平定で活躍し、筑前の大名に
天正15年(1587年)、秀吉は九州征伐を実施。隆景も参加し、豊前国方面などで活動します。九州征伐後、隆景はそれまでの伊予国から、筑前国一国と筑後国・肥前国の一部を与えられます。所領は約37万石とされ、九州北部を治める有力大名となりました。
ただし、隆景は毛利本家から離れて九州に入封することに難色を示しました。中国地方の7、8ヶ国の所領を治めるだけでも苦労しており、さらに九州まで統治するのは難しいと主張したのです。秀吉は蔵入地の代官とする案も示しましたが、隆景はこれも拒否。しかし、最終的には九州への入封を受け入れ、豊臣政権直属の大名となりました。
隆景は当初、立花山城などを拠点としましたが、その後、博多湾に面した名島城(福岡県福岡市東区)を居城として整備します。
その後、隆景は天正18年(1590年)の小田原征伐に参加。文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮半島を攻めた「文禄の役」の際は隆景も朝鮮へ渡り、文禄2年(1593年)には、朝鮮半島中部の碧蹄館付近で起こった「碧蹄館の戦い」で、立花宗茂や宇喜多秀家らとともに明軍を撃退しました。
小早川秀秋を養子に迎える
文禄3年(1594年)、隆景は秀吉の養子・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えます。秀俊は秀吉の正室・高台院の甥で秀吉の後継者候補だったこともありましたが、実子の秀頼が生まれたことで立場が変化しました。
秀吉が秀俊を毛利輝元の養子にしようとしたため、隆景が自ら引き取ったという説もあります。これに伴い、それまで後継者とされていた小早川秀包は別家を立てました。
豊臣政権の重鎮、大老の一人に
秀吉の天下統一が進むなか、隆景は豊臣政権でも重要な地位を占めるようになりました。
隆景はもともと秀吉と敵対していた毛利氏の一員でしたが、軍事・外交能力に加え、毛利氏と豊臣政権の関係を安定させてきた実績から、秀吉の厚い信頼を得ました。
文禄4年(1595年)、豊臣秀次が切腹した「秀次事件」を受け、秀吉は後継者・秀頼を支える体制を整えます。秀吉は徳川家康、毛利輝元、隆景に拾に忠誠を誓う旨を記した五カ条を示し、起請文を提出させました。
8月3日には三人に前田利家と宇喜多秀家を加えた五人が連署した「豊臣氏掟書」が発給されます。さらに同日付で出された九ヵ条の同掟書追加では上杉景勝を加えた六人が連署しています。
隆景はかつて徳川家康らと並ぶ「五大老」の一人とされていましたが、近年では上杉景勝を含む「六大老」体制が成立していたとする説が出されています。いずれにせよ、隆景は豊臣政権の中で重要な位置にいたのです。
三原城で迎えた最期
文禄4年(1595年)、隆景は秀秋に小早川家の家督を譲り、11月に備後国三原城(広島県三原市)に隠居のために向かいました。そして慶長2年(1597年)6月12日、65歳で亡くなりました。当時、秀吉の家臣たちは慶長の役の準備の最中でした。突然の死だったようで、毛利輝元が吉川広家にあてた書状には驚きを隠せない様子が現れています。
隆景の死からわずか1年後の慶長3年(1598年)には豊臣秀吉も死去し、豊臣政権は徳川家康と石田三成らの対立によって揺れ動き、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにつながっていくのです。
戦場での勝利だけでなく、時には戦わず、敵と和睦することで毛利家を支え続けた隆景。その柔軟な判断力と外交手腕こそが、戦国屈指の知将と呼ばれるゆえんなのかもしれません。
小早川隆景の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1533年 | 天文2年 | 0歳 | 安芸国吉田で毛利元就の三男として生まれる |
| 1544年 | 天文13年 | 11歳 | 竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ |
| 1550年 | 天文19年 | 17歳 | 沼田小早川家を継ぎ、竹原・沼田の両小早川家を統合する |
| 1567年 | 永禄10年 | 34歳 | 瀬戸内海の交通・軍事拠点として三原城を築く |
| 1571年 | 元亀2年 | 38歳 | 父・毛利元就の死後、兄・吉川元春とともに甥の毛利輝元を支える |
| 1582年 | 天正10年 | 49歳 | 備中高松城の戦いで羽柴秀吉との講和にあたり、毛利氏を支える |
| 1585年 | 天正13年 | 52歳 | 豊臣秀吉の四国攻めに参加し、戦後に伊予国を与えられる |
| 1587年 | 天正15年 | 54歳 | 九州平定後、筑前国などに所領を与えられ名島城を居城とする |
| 1594年 | 文禄3年 | 61歳 | 豊臣秀吉の甥・秀秋を養子に迎える |
| 1595年 | 文禄4年 | 62歳 | 家督を小早川秀秋に譲り三原城へ戻って隠居する |
| 1597年 | 慶長2年 | 64歳 | 三原城で死去 |
- 【参考文献など】
- 「小早川隆景 史料で読み解く生涯」本多博之/著(吉川弘文館)
- 「小早川隆景のすべて」新人物往来社/編(新人物往来社)
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。