中国大返しそんなに早くなかった?秀吉の進軍ルートと山崎の戦い「遅参」の新説
中国大返し
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- 中国大返し(1582年)
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- 岡山県・兵庫県・大阪府・京都府
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備中高松城
姫路城
世界遺産・国宝天守
- 中国大返しとは
- 中国大返しとは、天正10年(1582年)の本能寺の変を受け、羽柴秀吉が備中高松城から京都近郊まで約200kmを軍勢とともに引き返した軍事行動である。
- 秀吉は織田信長の命を受けて毛利氏と戦っていたが、信長の死を知ると毛利方との講和を急ぎ、清水宗治の自刃などを条件に和睦を成立させた。
- 備中高松城を離れた時期には複数の説があり、従来考えられてきたほど極端な強行軍ではなかった可能性も指摘されている。
- 秀吉軍は姫路城で兵を休ませ、兵糧や軍資金を分配した後、明石・兵庫・尼崎を経て京都方面へ進軍した。
- 素早い移動を可能にした背景には、織田信長の中国出陣に備えて街道や補給体制が整えられていた可能性がある。
- 進軍中には中川清秀、高山右近、池田恒興、丹羽長秀らに働きかけ、明智光秀に対抗する軍勢を拡大していった。
- 2026年に発表された新説では、秀吉本隊は山崎の戦いの開戦に間に合わず、池田恒興や高山右近、中川清秀らが前線で明智軍と戦った可能性が指摘されている。
- 中国大返しは、明智光秀を破った山崎の戦いとその後の清洲会議を通じて、秀吉が織田政権内で主導権を握り、天下人へ進む大きな転機となった。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺を襲撃し、織田信長を自害に追い込みました。この「本能寺の変」の際、羽柴秀吉は備中高松城(現岡山県岡山市)の水攻めの最中でしたが、知らせを受けるとすぐに毛利方と和睦し、約200kmの道のりを京へと引き返しました。「中国大返し」と呼ばれるこの行動については、2026年に新説が出されています。今回は新説を含め、中国大返しについて詳しく解説します。
中国大返しとは?秀吉が約200kmを引き返した大移動
中国大返しは、天正10年(1582年)6月、羽柴秀吉が備中高松城から京都近郊まで、軍勢を率いて急行した軍事行動のことです。
当時の秀吉は織田信長の命を受けた中国攻めの真っ最中で、中国地方を支配する毛利氏と戦っていました。秀吉は播磨国や但馬国(ともに兵庫県)等を攻略した後、備前・備中国(ともに岡山県)への攻略に乗り出します。
中国大返しのきっかけとなった備中高松城の水攻め
天正10年4月、秀吉は毛利方の武将・清水宗治が守る備中高松城を約3万の大軍で包囲しました。備中高松城は周囲を沼や湿地に囲まれた要害で、低湿地帯ならではの泥濘が秀吉の兵たちを苦しめました。
このため秀吉は力攻めで落とすのは難しいと考え、城の周囲に総延長約3km・最大7mの高さを持つ堤防を築き、近くを流れる足守川の水を引き入れて城を孤立させる「水攻め」を実施します。
梅雨の時期だったこともあり、水位は急速に上昇し、備中高松城は湖に浮かぶ孤島のようになり、城内では食料不足も深刻化していきます。
一方の毛利方は、吉川元春や小早川隆景らが援軍として駆けつけましたが、織田方の軍勢と水に阻まれ、備中高松城を救援できませんでした。有利な状況のなか、秀吉は信長に援軍を求め、信長も自ら中国地方へ出陣する準備を進めます。
ところが、信長の出陣に先立って備中高松城に向かうはずの明智光秀が、突如として軍勢を京へ向け、6月2日に本能寺を襲撃。信長は寺に火を放って自害し、後継者だった織田信忠も抗戦の末に自害しました。
秀吉のもとに「本能寺の変」の急報が届く
備中高松城を包囲していた秀吉のもとに、本能寺の変の報が届いたのは6月3日夜とも4日未明とも言われています。後に秀吉自身が書いた書状でも日付が異なっているのではっきりとわかっていません。
通説によれば、明智光秀が小早川隆景に送った密書を秀吉が手に入れたとされていますが、江戸時代前期に成立した『黒田家譜』によれば、信長の側近だった長谷川宗仁から知らせがあったようです。秀吉は信長の死を知り茫然自失となりますが、その際、黒田官兵衛が「信長公の死は言葉に尽くせない、ご愁傷さまですが、これは秀吉さまが天下を取る好機です」と励ましたとされています。
秀吉はすぐさま毛利方との和睦交渉を進めます。すでに講和交渉は毛利方の僧侶・安国寺恵瓊と進んでいましたが、秀吉は6月4日に安国寺恵瓊と会い、和睦の条件を緩和。当初要求した5か国の割譲を備中・美作・伯耆の3か国に緩和する一方、清水宗治の自刃を求めました。土地問題の合意内容には諸説あり、急いだため曖昧な部分もあったと考えられています。
こうして秀吉は無事に和平交渉を終了。6月4日の午後に宗治は切腹しました。
毛利方が本能寺の変を知ったのは和睦成立後で、雑賀衆からの連絡によるものだったようです。京に引き返す秀吉軍を追撃しようと思えばできましたが、毛利軍はこの時動きませんでした。
その理由は諸説ありますが、「秀吉を討つべし」と主張する吉川元春に対し、「取り交わした誓紙の墨が乾かないうちに反故にはできない」と小早川隆景が反対した、というエピソードが有名です。また、秀吉軍は抑えとして、宇喜多秀家軍約1万を備中高松城に残していたことも一因だったと言えるでしょう。結局、毛利軍は秀吉を追撃せず、中国大返しを見送ります。
中国大返し①秀吉が備中高松城を出発したのはいつか
毛利氏との和睦を成立させた秀吉は急いで2万5000の大軍を率いて京に引き返します。ところが、いつ備中高松城を出立したのかは研究者の間で大きく二説に分かれています。
一つ目は、秀吉が毛利勢の撤退を確認し、6月6日の14時ごろから軍勢を移動させ始めたという説です。6月6日に約22km離れた沼城(岡山県岡山市沼)に到着し、6月7日早朝に沼城を出発して暴風雨のなかを駆け抜け、姫路城に7日夜または8日早朝に到着。この日は1日で約55km移動したことになります。しかも悪天候のなか、武具や荷物を携えた大軍が移動したと考えると 「神速」と言ってもよいでしょう。ただし、こちらは後世の二次史料なども根拠としています 。
二つ目は、中川清秀の菩提寺・梅林寺に伝わる『梅林寺文書』をはじめ、中国大返し当時の書状を論拠としたもの。秀吉は6月4日、遅くとも5日には備中高松城を出発し、5日に約22km離れた沼城へ到着したとされます。『松井家譜』所収の書状によれば、姫路城への到着は6日。7日到着とする研究者もおり、2日間かけて55km移動するのであれば、そこまで極端な強行軍ではないでしょう。
また、研究者によっては「2万5000もの大軍が一斉に移動して到着するわけではなく、部隊によって出発日や到着日が異なっていたのでは」との指摘もあります。いずれにせよ、書状が示す日付にもばらつきがあり、実際に秀吉がどのような日程で兵を動かしたのかはっきりとわかっていないのです。
中国大返し②姫路城を6月9日に出発
姫路城は秀吉の拠点で、多くの物資が備蓄されていました。秀吉はここで兵を休ませ、米や軍資金を分配します。
『黒田家譜』によれば、この時秀吉が分配したのは兵糧米8万5000石と軍資金の金800枚、銀750貫文。兵たちの士気向上を狙ったとしてもかなりの金額です。
その後、秀吉軍は6月9日に姫路城を出発します。この「9日出発」は各史料で一致しているのでほぼ間違いないとされています。そして明石、兵庫を経て11日の朝には摂津の尼ケ崎に到着しました。この時2日間で約80kmを走破しています。
通説では6月12日、秀吉は富田(高槻市富田町)に移動。池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開き、高山右近が先陣、中川清秀が第2陣と決まりました。両隊は12日に出陣し、高山隊が山崎へ、中川隊が天王山へ向かいそれぞれ陣取りました。12日には明智光秀軍と小競り合いが発生しています。そして6月13日、秀吉は織田信孝や丹羽長秀らと合流し、山崎の合戦を迎えます。
こうして秀吉は、7日間〜10日間かけて、備中高松城から京都近郊の山崎までの約200kmを駆け抜けたのです。
中国大返し③「神速」のイメージはどこからきたのか
秀吉の「中国大返し」といえば、「秀吉が驚異的な速さで移動した」というイメージを抱く人も多いでしょう。 これは、秀吉のプロパガンダの結果だという説があります。
例えば、天正10年(1582年)10月18日付の織田信孝への書状(写し)では、秀吉は「7日に27里を一昼夜で駆け抜けて姫路に入りました」「休んでいたところ、明智が大坂にいる信孝さまを包囲し、腹を召せと迫っている旨を8日に聞いたので、これは一大事、と夜昼なしに駆けて11日に尼ケ崎に着陣しました」としています。
このころの「一里」はまだ全国で長さの基準が統一されていないため、27里は換算方法によって約80km〜約106kmになりますが、一昼夜で駆け抜けた、というのは非現実的で、秀吉が功績を誇張した可能性が高いです。もともと書状自体が自らの手柄をアピールするために書いたものなので、当然と言えば当然ですが…。さらに、後世の軍記物には驚異的な速度を強調した記述もあり、現在の「中国大返し」のイメージが作られたのです。
中国大返し④なぜ大軍で素早く移動できたのか
中国大返しの期間は諸説ありますが、「神速」ではないにしろ、武具や荷物を携えた大軍を率いて、約200kmを10日ほどで移動できたのは驚異的なことです。
いったいなぜそんな大軍を素早く移動させることに成功したのか、については諸説ありますが、キーワードとなるのが「信長」です。実は、本能寺の変がなければ信長は備中高松城に出陣する予定でした。このため秀吉は道中を整備するとともに、要所ごとに補給場所を作っていたという説があります。つまり、引き返す際にこの補給場所をうまく活用したのです。
そもそも、引き返していったのは自軍の領国で、姫路城は秀吉の拠点でした。備中高松城攻めの後方支援を担っていた姫路城は、前述の通り兵糧や金銀等の備えがあり、秀吉が兵士たちに与えるだけの十分なものがあったのです。
中国大返し⑤進軍しながら味方を増やす
中国大返しの最中、秀吉は積極的に味方を増やそうと働きかけました。例えば中川清秀に対しては「信長・信忠は逃げて無事」であると嘘の報告をして、明智光秀をともに討つために味方するよう働きかけています。
また、高山右近や丹羽長秀とも連絡を取りあい、自らの味方をするよう呼びかけました。尼ケ崎到着後は、大坂にいた信長の三男・織田信孝と丹羽長秀、有岡城(兵庫県伊丹市)にいた池田恒興・元助親子らに参陣を求めます。
こうした武将たちは多くとも5000程度の兵しか持っておらず、一大勢力だった秀吉に合流するようになります。
中国大返しの新説:秀吉は山崎の戦いに遅参した?
2026年に話題となったのが、「実は秀吉は山崎の戦いの開始に間に合わなかった」という新説です。
従来の説では、秀吉は4万(※諸説あり)の兵を率いて山崎の戦いに参加。午後4時から合戦が始まります。明智軍も奮戦しますがやがて総崩れとなり、光秀は本陣を捨て、勝龍寺城にこもります。 そして13日の夜のうちに光秀は城から脱出し、逃走中に落ち武者狩りにあって亡くなった、というものです。
新説は中京大学が令和6年(2024年)に購入し、調査によって内容が明らかになった書状によるもの。書状は6月13日の合戦当日に書かれたもので、秀吉が富田から配下の武将にあてて「明日(=6月14日)に(勝龍寺城のある)西岡に出陣する」と記述しています。
書状には、光秀が勝龍寺城に入りその周辺を放火していることや、秀吉が翌14日に西岡へ進軍する予定であることが記されていました。このことから、秀吉は書状を書いた時点では13日に本格的な合戦が始まるとは想定していなかったと考えられています。
ところが明智軍は出陣して御坊塚に本陣を置き、16時ころに合戦が始まりました。秀吉本隊がまだ到着していないなか、前線では高山右近、中川清秀らが明智軍と交戦し、池田恒興らも戦闘に加わりました。明智軍は敗れて勝龍寺城へ退却します。
富田から山崎までは約12kmあります。このため、秀吉が13日に書状を出した後で光秀の出陣を知ったとすれば、午後4時ごろに始まった合戦への参加は難しかったと考えられます。 新説では、秀吉本隊は夜には到着し、勝龍寺城の包囲に加わった可能性があると考えられています。
ちなみに、秀吉が山崎の合戦に遅れた、という記述は、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にもあり、それによれば戦場の一里弱まで秀吉率いる2万の大軍が迫っていたが、兵士たちは疲れていたため間に合わなかった、というものです。『日本史』はキリシタンの活躍を重視し、山崎の戦いでは高山右近が大活躍するよう書かれているため、信憑性に欠けるのではとされてきました。しかし、今回新しい書状の発見により、改めて見直されています。
山崎の戦いの主役は池田恒興ら摂津衆だったのか
秀吉が開戦に間に合わなかったとすれば、山崎の戦いで特に大きな役割を果たしたのは、池田恒興、高山右近、中川清秀ら摂津衆だったことになります。
山崎の戦い後に開かれた清洲会議で、池田恒興は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉とともに織田家の「宿老」として織田家の運営を担う立場になりました。信長の家臣団のなかで秀吉や勝家ほど大きな方面軍を任されていなかった恒興が清洲会議の中心人物となった背景には、山崎の戦いでの功績があったとも考えられます。
山崎の合戦についてさまざまな書状で触れていますが、自分がどこにいたかは曖昧な書き方になっています。ただし、前述の10月18日付披露状では、秀吉は池田恒興とともに山崎での先陣争いに加わり、山崎から天神馬場までの陣取りを定めて富田に一泊。13日の昼に信孝を出迎え、夜に山崎に布陣して戦が始まり、羽柴秀長や黒田官兵衛などの家臣が活躍した、と記されています。実際に前線で戦った中川清秀の名を出さず、自らの弟や側近を活躍させるあたり、だいぶ秀吉に有利な書き方だな……という印象を受けますね。
中国大返しが秀吉の天下を切り開く
秀吉が山崎の戦いの開始に間に合わなかったとしても、中国大返しにより秀吉軍が明智軍を破り、織田家の跡継ぎを決める際の清洲会議で存在感を増したことは間違いありません。その後、秀吉は会議で信長の孫・三法師を後継者として推し、柴田勝家と対立。翌天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家を破り、徳川家康との小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、小田原攻めを経て天下統一を成し遂げるのでした。
- 【参考文献など】
- 「秀吉の天下統一戦争」小和田哲男/著(吉川弘文館)
- 「戦国史の新論点-平成・令和の新研究から何がわかったか?」渡邊大門/編(星海社)
- 「黒田官兵衛-作られた軍師像」渡邊大門/著(講談社)
- 「黒田官兵衛-智謀の戦国軍師」小和田哲男/著(平凡社)
- 「明智光秀-織田政権の司令塔」福島克彦/著(中央公論新社)
- 馬部隆弘「山崎の合戦と池田恒興」
- 「中京大学文学部紀要」第60巻第2号
- 『戦国史研究』第91号
- 服部英雄「ほらの達人 秀吉・『中国大返し』考」
- 福島克彦「[特別寄稿]山崎合戦像の行方」
- 「羽柴秀吉書状写」(神戸大学附属図書館所蔵)
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。