小早川秀秋関ヶ原の戦いで裏切った理由、若き大名の最期とは?
小早川秀秋
- 小早川秀秋とは
- 小早川秀秋とは、豊臣秀吉の正室・高台院の甥として生まれ、幼くして秀吉夫妻のもとで育てられた大名である。
- 一時は秀吉の後継者候補として扱われたが、豊臣秀頼の誕生後に小早川隆景の養子となり、小早川家の家督と筑前国などの所領を継いだ。
- 16歳で慶長の役の総大将として朝鮮へ渡ったが、帰国後に筑前・筑後の領地を没収され、越前国へ移された。
- 豊臣秀吉の死後は旧領へ復帰し、その実現に尽力した徳川家康との結び付きを深めた。
- 関ヶ原の戦いでは当初西軍として伏見城攻めなどに参加したが、本戦前に家康と密約を結び、東軍へ寝返った。
- 家康が陣へ鉄砲を撃ち込んだことで寝返りを決断したという「問鉄砲」の逸話は、後世の軍記物によって広まった可能性が高い。
- 戦後は宇喜多秀家の旧領である備前国・美作国40万7000石を与えられ、岡山城の改築や領国支配の整備を進めた。
- 慶長7年(1602年)に21歳で死去し、跡継ぎとなる男子がいなかったため、小早川家は改易となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、徳川家康を勝利に導いたことで知られる小早川秀秋。戦いの最中、どちらに味方するか決めかねていたところ、家康から陣に鉄砲を撃ち込まれ、慌てて西軍を攻撃したという逸話は有名ですが、近年では後世の創作だった可能性が指摘されています。今回は、豊臣秀吉の一族として生まれ、わずか20歳ほどで歴史の表舞台から姿を消した小早川秀秋の生涯について詳しく解説します。
幼いころから秀吉や北政所に可愛がられる
小早川秀秋は天正10年(1582年)、高台院(秀吉の正室、北政所、ねね)の兄である木下家定の五男として生まれました。幼名は辰之助、または金吾など諸説あります。なお、何度か改名していますが、ここでは秀秋に統一します。
秀秋は高台院の甥であり、秀吉とは血のつながりこそなかったものの、豊臣家に非常に近い立場にありました。秀秋は幼いころに子のいなかった秀吉夫妻のもとに引き取られ、秀吉の後継者のような存在として北政所に育てられ、秀吉からも愛されていました。
天正16年(1588年)4月14日の後陽成天皇の聚楽第行幸にあたって7歳で元服し、秀吉から一字とって「羽柴秀俊」と名乗るとともに、従五位下・侍従に叙任されました。
このころ、当時の書状や行事の席次などから、秀吉の後継者候補として扱われていたことが分かります。
ところが天正17年(1589年)5月に淀君が秀吉の実子・鶴松(後の豊臣秀頼)を出産すると、秀秋の立場は徐々に変わってきます。同年10月、同じ秀吉の養子だった羽柴小吉秀勝(秀吉の姉日秀の次男)が秀吉から勘当されて丹波亀山城を追われました。代わって丹波亀山城は秀秋のものとなっています。とはいえ、実際の支配は、家老の山口宗永などが担当していたようです。
その後、秀秋は天正18年(1590年)には従五位下・侍従に叙任され、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言に任じられました。秀秋はまだ10代前半でしたが、豊臣一族の一員として朝廷でも高い地位を与えられていたのです。
なお、若き日の秀秋は酒に狂った時期があったようで、北政所から咎められたというエピソードが残っています。
秀吉の後継者候補から小早川家の養子へ
豊臣秀吉の後継者として誕生した鶴松ですが、天正19年(1591年)8月に病により夭折。このため羽柴家は秀吉の甥で後継者候補だった豊臣秀次が継ぎました。
秀秋は後継者候補から外れたものの、引き続き秀吉に可愛がられていたようで、秀吉は北政所あての書状で「覚悟さえあれば自分の隠居分を秀秋に与える」と言っています。
ところが、文禄2年(1593年)8月、秀吉と側室の淀殿との間に拾、のちの豊臣秀頼が誕生すると、豊臣家を取り巻く状況は大きく変化しました。秀吉は実子である秀頼に政権を継がせることを望むようになり、秀次は秀頼が成人するまでの「中継ぎ」的存在となりました。秀秋の立場も不安定になります。
このころ、秀吉の有力家臣だった小早川隆景には実子の後継者がいませんでした。隆景は毛利元就の三男で、兄の吉川元春とともに毛利輝元を支えた名将です。
秀吉は秀秋を毛利輝元の養子にすることを検討していたという説があります。しかし、小早川隆景は秀秋が毛利本家に入れば毛利家の家督を継ぐ可能性があると警戒し、自らの養子として迎えることを申し出たと伝わります。
一方で、天正20年(1592年)1月時点で毛利輝元の養子は毛利元就の四男・穂井田元清の子である秀元だ、ということを秀吉と話していたという文書も残されており、秀秋が小早川家に入った経緯については研究者のなかで見解が分かれています。
いずれにせよ、文禄3年(1594年)7月、秀吉は秀秋を小早川隆景の養子とすることを決定しました。なお、秀秋を迎えるにあたり、隆景の家格も中納言まで引き上げられています。
翌文禄4年(1595年)隆景は秀秋に小早川家の家督を譲り、三原城に隠居します。こうして秀秋は筑前国33万石(※諸説あり)を継承しました。
朝鮮出兵(慶長の役)に総大将として参加
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉は16歳の秀秋を全軍の総大将とし、朝鮮への再出兵を開始しました(慶長の役)。この際、秀吉は秀秋に対し、部下の意見をよく聞いて落ち着くようにと書簡を出すとともに「これは憎いからではなく今後のために親切心で言っていることだ」と念押ししています。直前に秀秋が部下の山口宗永と仲たがいしていたため、秀吉は心配していたのかもしれません。
一方、秀吉は「不慮の事態になった場合は秀秋は役には立たないだろう」という文書を宗永に送っています。秀吉も秀秋の未熟さをよく理解していたのかもしれません。
ところが、朝鮮にわたる直前の慶長2年(1597年)6月12日、小早川隆景が三原城で急死してしまいます。これにより、隆景の遺領や遺臣の扱いは、その後の小早川家にとって大きな課題となりました。
秀秋は6月29日、名護屋から海を渡り、7月17日に釜山に着陣。その後、全羅道、慶尚道へと進軍します。慶尚道の蔚山城では、明・朝鮮軍の大軍に包囲された加藤清正らを救援するために出陣したとされています(蔚山城の戦い)。しかし、史料などからは秀秋は蔚山城にはおらず、救援に向かったのは家臣の宗永らが率いる軍だったようです。
越前国北庄に減俸も、秀吉の死で復帰
慶長3年(1598年)1月から4月にかけて(※諸説あり)、秀秋は秀吉の命令で日本に帰国しました。そして、理由ははっきりしませんが、秀秋は筑前・筑後約30万石の領地を没収され、越前国北庄を中心とする約12万石へ移されることが決まります。
大幅な減封とされますが、越前国北庄は約29万石だったという説もあり、はっきりしません。また、理由については「蔚山城の戦いで軽率な行いをしたことを石田三成が秀吉に讒言した」という説がありますが、前述の通り秀秋が蔚山城の戦いに参加したことを示す一次史料はなく、この説は創作ではないかと言われています。
減封にともない、家臣団のなかで旧毛利・小早川出身の家臣は秀秋のもとから離れました。一方で丹波国亀山領から続く松野重元や長崎元家などは秀秋に付き従いました。
ところが国替え直後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は病没。秀吉は遺言で、秀秋を筑前・筑後へ再封するように指示していました。このため、翌慶長4年(1599年)正月頃にはすでに再封が内定し、2月には旧領が正式に秀秋に返還されました。
秀秋の旧領返還に尽力したのが徳川家康で、このため秀秋は家康に恩を感じるようになり、関ヶ原の戦いで東軍についたという説もあります。
関ヶ原の戦いで最初は西軍方につく
豊臣秀吉の死後、徳川家康は豊臣政権内で急速に影響力を強めていきました。家康は諸大名との婚姻を進め、大坂城に入城するなど、秀吉の遺言を無視した勝手な行動をとるようになります。
慶長5年(1600年)2月、会津の上杉景勝の謀反問題が発生し、家康は景勝を討つための会津征伐を決定。6月には諸大名に号令を発し、大坂を離れて東国へ向かいました。すると佐和山城にいた石田三成は、反家康を掲げて挙兵。毛利輝元を総大将に担ぎ上げました。
このとき小早川秀秋は大坂にいました。秀秋の軍勢は当初、三成らの西軍方につき、伏見城の戦いにも参加しています。伏見城を守っていた鳥居元忠らは激しく抵抗しましたが、城は落城しました。秀秋は主力として活躍した様子が当時の記録からわかります。
その後、秀秋は西軍として伊勢方面に進軍したのを皮切りに、三成たちの指示に従いさまざまな場所に移動しています。
しかし秀秋は、その一方で家康側からの勧誘を受けていました。8月28日付で家康方の黒田長政・浅野幸長から送られた書状では「先の書状でも伝えたが、家康方につくことを決断するように」という内容とともに「われら2人は北政所様に引き続き尽くさなければなりません」との記述があります。
長政も幸長も北政所に可愛がられて育ちました。それは秀秋も同じです。関ヶ原の戦いの際、北政所は家康方についていたとも、中立を保っていたともされていましたが、北政所の甥である秀秋が東軍に敗れると、北政所にまで責が及ぶ可能性は十分にありました。
小早川秀秋はいつ東軍へ寝返ったのか
慶長5年(1600年)9月14日、小早川秀秋は約1万5000の兵を率いて関ヶ原南西部の松尾山城に入城しました。松尾山にはもともと西軍の伊藤盛正が城を築いていましたが、秀秋は伊藤隊を追い出して山を占拠したとされます。
同日、秀秋は徳川家康と密約を結びました。内容としては、①家康は秀秋をないがしろにしない②(家康とのパイプ役だった)宿老の平岡頼勝と稲葉正成もないがしろにしない③秀秋には上方に二か国を与えるというものでした。秀秋は関ヶ原の戦いの本戦前には東軍方についていたのです。
家康からの「問鉄砲」は創作だったのか
9月15日の巳の刻(午前10時ごろ)、関ヶ原の戦いが始まりました。従来の通説では、秀秋は東軍と西軍のどちらに味方するか決断できず、戦いが始まっても松尾山から動かなかったとされてきました。正午ごろ、しびれを切らした徳川家康が秀秋の陣に向かって鉄砲で威嚇射撃をすると(問鉄砲)、驚いた秀秋はようやく東軍への加勢を決意。山を下り、西軍の大谷吉継隊を攻撃しました。この秀秋の裏切りが、関ヶ原の戦いの命運を分け、東軍に勝利をもたらしたのです。
小説やドラマで何度も描かれたこの「問鉄砲」のシーンですが、実は合戦当時に書かれた史料からは、問鉄砲が行われたことを確認できず、後世の軍記物により広がったものだと推察されています。
研究によれば、プロトタイプとされているのが寛文12年(1672年)写の『井伊家慶長記』で、藤堂高虎が20名あまりに空砲を撃たせています。その後、さまざまな軍記物で徳川家康の命令があった、撃ったのは藤堂高虎隊、京極高知隊、福島正則隊…とバリエーションが増えていきます。
では実際はどうだったのでしょうか。関ヶ原の戦いの2日後、9月17日付の徳川家康の家臣・石川康通と彦坂元正による連署状によれば、秀秋は開戦と同時に西軍を裏切り、大坂方を攻撃しています。このとき、脇坂安治、小川祐忠・祐滋親子が共に東軍方につきました。このため西軍の軍勢は総崩れになり、関ヶ原の戦いは東軍が勝利しました。
ただし、関ヶ原の戦いについては研究者によりさまざまな説が出されており、史実はどうなったのかについては現在も研究が行われています。
関ヶ原後、備前・美作40万石の大名となる
関ヶ原の戦いでの秀秋の裏切りについて、徳川家康は高く評価していました。このため、論功行賞で秀秋には宇喜多秀家の旧領だった備前国と美作国40万7000石が与えられました。なお、秀秋の旧領の筑前・筑後は返上されています。
秀秋は備前国と美作国の支配の形を整え、慶長6年(1601年)秋に岡山城に入り、岡山城の改築を進めます。三の外曲輪を創設し、廿日堀と呼ばれる外堀を設けるなど、大規模な工事でした。
岡山城で政務をとり始めた秀秋でしたが、『備前軍記』によれば入って間もなく秀秋は鷹狩りを好み、罪なき者を殺すなど乱れた生活を送るようになります。このため杉原紀伊守が諫めますが、怒った秀秋は紀伊守を殺害しました。
この誅殺事件を起こした理由ははっきりとわかっていませんが、古参の家臣と秀秋が選んだ側近の間の対立が背景にあったとされています。秀吉によって付けられた古参の家臣の殺害は周囲に大きな影響を与え、重臣たちの出奔を招きました。
酒による病で死去、小早川家は断絶
また、秀秋はこのころから酒の飲みすぎが原因で体調を崩していました。曲直瀬玄朔の診療を受けたデータによれば、酒疸(黄疸)で内臓をやられていたようです。ちなみに、これを大谷吉継の呪いのせいだ、という本もあります。
慶長7年(1602年)10月18日、秀秋は岡山城で亡くなりました。享年21歳。死因ははっきりしていませんが、酒の飲みすぎによる内臓の病気と考えられており、研究者のなかには、アルコール性肝硬変だった可能性や、抑うつ状態を伴う肝性脳症、あるいはウェルニッケ脳症だった可能性を指摘する人もいます。このほか、関ヶ原で自害した大谷吉継の亡霊に苦しめられたのが死因など、さまざまな説があがっています。
秀秋には跡継ぎとなる男子がいなかったため、小早川家は改易され、領地は幕府に戻されました。戦国時代を代表する名門だった小早川氏の大名家は、ここに断絶したのです。
小早川秀秋の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1582年 | 天正10年 | 0歳 | 木下家定の五男として生まれる |
| 1585年 | 天正13年 | 3歳 | 豊臣秀吉の養子となる |
| 1594年 | 文禄3年 | 12歳 | 小早川隆景の養子となり小早川家を継ぐ |
| 1597年 | 慶長2年 | 15歳 | 慶長の役で朝鮮半島へ渡海する |
| 1600年 | 慶長5年 | 18歳 | 関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、東軍の勝利を決定づける |
| 1600年 | 慶長5年 | 18歳 | 戦功により備前・美作など約51万石を与えられ岡山城主となる |
| 1602年 | 慶長7年 | 20歳 | 岡山城で死去し、後継者がいなかったため小早川家は改易される |
- 【参考文献など】
- 「戦国武将の病が歴史を動かした」若林利光/著(PHP研究所)
- 「小早川秀秋 シリーズ・実像に迫る 005」黒田基樹/著(戎光祥出版)
- 「新解釈関ケ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い」白峰旬/著(宮帯出版社)
- 「小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す ミネルヴァ日本評伝選」光成準治/著(ミネルヴァ書房)
- 岡山城公式サイト
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。