宇喜多秀家八丈島に流された、50年生きた豊臣政権の五大老
宇喜多秀家
- 宇喜多秀家とは
- 宇喜多秀家とは、備前国の戦国大名・宇喜多直家の嫡男として生まれ、若くして宇喜多家を継いだ大名である。
- 豊臣秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫と結婚し、豊臣家・前田家との強い結び付きを持った。
- 秀吉の天下統一事業に協力し、紀州平定、四国攻め、九州征伐、朝鮮出兵などで重用された。
- 岡山城の大改修や城下町整備を進め、旭川の流れや山陽道を活かして岡山の城下町形成に大きな役割を果たした。
- 豊臣秀吉の死を前に、徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元とともに五大老の一人となり、豊臣政権を支えた。
- 宇喜多騒動によって重臣団が分裂し、有力家臣の離脱を招いたことは、関ヶ原の戦い直前の宇喜多家に大きな影響を与えた。
- 関ヶ原の戦いでは西軍の主力として参戦したが、小早川秀秋らの寝返りによって敗走し、戦後は島津家の庇護を受けた。
- 徳川家康に助命された後、八丈島へ配流され、約50年にわたる流人生活を送り、明暦元年に八丈島で死去した。
関ヶ原の戦いで西軍の主力として徳川家康に挑んだ宇喜多秀家。豊臣秀吉に寵愛され、若くして五大老の一人となり、豊臣政権を支えた人物ですが、関ヶ原の戦いでの敗戦後は八丈島へ流され、約50年にわたる流人生活を送ることになります。今回は宇喜多秀家の生涯について詳しく解説します。
宇喜多秀家とは
宇喜多秀家は元亀3年(1572年)に備前国の戦国大名・宇喜多直家の嫡男として生まれました。生まれた場所ははっきりとわかっていませんが、この頃直家が岡山城に本拠地を移していることから、岡山城生まれという説が出されています。
父・直家は、謀殺や調略を駆使しており、斎藤道三や松永久秀と並び「戦国三悪人」の一人に数えられることもある人物です。この直家の時代に宇喜多家は急成長し、毛利家と備前・備中を巡って争っていました。直家はもともと毛利家の家臣でしたが、天正7年(1579年)に織田信長に臣従しています。
争いは徐々に宇喜多方の不利になっていき、戦況の悪化に伴い直家は体調を崩すようになり、ついに病没します。亡くなった日は諸説ありますが、天正9年(1581年)11月から天正10年(1582年)の正月までの期間だとされています。
天正10年1月、秀家は織田信長の許しを得て11歳の若さで家督を継ぎます。とはいえ、実際は後見人となった叔父の宇喜多忠家や富川秀安、長船貞親、岡家利、明石行雄といった重臣たちによる集団指導体制がとられました。
秀吉の養女・豪姫と結婚
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が亡くなると、羽柴秀吉は毛利方と和睦し、明智光秀を討ちに京に戻ります(中国大返し)。この時秀家は岡山城で秀吉を迎え、その際秀吉から自分の養女・豪姫との婚約を提案されました。
この豪姫との結婚が、その後秀家が豊臣政権のなかで出世していく一因となったのです。ちなみに、豪姫は前田利家の四女で、宇喜多家は豊臣家と前田家と強い結び付きを持つことになります。
いつ豪姫が嫁いだかははっきりしませんが、天正16年(1588年)までには嫁いだようです。秀吉の寵愛を受けた姫で、嫁いだ後も秀吉から可愛がられました。このため、夫の秀家も秀吉から厚遇されていた、という説もあります。
秀吉に重用された若き大名
中国大返しの際、羽柴秀吉は毛利家と備中高松で講和を結び、毛利家から備中・美作・伯耆の3か国の割譲を受けることで合意していました。しかし、その後の交渉は難航します。
このため宇喜多家の領国もなかなか確定せず、毛利家の争いは続きました。天正13年(1585年)2月には「中国国分」がようやく完了し、宇喜多家は備前、美作、備中東部の一部を得ることとなりました。このほか、播磨にあったとされる所領を加えると、宇喜多家は47万4000石の大名となったのです(※石高には諸説あり)。
宇喜多秀家とその家臣は秀吉の天下統一に協力していくこととなります。秀家が幼かったことや、毛利家との争いが続いていたため、山崎の戦いや天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いには若干加勢する程度でしたが、「中国国分」が完了すると、宇喜多家は積極的に秀吉に協力していきます。
秀家の初陣と推察されるのは天正13年(1585年)3月の紀州平定です。秀吉は紀伊国に侵攻し、根来衆と雑賀衆を平定しましたが、この際秀家は2万の兵を率いて秀吉を先導しました。
秀家は秀吉からかなりの厚遇を受けており、四国攻めの際、秀吉は秀家の家臣たちに「秀家が武功を立てられるようしっかり補佐するように」と手紙を書くほど。天正15年(1587年)の九州征伐の際は先陣を務めました。
朝鮮出兵で総大将に
また、秀吉が朝鮮に出兵した天正20年(文禄元年、1592年)の文禄の役にも出兵し、戦局の悪化とともに総大将に任じられています。もっとも、血気盛んだったため、秀吉からは周囲の武将に「秀家を諫めるように」との手紙が出されたようです。その後、秀家は慶長2年(1597年)からの慶長の役にも参加し、慶長3年(1598年)4月に日本に戻りました。
秀吉がなぜこれほど秀家を厚遇したかははっきりしていませんが、妻の豪姫への秀吉の寵愛に加え、毛利攻めの際に直家が秀吉に積極的に協力した恩や、秀家自身の幼いころから秀吉が子飼いの部下として育ててきたから、など諸説あります。
また、さまざまな役割を担わされた秀家自身が、戦で着実に成果をあげていたことも「手堅い武将」として評価していたのかもしれません。
秀家は加増こそなかったものの、秀吉により次々と官位を引き上げられており、主要メンバーの中で最も早く参議・従三位の位についています。
岡山城と城下町を整備する
秀家の功績として忘れてはならないのが岡山城と城下町の整備です。父・直家の時代から進められていた岡山城の整備を引き継ぎ、秀家は天正16年(1588年)または天正18年(1590年)から7年がかりで大改修を実施。慶長2年(1597年)には天守が完成しています。
秀家は城郭の整理に取り組みました。旭川の流れを変えて城の北・東を守るように整備し、山陽道を岡山城下に通すなど城下町の整備も進めています。
豊臣政権を支える「五大老」に就任
朝鮮から戻った豊臣秀吉は体調を崩し、自らの死期を察してさまざまな対策を取ります。自分の幼い後継者の秀頼をサポートするよう、周囲に言い含めたのです。
慶長3年(1598年)7月には重臣を集めて形見分けを行っており、秀家はかつて信長が所有していた名物・茶入の「初花肩衝(はつはなかたつき)」を与えられました。また、このころ秀吉亡き後の政権を運営する「五大老・五奉行」が成立したとされています。秀家は徳川家康や前田利家、上杉景勝、毛利輝元とともに五大老の一人となりました。
そして8月18日、豊臣秀吉が亡くなると政権運営は五大老・五奉行が担うこととなります。五大老のうち一番若かったのが秀家で27歳。若年かつ経験も浅かったことから、五大老の中でも他者よりも軽んじられており、秀吉自身も毛利輝元に「秀家に目をかけてほしい。万が一相違がある場合は秀家の首を斬るように」家康には「輝元は正直者の好人物だから手加減するだろうから、家康が秀家を指導するように」との言葉を残しています。
五大老はご存じの通り、発足当初から徳川家康の専横が目立ち、政局は不安定でした。そんななか、宇喜多家では大騒動が勃発します。それが「宇喜多騒動」です。
「宇喜多騒動」で家臣団が分裂
宇喜多騒動とは、宇喜多秀家と重臣たちの対立をきっかけに発生したお家騒動です。史料不足のため不明な点も多いのですが、当時の記録『鹿苑日録』や、家臣の戸川達安の息子が編纂した『戸川家譜』などによると、内容は以下の通り。
宇喜多家では、父・直家の時代から仕えてきた浮田左京亮(後の坂崎直盛。秀家の従兄弟)や戸川達安などの重臣たちが大きな発言力を持っていましたが、秀家は側近として長船紀伊守や中村家正などを重用し、検地による領国支配の方向性の違いなどから重臣たちと対立しました。
慶長4年(1599年)、浮田左京亮、戸川達安、岡越前守、花房秀成ら重臣たちは、中村家正を襲撃しますが失敗します。これに怒った秀家は年末に戸川達安を大谷吉継の屋敷に招いて謀殺しようとしますが、それを悟った浮田左京亮に助けられました。その後、重臣たちは大坂城下の左京亮邸に集結し、武装して立てこもりました。
この事態を重く見た大谷吉継や、徳川家康の家臣である榊原康政が仲裁に乗り出しますが失敗。慶長5年(1600年)正月5日に中村家正が再び重臣たちに襲撃されますが何とか逃れました。その後、家正は蟄居したのち、加賀藩に仕えています。
結局この騒動を仲裁したのは家康で、重臣のうち浮田左京亮、岡越前守、花房秀成は国元の備前へ下国、戸川達安は武蔵国に送られ家康の家臣となりました。浮田左京亮と岡越前守、花房秀成は再び秀家に仕えますが、岡越前守と花房秀成は慶長5年5月に宇喜多家を去ります。
宇喜多騒動は有力家臣の離脱を招き、宇喜多家の結束に大きな影響を与えました。関ヶ原直前の時期に発生したこの騒動は、後の宇喜多家の動向にも少なからぬ影響を与えたと考えられています。
関ヶ原の戦いは西軍につく
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成らの対立は関ヶ原の戦いへ発展します。家康は上杉景勝の謀反を疑い、6月に大坂城を出発して会津に向かいます。この軍に秀家の名代として浮田左京亮が参加しました。
家康の動きを受け、石田三成は家康を討とうと弾劾状を諸大名に送り、西軍の味方を増やそうとします。秀家は毛利輝元とともに西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻めにも参加しました。さらに、秀家は9月15日の関ヶ原の戦いの本戦には、約1万7000の兵を率いて参加します。
一方、家臣たちの動きとしては、浮田左京亮は徳川方に寝返り、家康の家臣となっていた戸川達安は、宇喜多騒動の後に宇喜多家を仕切っていた明石全登に「家康は秀家の嫡男を婿として取り立てるから秀家を徳川方に引き込むように」と説得する書状を出しています。
しかし、秀家・明石全登は西軍につきます。宇喜多騒動により有力な家臣たちが離れ、危機的状況にある中でのこの決断は宇喜多家にとって致命的でした。
関ヶ原の戦いの当日、秀家率いる宇喜多軍は福島正則隊などと善戦するものの、小早川秀秋らの寝返りによって西軍は総崩れとなりました。秀家も敗走し、西軍は壊滅。東軍が勝利し、秀家は逃走しました。ちなみに浮田左京亮はそのまま家康に従って東軍につき、戦後は津和野藩を立藩し、坂崎直盛と名を変えています。
薩摩へ逃れ島津家の庇護下に
秀家の逃亡ルートははっきりしていませんが、関ヶ原から近江国に逃れた後、大坂まで移動したと考えられています。その後、海路で同じ西軍だった薩摩国の島津家を頼って九州に移動し、島津家の庇護のもと潜伏します。
東軍は秀家を捜索していましたが、なかなか見つけられませんでした。これは秀家の妻・豪姫(当時は南御方と呼ばれた)の実母である芳春院が支援していたとの説があります。事実、当時の手紙などからは芳春院が秀家の消息を知っていたことが分かります。
慶長7年(1602年)、徳川方と島津方の講和交渉が始まり、島津家は本領安堵を勝ち取りました。この際、島津家は秀家の助命交渉を合わせて行います。同じ西軍でありながら島津家が本領安堵を求める以上、秀家の助命を嘆願することは島津家にとっても筋の通った交渉だったのでしょう。
慶長8年(1603年)8月、秀家は助命嘆願のために家康の待つ伏見に上りました。9月2日、家康は秀家の助命を決定。駿河国久能への配流が決まりました。敵方の大老が助命されたのは、島津家の助命嘆願に加え、秀家が家康の側近だった本多正純の実弟・本多政重を部下にしていたことなどが効いたようです。
その後、詳細は不明ですが八丈島への配流が決定します。
八丈島で過ごした約50年
八丈島へは秀家と、江戸で人質として捕らえられていた二人の息子が配流されました。さらに、元加賀藩士の村田助六ら10名が付き従って移住しています。なぜここで加賀藩が?と思う方もいるかと思いますが、加賀藩の前田利長は秀家にとって義理の兄。秀家の妻・南御方は秀吉の妻・北政所の庇護のもと京で暮らしたのち、加賀・金沢に移住しています。
秀家の八丈島での生活は、加賀藩や旧家臣たちの援助で成り立っていました。南御方の実母である芳春院や、徳川方に就いた花房秀成等がさまざまな物資を送ったことが分かっています。
秀家はその後も大名復帰を働きかけていますが、徳川家康、秀忠、家光、家綱と将軍が代替わりしても赦免されることはなく、秀家は約50年間八丈島で生活することとなります。約50万石の大大名が、遠く離れた島で約50年を過ごしたのです。
なお、秀家が流された後、八丈島には多くの流人が送られるようになり、秀家は八丈島が「流刑の島」として知られるようになったきっかけだった、とされています。
明暦元年(1655年)11月20日、宇喜多秀家は八丈島で死去しました。享年84で、関ヶ原を戦った大名の中では最後まで生き残った人物の一人でした。
秀家の死後、宇喜多家は子孫が存続し、加賀藩前田家からの物資援助も引き続き行われました。後に、息子の孫九郎の直系が「宇喜多」、他が「浮田」を名乗るようになります。結局宇喜多一族が赦免されたのは明治2年(1869年)2月9日のことで、加賀藩からの要望によるものでした。
宇喜多秀家の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1819年 | 文政2年 | 0歳 | 備後福山藩主・阿部正精の子として生まれる |
| 1826年 | 文政9年 | 7歳 | 父の死去により福山藩主となる |
| 1843年 | 天保14年 | 24歳 | 老中に就任する |
| 1845年 | 弘化2年 | 26歳 | 老中首座となり幕政の中心を担う |
| 1853年 | 嘉永6年 | 34歳 | ペリー来航を受け、開国問題への対応にあたる |
| 1854年 | 安政元年 | 35歳 | 日米和親条約を締結する |
| 1855年 | 安政2年 | 36歳 | 長崎海軍伝習所の設立など海防政策を進める |
| 1857年 | 安政4年 | 38歳 | 死去 |
- 【参考文献など】
- 「「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家」大西泰正/著(KADOKAWA)
- 「宇喜多秀家―秀吉が認めた可能性 中世から近世へ」大西泰正/著(平凡社)
- 「シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家」大西 泰正/著(戎光祥出版)
- 「宇喜多秀家と豊臣政権 秀吉に翻弄された流転の人生」渡邊大門/著(洋泉社)
- 岡山城公式サイト
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。