清水宗治備中高松城水攻めで切腹した武将の忠義と最期の辞世の句

清水宗治

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人物記
名前
清水宗治(1537年〜1582年)
出生地
岡山県
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備中高松城

備中高松城

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戦国時代、数多くの武将が戦乱の中で命を落としましたが、そのなかでも劇的な最期を迎えた武将の一人が備中高松城主の清水宗治です。天正10年(1582年)、羽柴秀吉による備中高松城の水攻めのなかで徹底抗戦を続けた宗治は、切腹という形で生涯を閉じました。その壮絶な最期は敵将・秀吉からも高く評価され、「武士の鑑」として語り継がれています。今回はそんな清水宗治について、詳しく解説していきます。

清水宗治とは何者か

清水宗治は戦国時代後期の武将で、毛利氏に仕えた備中国(岡山県西部)の国人領主です。天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現岡山県総社市)の地方領主・清水宗則の次男として生まれました。なお、誕生日は不明ですが、同年に豊臣秀吉が生まれています。

戦国時代の中国地方では国人領主たちがそれぞれの所領を支配しながら、備中高松城主の石川氏を中心として勢力を形成していました。宗治は父の跡を継ぎ備中清水城の城主となり、その後、備中高松城の城主となります。備中高松城主となった経緯は諸説あり、詳細は不明です。

宗治は当主・石川久孝の娘を妻としており、石川氏と縁戚関係にありました。久孝には跡継ぎとなる男子がおらず、養子を迎えていました。しかし、久孝の死後、養子が早世したことで家中は混乱し、跡目争いが勃発します。

永禄8年(1565年)、宗治は跡目争いで対立関係にあった長谷川氏を城内におびき寄せて謀殺し、備中高松城の城主となりました。

備中兵乱と毛利氏への帰属

 天正2年(1574年)閏11月から翌年7月にかけて、備中国では織田氏と結んだ三村氏と毛利氏が争う戦乱が発生しました。「備中兵乱」と呼ばれるこの戦いで、石川氏は三村氏側につきました。幸山城城主の石川久式が三村元親の娘婿だったことがその理由でした。

宗治も当然石川氏につく…と思いきや、なんと毛利氏につきます。備中兵乱は最終的に毛利氏が勝利し、三村氏は滅ぼされました。宗治はその後、毛利氏のもとで頭角を現していくこととなります。

なお、備中兵乱の際の宗治の動きについては、当初は三村氏側についていたが途中で裏切って毛利氏についたという説もありますが、詳細ははっきりしません。

毛利氏の家臣となった後、宗治は山陽方面を担当していた小早川隆景の支配下に組み込まれ、備中高松城を任されます。天正6年(1578年)、毛利氏は尼子勝久・羽柴秀吉と播磨国上月城(兵庫県佐用郡佐用町)で争います(上月城の戦い)が、その際、備中高松城は毛利輝元軍の本陣となりました。

宗治もこの戦に参戦していましたが、こんなエピソードが残っています。戦のさなか、宗治のもとに嫡男の景治が秀吉方に誘拐されてしまいます。宗治は「主君に迷惑をかけられないのでこの場所を離れられない」と言いますが、それを知った小早川隆景は宗治の帰国を許しました。宗治は無事に息子を取り返すことができ、再び上月城に戻りました。この一件により、宗治と隆景の主従関係はより強まり、宗治の忠誠心が高まったとされています。

秀吉の中国攻めと備中高松城の重要性

宗治の名を広く知らしめたのが、秀吉軍と戦った「備中高松城の戦い」でした。織田信長の命のもと、中国攻めを開始した羽柴秀吉は天正5年(1577年)10月、播磨国に入り、姫路城を本拠地に毛利氏と争いを繰り広げました。秀吉は播磨国(兵庫県西南部)と但馬国(兵庫県北部)を平定しますが、天正6年(1578年)に入ると播磨三木城(兵庫県三木市)の別所長治が寝返り、摂津有岡城の荒木村重が反乱を起こすなど、秀吉にとって不利な状況が続きました。

しかし、秀吉は三木合戦で「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行い、天正8年(1580年)1月に城を落とします。天正9年(1581年)10月には鳥取城も兵糧攻めの結果落城させられました(第二次鳥取城の戦い・鳥取城の渇え殺し)。さらに秀吉は備前国(岡山県南東部)と備中国に侵攻し、毛利方の城を次々と落としていきました。

これに対し、毛利氏は備中と備前との国境付近に南北に続く防衛ラインとして「境目七城」を据え、秀吉を迎え撃ちます。この境目七城のうちの一つが、宗治が城主を務める備中高松城で、作戦の要でした。

備中高松城の戦い①毛利氏への忠義を貫いた宗治

宗治に対するイメージとして「忠義の人」というものがあります。江戸時代初期に成立した軍記物語『中国兵乱記』によれば、天正9年(1581年)10月、小早川隆景は境目七城の城主を自らの本拠地である三原城に呼び、秀吉の中国攻め対策を話し合いました。隆景は、毛利氏を裏切って織田方についた宇喜多直家が案内役となり、秀吉が備中に攻めてくると説明します。そのうえで「内通は卑怯として捉えていない。内通したい場合は今のうちに信長に従い、身を立てて家を興しなさい」と説きました。これに対し宗治ら家臣は「そのような気持ちは全くない。一命を捨てて城を守ります」と誓いました。

その後、秀吉は宗治に対し、「備中と備後の2ヶ国を保証するので、秀吉方についてて毛利討伐の先鋒とならないか」と勧誘します。これに対し宗治は「毛利から受けた恩義を忘れることはできない」と返答し、信長が書いた誓詞をそのまま毛利輝元に提出し、毛利氏への忠義を示したと言われています。

なお、『中国兵乱記』には、備中高松城の戦いの前日譚としてもう一つのエピソードが描かれています。天正10年(1582年)正月、小早川隆景は三原城へ宗治ら家臣を招き、太刀を贈りました。この際宗治は、他の家臣がめでたいと喜ぶ中で「大軍と戦うなかでの防戦は常に勝てるとは限らない。負けた場合は城を枕に切腹することを覚悟しなければならず、そのために太刀をいただいた」と語っています。このころからすでに宗治は切腹を覚悟していたのかもしれません。

備中高松城の戦い②攻城戦の開始と籠城

天正10年(1582年)3月、秀吉軍は2万の大軍で備中七城を次々と攻め、冠山城や宮路山城をはじめとした城を落としていきました。そして4月15日、秀吉軍はついに備中高松城攻めを開始します。

ところが備中高松城は城の三方を深い沼、残り一方は深い水堀の「沼城」で、周囲には低湿地帯が広がっており、守りに適した難攻不落の城でした。細いあぜ道を進んで攻めるには、大軍にとって不利でした。

一方の城を守る宗治は3000〜5000余りの寡兵とともに籠城していました。多勢に無勢と思われましたが、城の防御力の高さに秀吉軍は攻撃を失敗しています。そればかりか、宗治たちの夜討ちにダメージを受ける始末です。

内応を促しても備中高松城の人々は士気が高いままで裏切りません。そこで、秀吉軍は思い切った策に出ます。それが水攻めです。

備中高松城の戦い③「水攻め」という奇策

備中高松城の水攻めは名軍師・黒田官兵衛の提案によるものでした。戦の時期は梅雨で、連日の大雨で近くを流れる足守川は増水していました。官兵衛はこの川の水を引き込んで水攻めしようと考えたのです。

秀吉軍は水攻めのための堤防づくりに着手します。秀吉軍のもとには毛利軍の援軍4万(※諸説あり)が向かっているという情報が届いており、工事は急ピッチで進められました。

土嚢を急いで集めるため、官兵衛は土嚢一つあたり米一升または銭100文と交換するという奇策を使い、見事約635万個の土嚢を集めたと伝わっています。

工事は12日間で終了し、作られた堤防は足守川の東・蛙ヶ鼻から門前まで総延長約3.3km、最大の高さは約7.28mにも及ぶ大規模なものだったと言われています。ただし、近年の研究によれば、実際は総延長300m前後、高さは1.5m超だったのではと言われています。

官兵衛は足守川をせき止め、土手の中に水を引き入れます。こうして水攻めは成功し、備中高松城は水の中に沈みました。

水は備中高松城内の備蓄を押し流し、城内は食糧不足に苦しみました。三の丸など建物の一部は床上浸水し、兵士たちは寝る場所に困りました。しかし、籠城している兵士たちは士気を保ち続けました。宗治は恩義に応えようと必死に兵士たちを励まし続け、裏切者が出ないように城を見廻りしていたと伝わっています。

備中高松城の戦い④ 毛利援軍と和睦交渉

備中高松城が水没した後の5月21日、ようやく毛利の援軍が到着します。秀吉軍と毛利軍は備中高松城を挟んで対峙しました。しかし、毛利軍がとった策は戦ではなく講和でした。

秀吉軍にはまだ余力があるのに対し、毛利軍は度重なる裏切りに加え、長期戦の余力がありませんでした。水軍の一部が裏切ったことで制海権を失った毛利氏は、物資不足に悩んでいたのです。しかも内部での意見対立により、必ずしも一枚岩ではない状態でした。

そんななかで信長がさらに秀吉軍に増援を送ったとしたらどうなるでしょうか。隆景は信長との全面戦争を避けるためにも和睦する必要があったのです。

毛利方は交渉役として安国寺恵瓊を派遣し、秀吉に和議を申し出ました。条件は城兵の安全の代わりに、中国5ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)の譲渡でした。

しかし、秀吉は中国5ヶ国に加えて清水宗治の切腹を要求します。城主を生かしたままでは城を落としたことにはならない、というわけです。

これに対し、隆景は忠義の士である宗治を何とか生かそうとします。備中高松城の戦いが長引いたのは、宗治の命を巡る交渉が原因だったのです。

ちなみに、隆景は宗治に対し降伏を勧告していますが、宗治は忠義のためか、それとも降伏した後で毛利氏内での地位が低くなるのを恐れてか、これを拒否しています。

本能寺の変と秀吉の決断

交渉のさなか、秀吉のもとに天正10年6月2日(1582年6月21日)の「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれた、という一報が入ります。

それを聞いた秀吉は、すぐさま引き返して光秀を討つことを決意します。しかし、毛利方との和睦交渉は継続中でした。

このため秀吉は信長の死を隠し、素早く和睦を決着させます。知らせを受けた翌日、秀吉は安国寺恵瓊に対し、3日以内の和睦を条件に領土の割譲を備中・美作・伯耆の3ヶ国に譲歩すること、宗治が自刃すれば城兵は助けることを条件として提示しました。毛利との戦いではなく、信長の仇討ちを優先させたのです。

とはいえ、毛利方との交渉は膠着状態にありました。このため秀吉は備中高松城内にいる宗治に直接働きかけます。毛利方が「宗治の切腹は承諾できない」と講和を受け入れていないことを本人に伝えたのです。

宗治はこれに対し、主君に感謝するとともに、他の「毛利家のご恩に報いるため」と切腹を決意しました。その際、他の家臣の助命を約束するよう秀吉に訴えます。その忠義の志に秀吉は感動し、宗治の望み通りにすることを約束しました。光秀を討つために急ぐ必要があるにもかかわらず、秀吉は「切腹を見届けるまでは動かん」と言ったと伝わっています。

その後、秀吉は宗治に対して酒肴と上茶を贈っており、宗治は最後の宴を楽しみました。

清水宗治の最期-水上での切腹

6月4日、宗治は備中高松城から関係者数名とともに船に乗って出て、敵味方が見守る中兄の月清入道の謡により「誓願寺」を披露します。そして辞世の句を詠んだのち、切腹しました。享年46歳。

辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」。ただし、『中国兵乱記』では、この句は後に自刃した月清入道のもので、宗治は「世の間の 惜しまるるとき 散りてこそ 花も花なれ 色もありけれ」と詠んだとされています。

当時の武将たちは名誉ある死を重視していました。敵にやられるくらいなら自ら命を絶ち、面目を重んじていたのです。

ちなみに、この宗治の切腹により、「切腹は名誉ある行為」という認識が広まっていったとされています。秀吉自身も後年、宗治について「武士の鑑であった」と語ったと伝わっています。

宗治の死を見届けたのち、秀吉は光秀討伐のために全力で京へ取って返します(中国大返し)。そして光秀を討伐し、天下人への道を駆け上がっていくのです。

清水宗治の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1537年頃 天文6年頃 0歳 備中国の武将として生まれる(出自には諸説あり)
1570年代 元亀・天正年間 30〜40代 毛利氏に仕え備中高松城主となる
1582年 天正10年 40代 羽柴秀吉による備中高松城攻めを受け籠城
1582年 天正10年 40代 水攻めにより城が孤立し降伏を決断
1582年 天正10年 40代 城兵の助命と引き換えに切腹
【参考文献など】

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。