広島城広島県広島市

夏の広島城1 夏の広島城2 夏の広島城3 夏の広島城4 夏の広島城5 夏の広島城6 夏の広島城7 夏の広島城8 夏の広島城9 夏の広島城10
冬の広島城1 冬の広島城2 冬の広島城3 冬の広島城4 冬の広島城5 冬の広島城6 冬の広島城7 冬の広島城8 冬の広島城9
  • 毛利輝元が築いた太田川デルタの平城
  • 福島正則・浅野氏が治めた広島藩の中心
  • 原爆で失われ、戦後に復興天守が建てられた城

広島城とは、広島県広島市中区にある安土桃山時代から近世にかけての城跡である。天正17年(1589)に毛利輝元が太田川デルタ上で築城を始め、城と城下町を一体で整備した。関ヶ原の戦い後は福島正則が入り、その後、浅野長晟を初代として浅野氏が代々広島藩を治めた。明治以降も天守や一部の建物が残っていたが、1945年8月6日の原爆投下により天守は倒壊し、門や櫓も焼失した。現在は広島城跡として整備され、復興天守、二の丸復元建物、石垣、堀、被爆樹木などが広島城の歴史を伝えている。

広島城の特長
目的 毛利氏の本拠、広島藩の政庁、太田川デルタと瀬戸内海交通の支配拠点
特長 平城、水堀、石垣、復興天守、二の丸復元建物、浅野氏、被爆樹木、広島大本営跡
他の城との違い ・毛利輝元が太田川デルタに築いた大規模な平城である
・原爆により旧天守や城郭建造物が失われ、戦後復興の象徴として天守が再建された
・近世城郭、軍都広島、被爆と復興の記憶が同じ城跡に重なる
広島城の石垣・土塁
石垣 現存・復元整備
土塁 一部あり
種類 野面積、打込接、石垣、水堀、平城、枡形、曲輪
石材 花崗岩など
特長 広島城は、太田川デルタ上に築かれた平城で、石垣と水堀を組み合わせて防御した城である。本丸・二の丸周辺には石垣と堀が残り、二の丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は平成6年(1994)に復元されている。石垣は、毛利期・福島期・浅野期の改修が重なった城郭遺構として見る必要がある。特に福島正則は無断修築を理由に改易されたことで知られ、広島城の石垣は単なる防御施設ではなく、江戸幕府による大名統制を考える上でも重要である。
広島城DATA
別称 鯉城、在間城、当麻城
所在地 広島県広島市
築城 1589年
築城者 毛利輝元
住所 広島県広島市中区基町21-1
電話番号 082-221-7512
開館時間 広島城天守は2026年3月に閉城。二の丸復元建物などの公開時間は公式情報の確認が必要
休館日 広島城天守は閉城中。公開施設は施設ごとに異なる
入館料 広島城天守は閉城中。公園散策は無料
備考 現在の天守は1958年に広島復興大博覧会に合わせて建てられた鉄筋コンクリート造の復興天守である。老朽化などを理由に2026年3月に閉城し、外観のみ鑑賞できる。二の丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は1994年に復元された。城内には広島大本営跡や被爆樹木も残り、城郭史と近代史の両面から見学できる。
広島城への交通アクセス
路面電車「紙屋町東・西電停」下車、徒歩15分

HISTORY 毛利輝元が築城し原子爆弾により倒壊した広島城

広島城は、広島県広島市中区に築かれていた平城です。毛利氏14代目当主であり毛利元就の孫にあたる毛利輝元によって築城され、明治時代まで広島藩の藩庁として機能しました。
1945年に広島市に投下された原子爆弾により、現存していた天守閣などはすべて倒壊し、1958年に再建されました。そんな広島城の歴史を紐解いていきましょう。

広島城の歴史
1588年 毛利輝元が上洛し、聚楽第や大坂城などを見て新たな本拠地築城を構想する
1589年 毛利輝元が五ケ村で鍬初めを行い、この地を広島と名付ける
1589年 毛利輝元が広島城の堀普請を家臣に命じる
1590年 広島の町割が進められ、城下町整備が本格化する
1591年 毛利輝元が広島城に入城する
1600年 関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長二国へ減封され、福島正則が広島城主となる
1619年 福島正則が広島城の無断修築を理由に改易される
1619年 浅野長晟が広島城に入り、以後、浅野氏が明治維新まで広島藩を治める
江戸時代 広島城が広島藩の政庁として機能し、城下町が発展する
明治時代 城内に軍事施設が置かれ、日清戦争時には広島大本営が設けられる
1931年 広島城天守が国宝に指定される
1945年 原爆投下により天守が倒壊し、残っていた門や櫓も焼失する
1958年 広島復興大博覧会に合わせ、現在の復興天守が建てられる
1994年 二の丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が復元される
2006年 日本100名城に選定される
2026年 老朽化などにより広島城天守が閉城する
広島城築城までの歴史
広島は、鎌倉時代に起こった承久の乱以降、安芸国守護に命じられた武田氏により治められていました。 時代が下り戦国時代になると毛利元就が台頭してきて武田氏を滅ぼし、厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利して安芸は毛利氏のものとなります。 毛利氏は、吉田郡山城を居城としていましたが、元就の孫・毛利輝元の時代となると豊臣秀吉が天下を統一し、世の中が安定してきました。 そうなると、敵からの侵攻を防ぐための城よりも権力のシンボルとして築城し、城下町を城の周りに築く「近世城郭」の必要性が増してきます。 そのため、毛利輝元は海上交易路である瀬戸内の水運を活かすことができ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え、広島城の築城を思い立ったといわれています。
また、毛利輝元が初めて豊臣秀吉に謁見した際、大阪城や聚楽第を見学して近世城郭の必要性を痛感したという説もあります。
明治以降の広島城広島城築城から明治まで
広島城の築城が始まったのは、天正17年(1589年)のことです。毛利元就の四男である穂井田元清と二宮就辰を普請奉行を務め、築城の名手と呼ばれた黒田如水も築城に関わっています。
広島城は川の中州に築城したため、川の中州の埋め立てと堀の浚渫など「島普請」と呼ばれる初期工事に大変手間がかかりました。 しかし、毛利輝元が積極的に築城を進めたことから天正18年(1590年)末、堀と城塁が完成し、翌年輝元は広島城に入場します。 文禄元年(1592年)、文禄の役を指揮するために九州の名護屋城に向かう際の豊臣秀吉も広島城に立ち寄っています。 広島城のすべての工事が終わったのは慶長4年(1599年)のことで、「広島」という地名はその時につけられたといわれています。
築城当時の広島城は堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えであり、当時の大阪城に匹敵する規模であったと伝えられています。しかし、翌慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の総大将を務めたことで広島から長州へ移封になり、その後やってきた福島正則が大規模な改築をしたため、築城当時の広島城の記録は残っていません。
福島正則は、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりを本格的に行い、外角を整備し、内堀・中堀・外堀まで作ります。現在の広島城の姿はこの時に形作られました。 また、西国街道を城下の南側を通るようにつくりかえ、雲石街道を整備します。 しかし、この大規模な改築は徳川家康の逆鱗に触れ、慶長14年(1609年)に福島正則は謹慎を言い渡されました。 さらに、元和5年(1619年)洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築と決めつけられ、信濃国川中島へ改易となります。
その後、広島城は同年に浅野長晟が入場し、以降明治まで浅野氏が広島を治め続けました。 幕府によって城の改築工事が厳しくとがめられてから、浅野氏は櫓台石垣の一部を改築した以外の城普請は行いませんでした。 しかし、大規模な干拓事業は毛利氏の時代から行われ続け、広島城周辺の土地は江戸時代を通して5倍~6倍に広がったといわれています。
明治以降の広島城
明治になると廃藩置県が行われ、広島城には日本のほかの城と同じく陸軍の施設が建てられるようになりました。 日清戦争のときは広島に大本営が置かれ、1890年(明治30年)には、広島城内の敷地内に広島陸軍地方幼年学校が建てられるなどして、広島は軍都として発展していきます。
城の堀などが人口増加によって埋め立てられる一方で、広島城の天守閣などの建物は歴史的な価値を見出されて昭和6年(1931年)に旧国宝に指定されました。
そして、太平洋戦争がはじまると、江戸時代から残っていた天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓などの多くに軍の重要書類の保管庫となりました。そのため、米軍の攻撃目標にもなり、昭和20年(1945年)8月6日、原爆が投下され、現存していた建物はすべて倒壊、焼失しました。 当時、広島城の敷地内及び付近には1万人の兵士がいたとされていますが。その多くが原爆の犠牲となっています。
昭和28年(1953年)、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まり、昭和33年(1958年)に市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決定・広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建も決まりました。 なお、このときすでに工事は始まっており、1958年6月に広島城郷土館(現在の博物館)が開館しました。 そして、平成元年~4年(1989年~1994年)にかけて築城400周年・市制100周年を迎えたことにより城の改修・二の丸の復元・堀の浄化作業などが行われました。
平成18年(2006年)には日本百名城に指定されます。 現在の広島城は再建された天守閣の老朽化が進んだことから、耐震改修から木造建築への再建も検討されています。

広島城と関連する人物記を読む

毛利輝元中国地方のプリンス
戦国時代、中国地方の安芸国(現在の広島県)から出て大勢力にまで成長した大名がいました、毛利元就です。その毛利元就の孫が毛利輝元でした。輝元は、東海、近畿地方で勃興した織田信長と対立、その後に台頭した豊
福島正則賤ケ岳の七本槍
戦国時代、織田信長が本能寺の変に斃れた後、天下人になった武将が豊臣秀吉です。その秀吉には小姓として多くの若者が仕えました。加藤清正、石田三成、福島正則などです。福島正則は尾張国に生まれ、秀吉の親戚とい
毛利元就謀神の名言、誓いの三本の矢
戦国時代を通して中国地方の安芸国(現在の広島県)から出て大勢力にまで成長した大名がいました、毛利家です。戦国時代の初め、安芸国の小豪族毛利氏に毛利元就は生まれました。元就は幼い頃から苦労を重ね、大勢力

広島城を藩庁とする、広島藩の歴史

広島藩浅野家が治め続ける
広島は、戦国時代に毛利家が陶氏(大内氏)を滅ぼして自らの領地とした場所です。広島藩の藩庁であった広島城は毛利元就の孫にあたる毛利輝元によって建てられました。 しかし、慶長5年(1600年)に起こった関
広島藩DATA
藩庁 広島城
旧地域 安芸国安芸郡広島
石高 42万6000石
譜代・外様 外様
主な藩主 福島家、浅野家
推定人口 91万人(明治元年)

広島城「鯉城」の名を持つ広島のシンボル

広島のシンボル的存在の広島城。毛利輝元が現在の広島市に築城した城で、「鯉城」の別名で知られています。一説によれば城が建てられた一帯が「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていたことにちなんだもので、「広島東洋カープ」の名の由来(カープは英語で鯉の意)にもなっています。

広島城
広島城の歴史
広島城は天正17年(1589年)、五大老の毛利輝元が築城を始めた城です。それまでの毛利氏の本拠地は吉田郡山城(現広島県安芸高田市吉田町)でしたが、山城だった吉田郡山城は交通の便が良くありませんでした。加えて時代は山城から水陸の交通の便のよい立地にある、天守や城主の居館を石垣や土塀で囲んだ「近世城郭」へと移行しており、輝元はその代表格ともいえる大阪城を訪れて大きな影響を受け、新たな拠点づくりを決意したと言われています。
新たな拠点に選ばれたのが広島湾の周辺で、太田川のデルタ地帯の山々から城地を決定。当時「五箇」と呼ばれていた土地を「広島」と名づけました。
天正19年(1591年)には天守ができあがり、輝元が入城。江戸時代の史料によると望楼型5層5階の天守で、3層3階の小天守を渡櫓で結んだ連結式天守でした。ただし本丸などの主要部分以外は未完成で、文禄2年(1593年)に石垣が完成し、慶長4年(1599年)にようやく城郭が完成しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた輝元は、周防・長門2ヶ国(山口県)に減封されます。代わって福島正則が安芸・備後2国に加増されて広島城に入城。正則は元和3年(1617年)の大洪水を受けて広島城を改修・普請しており、このときに広島城の外郭部分が整備されました。
ところが正則は幕府の許可を得る前に普請を実施したことで、2代将軍の徳川秀忠の怒りを買い、改易されてしまいます。代わって広島城に加増・転封されたのが和歌山城主だった浅野長晟で、安芸一国と備後8郡の42万6500石が与えられました。以降広島は明治時代まで浅野氏が統治します。
明治維新後は県庁や軍事施設が置かれ、日清戦争の際は大本営が設置されました。こうした動きの中で江戸時代の建物は解体や火事で姿を消していきますが、天守や東走櫓、表御門や中御門、二の丸の平櫓などは残されました。昭和6年(1931年)には、天守が国宝に指定されています。
しかし、昭和20年(1945年)8月6日に投下された原爆で、爆心地から約1kmにあった天守は倒壊し、そのほかの建物も焼失します。天守の再建は昭和26年(1951年)のことで、第6回国民体育大会に先立って開催された体育文化博覧会に合わせて、木造の簡単な模擬天守が建てられました。天守は国体終了後に解体されましたが、市民からの声を受け、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート製で外観復元されました。このほか、平成6年(1994年)までに二の丸の表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が木造で復元されています。
広島城の見どころ①解体が予定される天守
現在の鉄筋コンクリート製の天守は昭和33年(1958年)に広島復興大博覧会の会場としてオープンしたのち、広島城郷土館として内部を博物館化しました。平成元年(1989年)に展示内容をリニューアルし、現在に至ります。
館内では広島城や歴代城主にまつわる展示があり、広島ゆかりの甲冑や刀剣、浅野家の馬印の「網代金箔押唐人笠形馬印」や城の近くで発掘された金箔鯱瓦などが見どころです。1階には兜や陣羽織を着用できる体験コーナーもありますよ。5階の展望室からは原爆ドームなどの広島の町並みに加え、晴れた日には世界遺産・宮島も拝めます。
なお、広島城は老朽化や耐震性に問題があることなどから解体と木造による復元が計画中。2024年には解体方法などの方針が決まっており、今後の動きに注目です。
広島城の見どころ1 広島城の見どころ2 広島城の見どころ3
広島城の見どころ②石垣
広島城では天守台などの野面積みによる毛利時代の石垣と、打ち込みハギによる福島・浅野時代の石垣を見学できます。中でも見どころなのが、福島正則が破却したとされる、途中で途切れている本丸石垣です。
正則は幕府の許可を得ずに城の修復・改修をしたことで咎められましたが、幕府はまず「無断修復を許す代わりに城の修築した部分を取り壊せ」と命じます。その時に壊した石垣がこの部分とされていますが、改修したのは別の場所だったため、結局正則は改易されてしまいました。
ちなみに三の丸から広島護国神社を見ると目に入る堀沿いの石垣は毛利時代と福島時代が混ざりあっており、無断修復された場所のひとつと言われています。
このほか、広島城の石垣には39種類・200個以上の刻印が残されているので、探しながらめぐるのもおすすめです。
広島城の見どころ4 広島城の見どころ5 広島城の見どころ6
広島城の見どころ③二の丸にある木造復元建物
二の丸には広島城築城400年を記念し、平成元年(1989年)から平成6年(1994年)にかけて復元した木造の表御門と御門橋、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓に西側塀があります。櫓は内部の見学も可能です。発掘調査や戦前に撮られた古写真、残された図面等をもとに復元されており、往時の姿を忍ばせます。
広島城の見どころ7 広島城の見どころ8 広島城の見どころ9
広島城の見どころ④被爆樹木
広島城には原爆の被害から復活して今も生き続ける「被爆樹木」が3種類残されています。それが二の丸跡のユーカリとマルバヤナギ、大本営跡のクロガネモチです。戦後復興の象徴的な存在となっており、現在も青々とした葉をつけています。
広島城のフォトスポット
天守を撮影するなら堀越しの撮影がおすすめ。風のない日は水が鏡の役割を果たし「逆さ城」が撮影できます。夜のライトアップも幻想的な光景です。
広島城の見どころ10 広島城の見どころ11 広島城の見どころ12
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。