広島城広島県広島市

広島城DATA
別称 鯉城、在間城、当麻城
築城 1589年
住所 広島県広島市中区基町21-1
電話番号 082-221-7512
開館時間 9:00〜18:00(3月〜11月/入館は17:30まで)、9:00〜17:00(12月〜2月/入館は16:30まで)
休館日 12月29日から12月31日
登閣料 大人370円/シニア・高校生180円/中学生以下無料

広島城への交通アクセス

路面電車「紙屋町東・西電停」下車、徒歩15分

毛利輝元が築城し原子爆弾により倒壊した広島城

広島城は、広島県広島市中区に築かれていた平城です。毛利氏14代目当主であり毛利元就の孫にあたる毛利輝元によって築城され、明治時代まで広島藩の藩庁として機能しました。
1945年に広島市に投下された原子爆弾により、現存していた天守閣などはすべて倒壊し、1958年に再建されました。そんな広島城の歴史を紐解いていきましょう。

広島城築城までの歴史
広島は、鎌倉時代に起こった承久の乱以降、安芸国守護に命じられた武田氏により治められていました。 時代が下り戦国時代になると毛利元就が台頭してきて武田氏を滅ぼし、厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利して安芸は毛利氏のものとなります。 毛利氏は、吉田郡山城を居城としていましたが、元就の孫・毛利輝元の時代となると豊臣秀吉が天下を統一し、世の中が安定してきました。 そうなると、敵からの侵攻を防ぐための城よりも権力のシンボルとして築城し、城下町を城の周りに築く「近世城郭」の必要性が増してきます。 そのため、毛利輝元は海上交易路である瀬戸内の水運を活かすことができ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え、広島城の築城を思い立ったといわれています。
また、毛利輝元が初めて豊臣秀吉に謁見した際、大阪城や聚楽第を見学して近世城郭の必要性を痛感したという説もあります。
明治以降の広島城広島城築城から明治まで
広島城の築城が始まったのは、天正17年(1589年)のことです。毛利元就の四男である穂井田元清と二宮就辰を普請奉行を務め、築城の名手と呼ばれた黒田如水も築城に関わっています。
広島城は川の中州に築城したため、川の中州の埋め立てと堀の浚渫など「島普請」と呼ばれる初期工事に大変手間がかかりました。 しかし、毛利輝元が積極的に築城を進めたことから天正18年(1590年)末、堀と城塁が完成し、翌年輝元は広島城に入場します。 文禄元年(1592年)、文禄の役を指揮するために九州の名護屋城に向かう際の豊臣秀吉も広島城に立ち寄っています。 広島城のすべての工事が終わったのは慶長4年(1599年)のことで、「広島」という地名はその時につけられたといわれています。
築城当時の広島城は堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えであり、当時の大阪城に匹敵する規模であったと伝えられています。しかし、翌慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の総大将を務めたことで広島から長州へ移封になり、その後やってきた福島正則が大規模な改築をしたため、築城当時の広島城の記録は残っていません。
福島正則は、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりを本格的に行い、外角を整備し、内堀・中堀・外堀まで作ります。現在の広島城の姿はこの時に形作られました。 また、西国街道を城下の南側を通るようにつくりかえ、雲石街道を整備します。 しかし、この大規模な改築は徳川家康の逆鱗に触れ、慶長14年(1609年)に福島正則は謹慎を言い渡されました。 さらに、元和5年(1619年)洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築と決めつけられ、信濃国川中島へ改易となります。
その後、広島城は同年に浅野長晟が入場し、以降明治まで浅野氏が広島を治め続けました。 幕府によって城の改築工事が厳しくとがめられてから、浅野氏は櫓台石垣の一部を改築した以外の城普請は行いませんでした。 しかし、大規模な干拓事業は毛利氏の時代から行われ続け、広島城周辺の土地は江戸時代を通して5倍~6倍に広がったといわれています。
明治以降の広島城
明治になると廃藩置県が行われ、広島城には日本のほかの城と同じく陸軍の施設が建てられるようになりました。 日清戦争のときは広島に大本営が置かれ、1890年(明治30年)には、広島城内の敷地内に広島陸軍地方幼年学校が建てられるなどして、広島は軍都として発展していきます。
城の堀などが人口増加によって埋め立てられる一方で、広島城の天守閣などの建物は歴史的な価値を見出されて昭和6年(1931年)に旧国宝に指定されました。
そして、太平洋戦争がはじまると、江戸時代から残っていた天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓などの多くに軍の重要書類の保管庫となりました。そのため、米軍の攻撃目標にもなり、昭和20年(1945年)8月6日、原爆が投下され、現存していた建物はすべて倒壊、焼失しました。 当時、広島城の敷地内及び付近には1万人の兵士がいたとされていますが。その多くが原爆の犠牲となっています。
昭和28年(1953年)、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まり、昭和33年(1958年)に市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決定・広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建も決まりました。 なお、このときすでに工事は始まっており、1958年6月に広島城郷土館(現在の博物館)が開館しました。 そして、平成元年~4年(1989年~1994年)にかけて築城400周年・市制100周年を迎えたことにより城の改修・二の丸の復元・堀の浄化作業などが行われました。
平成18年(2006年)には日本百名城に指定されます。 現在の広島城は再建された天守閣の老朽化が進んだことから、耐震改修から木造建築への再建も検討されています。

広島城と関連する人物記を読む

毛利輝元中国地方のプリンス
戦国時代、中国地方の安芸国(現在の広島県)から出て大勢力にまで成長した大名がいました、毛利元就です。その毛利元就の孫が毛利輝元でした。輝元は、東海、近畿地方で勃興した織田信長と対立、その後に台頭した豊臣秀吉に臣従しました。さらに関ヶ原の戦いでは反徳川方の西軍の大将として推されます。今回はそんな中国地方を中心に戦国時代を駆け抜けた毛利輝元について見ていきます。
福島正則賤ケ岳の七本槍
戦国時代、織田信長が本能寺の変に斃れた後、天下人になった武将が豊臣秀吉です。その秀吉には小姓として多くの若者が仕えました。加藤清正、石田三成、福島正則などです。福島正則は尾張国に生まれ、秀吉の親戚という伝手で仕える事になりました。秀吉の天下統一を助け、大名へとのし上がっていきます。今回は秀吉に仕え大名になり、関ヶ原の戦いで奮戦した福島正則の生涯を解説します。

広島城を藩庁とする、広島藩の歴史

広島藩浅野家が治め続ける
広島は、戦国時代に毛利家が陶氏(大内氏)を滅ぼして自らの領地とした場所です。広島藩の藩庁であった広島城は毛利元就の孫にあたる毛利輝元によって建てられました。 しかし、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で毛利輝元が西軍の総大将になったことにより、毛利氏は広島から長州へ改易されてしまいます。 その後、広島藩は福島正則が治めた後、浅野家が幕末まで藩を治め
広島藩DATA
藩庁 広島城
旧地域 安芸国安芸郡広島
石高 42万6000石
譜代・外様 外様
主な藩主 福島家、浅野家
推定人口 91万人(明治元年)