広島藩(1/2)浅野家が治め続ける

福島家の家紋「沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
広島藩(1600年〜1871年)
所属
広島県
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広島は、戦国時代に毛利家が陶氏(大内氏)を滅ぼして自らの領地とした場所です。
広島藩の藩庁であった広島城は毛利元就の孫にあたる毛利輝元によって建てられました。

しかし、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で毛利輝元が西軍の総大将になったことにより、毛利氏は広島から長州へ改易されてしまいます。

その後、広島藩は福島正則が治めた後、浅野家が幕末まで藩を治めました。
そんな広島藩の歴史を紐解いていきましょう。

福島正則の治世

福島正則は、賤ヶ岳の七本槍の1人して豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将です。慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで敗戦の将となり、長州へ左遷された毛利輝元に代わって広島を与えられました。
慶長6年(1601年)から再検地を実施、毛利家時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なうなど、広島藩の藩政の基礎を固めました。

しかし、元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修したとして、武家諸法度に違反したと咎められ、信濃国川中島へ改易となってしまいます。

なお、この事件の真相は大坂の陣で徳川幕府が豊臣家を滅ぼしたことに福島正則が異を唱えたからという説もありますが、真相は定かではありません。

浅田家の治世

福島正則の改易により、紀州藩から浅野長晟が移封されてきます。浅野長晟は、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男に当たる人物です。

広島藩は大坂との間で瀬戸内海航路の海運に恵まれています。そのため、福島正則は木材・鉄・紙などの専売を敷きました。

浅野長晟もこの政策を引き継ぎます。さらに、米相場を利用して豊作の時に他国から安く米を仕入れ、高値になったころを見計らって売却。利ザヤを稼ぎました。
つまり、国ぐるみで商売をしたわけです。
これにより、広島藩の財政は早々に安定しました。

2代藩主浅野光晟は、徳川家康の外孫にあたる人物です。庶兄にあたる浅野長治に5万石えて支藩である備後三次藩を設立させました。
また、検地や税制改革、西国街道の整備や運輸整備などの藩政改革を実施しています。

3代藩主浅野綱晟は家督を継いで1年未満で病死、4代藩主浅野綱長の時代に赤穂事件が勃発します。吉良義央に刃傷した浅野長矩は分家筋に当たるため、浅野綱晟は赤穂浅野家筆頭家老である大石良雄へ穏便な開場をせまり、赤穂浪士らによる吉良家への討ち入りを防ごうとしましたが、結局討ち入りは行われました。
なお、広島藩は大石良雄の三男をはじめとし、赤穂藩の家臣を多く召し抱え分家の不始末の後始末もしています。
また、浅野綱長の時代、藩政に陰りが出てきたため藩札の発行なども行われています。

5代藩主浅野吉長は、広島藩の藩校である講学所を造ったり宮島の大鳥居を修繕したりといった功績を残しています。
また、この時代、浅野長政と伊達政宗の時代から続けていた伊達家との和解を林信篤などから盛んに進められます。
この和解政策はいったん成功しかけましたが「先祖に申し訳が立たない」などの理由で、再び反故されました。
なお、伊達家と浅野家の和解が成立したのはなんと平成6年(1994年)のことです。

6代藩主浅野宗恒は、悪化し始めた藩政を立て直すために改革を行い、おおよそ成功させてしまいます。
7代藩主浅野重晟は浅野宗恒の政策を引き継ぎ、社倉法による救荒策や絹・油などの国産振興策を進めました。
そのかいあって、経費削減のために閉校状態だった藩校を再開させることができます。
また、縮景園を大改築して現在の形に近いものにもしています。

8代藩主浅野斉賢の時代、広島藩にロシアに囚われてやっと故郷に帰った久蔵という人物により、牛痘の痘苗が持ち込まれますが、広島藩側がこの効果を信じず、広島藩内に天然痘の予防接種の一種である牛種痘法が広まることはありませんでした・

9代藩主浅野斉粛の時代、広島藩は天保の大飢饉などの天災に加え、河川の普請工事、将軍の姫との婚儀などの出費が続き、財政が火の車となります。
野村帯刀という人物により藩政改革が行われましたが、残念なことにあまり効果は上がりませんでした。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。