熊本城熊本県熊本市

春の熊本城1 春の熊本城2 春の熊本城3 春の熊本城4 春の熊本城5 春の熊本城6 春の熊本城7 春の熊本城8 春の熊本城9 春の熊本城10 春の熊本城11 春の熊本城12 春の熊本城13 春の熊本城14
秋の熊本城1 秋の熊本城2 秋の熊本城3 秋の熊本城4 秋の熊本城5 秋の熊本城6 秋の熊本城7 秋の熊本城8 秋の熊本城9 秋の熊本城10 秋の熊本城11 秋の熊本城12
冬の熊本城1 冬の熊本城2 冬の熊本城3 冬の熊本城4 冬の熊本城5 冬の熊本城6 冬の熊本城7 冬の熊本城8 冬の熊本城9 冬の熊本城10
  • 加藤清正が築いた日本屈指の近世城郭
  • 武者返しと呼ばれる反りのある石垣で知られる城
  • 西南戦争と熊本地震を経て復旧が進む熊本の象徴

熊本城とは、熊本県熊本市中央区にある江戸時代初期の城である。加藤清正が築いた城として知られ、慶長12年(1607)に完成したとされる。旧城域は約98万平方メートル、周囲約5.3キロメートルに及ぶ広大な規模を持ち、大小天守、櫓、櫓門、城門を備えた西国有数の近世城郭であった。加藤家改易後は細川氏の居城となり、熊本藩の政庁として機能した。明治10年(1877)の西南戦争直前に天守や本丸御殿などを焼失したが、宇土櫓など築城当時の建物も残る。平成28年(2016)の熊本地震で大きな被害を受け、現在も復旧工事が進められている。

熊本城の特長
目的 肥後国支配の拠点、熊本藩の政庁、西国支配と九州防衛の要衝、城下町形成の中心
特長 加藤清正、細川氏、武者返し、宇土櫓、大小天守、本丸御殿、飯田丸五階櫓、長塀、復旧工事、桜の馬場城彩苑、日本100名城
他の城との違い ・加藤清正が築いた実戦的な大規模近世城郭である
・下部は緩やかで、上部へ向かうほど反り返る「武者返し」の石垣が大きな特徴である
・西南戦争、熊本地震という二度の大きな損傷を経て、復旧の過程そのものを公開している城である
熊本城の石垣・土塁
石垣 現存・復旧整備中
土塁 一部現存
種類 野面積、打込接、切込接、算木積み、武者返し、高石垣、天守台、櫓台、枡形虎口、平山城
石材 安山岩、凝灰岩など
特長 熊本城の石垣は、通称「武者返し」と呼ばれる反りのある高石垣で知られる。下部は緩やかで登れそうに見えるが、上へ行くほど勾配が急になり、敵の侵入を防ぐ構造になっている。竹の丸から飯田丸に向かう通路は何度も折れ曲がり、高石垣と櫓門を組み合わせて守る複雑な防御線を形成していた。平成28年(2016)の熊本地震では多くの石垣が崩落・変形したため、現在も石材の回収、解体、積み直し、建造物の復旧が進められている。熊本城では、完成した石垣だけでなく、復旧途中の石垣を通して、城郭修復の技術と時間を見学できる点も重要である。
熊本城DATA
別称 銀杏城
所在地 熊本県熊本市
築城 1601年頃着工、1607年完成とされる
築城者 加藤清正
住所 熊本県熊本市中央区本丸1-1
電話番号 096-223-5011
開園時間 熊本城特別公開は9時~17時。最終入園は16時。天守閣最終登閣は16時30分まで
休園日 12月29日。荒天などにより休園の場合あり
入園料 高校生以上800円、小・中学生300円、未就学児無料。30名以上の団体は高校生以上640円、小・中学生240円
備考 熊本城跡は国指定特別史跡で、日本100名城にも選定されている。天守閣は昭和35年(1960)に鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元され、平成28年(2016)の熊本地震で被災した後、令和3年(2021)3月に完全復旧した。宇土櫓は築城当初から現存する唯一の多重櫓で、国指定重要文化財である。宇土櫓は2022年から本格的な解体復旧が進められており、完成は2032年予定である。日本100名城スタンプは各券売所、南口券売所・北口券売所に設置されている。
熊本城への交通アクセス
市電「市役所前」駅から徒歩10分

HISTORY 築城の名手加藤清正が築いた熊本城

熊本城は、慶長12年(1607年)現在の熊本県熊本市中央区にある茶臼山丘陵一帯に建てられた平城です。築城の名手と名高い加藤清正によって築かれました。平成28年(2016年)に熊本地震で大きな被害を受けましたが、令和3年(2021年)にようやく天守閣復旧工事が終了し、往年の姿を取り戻します。そんな熊本城の歴史を紐解いていきましょう。

熊本城の歴史
1467年~1469年頃 菊池氏一族の出田秀信が、茶臼山周辺に千葉城を築いたと伝わる
1496年頃 鹿子木親員が隈本城を築いたと伝わる
1588年 加藤清正が肥後北半国の領主として隈本城に入る
1600年 関ヶ原の戦い後、加藤清正が肥後一国52万石の大名となる
1601年頃 加藤清正が茶臼山一帯で新たな城の築城を本格化させる
1607年 熊本城が完成したとされ、「隈本」から「熊本」へ改められたと伝わる
1611年 加藤清正が死去する
1632年 加藤家が改易され、細川忠利が肥後熊本藩主として入城する
江戸時代 細川氏が代々熊本藩を治め、熊本城が藩政の中心となる
1877年 西南戦争直前の火災により、天守や本丸御殿など多くの建物が焼失する
1877年 西南戦争で熊本城が政府軍の拠点となり、西郷軍の攻撃に耐える
1960年 明治時代初期の写真などをもとに、大小天守が外観復元される
2006年 日本100名城に選定される
2008年 本丸御殿大広間が復元される
2016年 熊本地震により、石垣の崩落、建造物の倒壊・破損など甚大な被害を受ける
2021年 天守閣が完全復旧する
2022年 宇土櫓の本格的な解体復旧が始まる
2023年 監物櫓が復旧完了する
2032年予定 宇土櫓の復旧完成が予定されている
熊本城築城以前
熊本城が築かれている場所には、室町時代、文明年間(1469年 ~1487年)に肥後国の守護であった菊池氏の一族、出田秀信という人物が千葉城という城を築いていたと伝えられています。
16世紀にはいると出田氏の力が衰えると、大永・享禄年間(1521年 ~ 1531年)に菊池氏、大友氏の家臣であった鹿子木親員という人物が、千葉城のあった場所に隈本城を築きました。その後、隈本城には菊池義武などが入ります。
熊本城築城
天正15年(1587年)豊臣秀吉が九州平定を行った際、隈本城には島津氏に味方をしていた城氏、という一族が入っていました。城氏は豊臣秀吉に対し素直に城を明け渡し、変わりに肥後の国を与えられた佐々成正が城に入ります。 佐々成正は、秀吉の命令に逆らって検地を強行したために肥後の国人が一揆をおこし、隈元城も苛烈な攻めを受けました。 しかし、城台となった神保氏張の奮闘により落城は免れます。佐々成正は一揆の責任を取って切腹させられ、肥後北半国19万5,000石は、加藤清正に与えられました。
肥後国に入った加藤清正は、天正19年(1591年)~茶臼山丘陵一帯に熊本城を建築し始めます。 慶長5年(1600年)には天守閣が完成し、慶長11年(1606年)には城の完成を祝って地名を隈本から熊本へ改めたという記録が残っています。 また、慶長15年(1615年)から本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が始まります。 加藤清正は、藤堂高虎と並んで「築城の名手」と呼ばれていますが、これは、熊本城建築の際に組んだ石垣の見事さが由来という説があります。 熊本城の石垣は上に行くほど勾配がきつくなる造りで、「扇の勾配」とも、忍者すら登れそうにないところから「武者返し」とも呼ばれているものです。
明治になったとき、熊本城の建物はほぼ取り壊されましたが、この石垣だけは残りました。 平成28年(2016年)に発生した熊本地震では被害を活けましたが、職人たちの手によって現在は復旧しています。 熊本城は籠城を考えて作られており、場内には多数の井戸があり、堀にはレンコンが植えられました。 築城主の加藤清正によって植えられた銀杏も、「籠城した際の食料にしようと思って植えた」という説がありますが、オスの銀杏なので実はつけないため、現在はこの説は否定されています。 熊本城の別名は銀杏城ですが、それは、加藤清正が植えたこの銀杏に由来します。
築城後の熊本城
肥後の領主となった加藤清正ですが、その子供加藤忠広の代で改易されてしまいます。 後を継いで肥後を治めたのは豊前小倉城主だった細川忠利でした。 細川忠利は、城の長塀の南、坪井川を渡った所に「花畑屋敷」と呼ばれる住居を造り、以後藩主たちはそこを生活の場にしたといわれています。 加藤清正の死後、熊本城は藩財政の疲弊や御家騒動などで修理もままならないまま放っておかれたため、本丸周辺以外はほぼ未開の状態でした。 細川忠利は、熊本城の修繕を江戸幕府に申し出て、本丸の増築や二の丸の整備を行っています。 さらに、細川家は上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として三の丸や壺川地域の開発を進め、最後の築城が終わったのは明治時代まで30年を切った天保年間でした。 熊本城は江戸時代を通じて築城が続けられた城なのです。
明治時代以降の熊本城
明治時代になると、熊本は実学党と呼ばれる勢力が実権を握り、前世紀の遺物として熊本城は政府に解体を願い入れられます。 しかし、藩知事や前藩知事の間で意見が割れ解体作業当日になって作業は中止され、場内は広く市民にいっぱい公開されることになりました。 なお、全国の城がそうだったように熊本城も明治初期から教導学校など陸軍の施設や医療施設などが敷地内に建設されています。 明治9年(1876年)神風連の乱がおきたときは、反乱士族たちが鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を乗っ取りましたが、1日で鎮圧されています。
明治10年(1877年)の勃発した西南戦争では、熊本城は明治政府の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となりました。 西南戦争では、大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓などの多くの建物が消失しています。 しかし、新政府軍は結局4000人の兵士で籠城し、西郷隆盛率いる1400人の反乱軍の猛攻を耐え抜きました。 特に、加藤清正が築いた「武者返し」が大いに効力を発揮し、西郷軍は誰一人場内に入ることはできなかったといいます。このとき、西郷隆盛が「自分は明治政府の軍隊に負けたのではなく、加藤清正に負けたのだ」と言ったという説は有名です。
昭和8年(1933年)現存する熊本城の建物群が旧国宝に指定されます。宇土櫓、監物櫓などが該当しました。
昭和20年(1945年)に発生した熊本大空襲でも熊本城の建物は耐え抜き、終戦を迎えます。
昭和30年(1955年)「熊本城跡」として国の特別史跡に認定されます。
昭和35年(1960年)熊本国体開催と築城350年を機に、熊本市は一般からの寄付を募り、1億8000万円の費用をかけて外観復元に取り組み、大小天守と平櫓、塀などを再建しました。 天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等を展示するようになっていました。
平成18年(2006年)日本の城100選に選ばれます。
平成28年(2016年)熊本地震が発生し、石垣、長堀、大小天守閣など多数の建物が被害を受けました。
令和3年(2021年)5年の月日をかけて長堀と天守閣の修理が完成します。このとき、天守閣の内部にはエレベーターが設置され、より利用しやすくなりました。

熊本城と関連する事件を読む

西南戦争士族最後の戦い、西郷隆盛VS政府
明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結した後、新政府(明治政府)は改革を次々と進めていきます。そんななか、士族たちが西郷隆盛を旗印に起こした反乱が、明治10年(1877年)2月15日から9月24日にか
文禄の役秀吉の朝鮮出兵・前編
織田信長の後を継ぎ、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条家を滅ぼし、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。次は海外だ!とばかりに中国(当時の明)の征服をめざし、その足掛かりに朝鮮(李氏朝鮮)に出兵します
慶長の役秀吉の死で終わった朝鮮出兵・後編
天下統一後に中国(当時の明)を征服するために李氏朝鮮(現北朝鮮・韓国)に出兵した豊臣秀吉。天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの「文禄の役」の後、再び朝鮮を攻めたのが慶長2年(159

熊本城と関連する人物記を読む

細川忠利ガラシャの息子
戦国時代、織田信長を本能寺の変で自害に追い込んだのが明智光秀でした。光秀には玉(ガラシャ)という娘がいます。玉は細川忠興の妻となり、二人の間には幾人かの子供が出来ました。ところが玉も関ヶ原の戦いの直前
細川忠興秀吉子飼いの七将
戦いに明け暮れた戦国時代、そんな荒れた時代にも文化の華は大きく咲きました。茶の湯や連歌です。戦国の世で文化を育みながら、室町幕府から織田・豊臣・徳川に仕えた大名が細川忠興です。忠興は細川藤孝の子として
加藤清正賤ヶ岳の七本槍
戦国時代、多くの有力武将を生み出した地が尾張・三河(今の愛知県)界隈でした。三英傑と呼ばれた織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、前田利家など多くの歴史に名を残した戦国武将がいます。加藤清正もそのひと

熊本城を藩庁とする、熊本藩の歴史

熊本藩加藤家と細川家が治める
熊本藩は「肥後藩」とも呼ばれ、球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国の一部を治めた藩です。藩庁は熊本城であり、「築城の名手」と呼ばれた加藤清正を祖とする加藤家と細川家によって治められました。そんな熊本藩の歴
熊本藩DATA
藩庁 熊本城
旧地域 肥後国飽田郡熊本
石高 54万石
譜代・外様 外様
主な藩主 加藤家、細川家
推定人口 64万8277人(文政11年)

熊本城、加藤清正の築いた難攻不落の城

熊本県熊本市の熊本城は、加藤清正が築いた天下の名城として知られるお城です。日本三名城で「武者返し」と呼ばれる強固な石垣が有名ですが、2016年の熊本地震により石垣が崩落し、復元天守や重要文化財建造物13棟、石垣などが大きな被害を受けました。2024年現在も修復が続いています。

熊本城
熊本城の歴史
熊本城は15世紀、九州の豪族・菊池一族の出口秀信が茶臼山に築いた「千葉城」がもとになっています。のちに鹿子木氏が茶臼山の西に隈本城を築きました。天正16年(1588年)には加藤清正が肥後25万石の領主として入城。天正18年(1590年)から隈本城の改修を始め、慶長3年(1599年)には千葉城や隈本城を吸収するような形で新たな「熊本城」の築城を開始します。
清正は朝鮮出兵の経験を活かし、堅固な城にしようと、高石垣を幾重にも巡らせて通路を折り曲げ、大天守、小天守、複数の大型櫓を設けた巨大な城を築城しました。完成したのは慶長12年(1607年)で、このころ隈本の名を熊本と改めています。
このまま加藤家が熊本を支配するかと思いきや、寛永9年(1632年)に加藤家は謀反の疑いで改易となり、代わって豊前小倉城の城主だった細川忠利が肥後へ入国。以降は明治まで細川氏が同地を治めました。
明治10年(1877年)の西南戦争の際は政府軍が熊本城に籠城し、西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻に耐え抜いたことから、熊本城は「難攻不落の城」としても知られています。隆盛は敗れた際、「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」とつぶやいたそうです。ただし、西南戦争により天守や本丸御殿などは焼失しています。
天守は昭和35年(1960年)、鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建されました。ところが2016年に熊本地震が起こり、天守の屋根瓦が大きく崩れるなどの被害にあいました。加えて13棟の重要文化財や石垣なども被害を受けており、例えば重要文化財の東十八間櫓は全壊しています。石垣は崩落したり膨らんだりするなど、全体の約3割が被害にあい、約1割にあたる50か所が崩落しました。
熊本市はすぐさま城の復興に取りかかり、国内外から多くの寄付も集まりました。「復興のシンボル」として最初に復興に着手した天守は2021年3月に完全復旧。他の被災した建物や石垣などについては2037年をめどに修復工事が完了する見込みです。
熊本城の見どころ①復興された天守
熊本城の現在の天守は昭和35年(1960年)に復元されたものです。大天守と小天守からなる連結式で、大天守は3重6階地下1階、小天守は2重4階地下1階。四面の千鳥破風、最上階の唐破風が見どころです。また、小天守には忍び返しが設けられています。
天守は熊本地震からの復興をとげ、2021年6月から内部の公開を再開しており、内部の展示も刷新されました。隈本城時代からの城の歴史等に関する情報が、史料や映像、模型などを使ってわかりやすく展示されています。最上階の展望台からの景色は美しく、熊本の市街地に阿蘇の山々を一望できます。また、エントランスの小天守の地階にある、石垣や井戸などの現存遺構も要チェックです。
熊本城の見どころ1 熊本城の見どころ2 熊本城の見どころ3
熊本城の見どころ②特別見学通路
熊本城の本丸は復旧作業中ですが、2020年6月から高さ約6m、長さ約350mの空中回廊「特別見学通路」がオープンしています。かなりの高い視点から櫓や石垣を見下ろせる体験はなかなかできませんよ。北ルートと南ルートがあり、現在北ルートは原則土日のみの公開です。
2042年頃までの限定公開で、復興工事の状況により、櫓の限定公開などもされています。2024年は解体保存工事中の宇土櫓素屋根内部が見学可能です。
宇土櫓は重要文化財に指定された櫓で、本丸西北側にあり、北ルートで外観を見学できます。3重5階地下1階の大きさから「第三の天守」と呼ばれ、築城当時の面影を残していましたが、地震の被害で解体復旧工事が決定しました。
熊本城の見どころ4 熊本城の見どころ5 熊本城の見どころ6
熊本城の見どころ③優美な武者返しをはじめとした石垣
熊本城の石垣は独特の曲線が有名です。「武者返し」と呼ばれる石垣は下は緩やかですが、上に向かうほど反っており、敵が登れないようになっていることからその名がつけられました。扇のようなシルエットから「扇の勾配」とも呼ばれています。
なかでも有名なのは本丸上段の西側にある「二様の石垣」。反りや積み方が明らかに違う2つの石垣が連なっている姿が見える場所で、右側のものが加藤清正時代、左側の新しいものが息子の加藤忠弘、または細川時代のものだと推定されています(※諸説あり)。特別見学通路からその姿を拝めますよ。
熊本城の見どころ7 熊本城の見どころ8 熊本城の見どころ9
熊本城の見どころ④本丸御殿
熊本城には2008年に再建された本丸御殿があり、狩野派が中国前漢時代の美女・王昭君の物語を描いた「昭君之間」をはじめ、豪華絢爛な内装が特徴的です。
以前は内部見学が可能でしたが、地震の被害で2024年現在内部には入れない状態です。とはいえ、本丸御殿床下にある地下通路「闇り通路」は見学可能。全国的に大変珍しい通路なので必ず通りましょう。
おすすめ撮影スポット
復興工事中の熊本城のおすすめ撮影スポットといえば、特別見学通路の「二様の石垣」前です。天守と石垣を望める場所で、写真撮影用に通路が広くなっています。また、加藤清正を祀った加藤神社からの天守も絶景です。遠景を撮影する場合は熊本市役所の14階展望ロビーからがおすすめですよ。
熊本城の見どころ10 熊本城の見どころ11 熊本城の見どころ12
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。