石垣の変遷、野面積から切込接へ城郭石垣を支えた全国の石工と石材産地

日本の旅侍編集部
[執筆者] (メディア)
全国の石工集団とは
  • 穴太衆以外にも、全国各地に優れた石工集団が存在した
  • 和泉・泉州、瀬戸内、伊豆、肥後などでは、石材加工や採石、運搬、石造技術が発達した
  • 打込接・切込接の普及により、石を精密に切り出し加工する技術の重要性が高まった
  • 近世城郭の石垣は、各地の石工・石材産地・物流網によって支えられていた

日本の城郭石垣は、穴太衆だけで築かれたものではない。和泉・泉州、瀬戸内、伊豆、肥後など、各地には石を切り出し、加工し、運び、積む技術を持つ石工たちがいた。野面積みの時代には自然石を読む技術が重視され、打込接・切込接の時代には採石や精密加工の技術が重要となった。石垣の発展は、全国のローカル石工たちが支えた技術の積み重ねでもある。

石垣の時代を支えた、全国の石工たち

石垣の職人集団と聞くと、まず名前が挙がるのは穴太衆です。

自然石を活かした野面積み。
石の重心を読み、排水を考え、崩れにくい石垣を築く技術。
その存在は、戦国から近世へ向かう城づくりを語るうえで欠かせません。

しかし、日本の石垣は穴太衆だけで築かれたわけではありません。

城の石垣が全国へ広がるにつれ、必要とされる技術も変わっていきました。

  • 石を積む技術
  • 石を切り出す技術
  • 石を加工する技術
  • 石を運ぶ技術

とくに江戸時代に入り、打込接や切込接のような精密な石垣が増えていくと、「自然石をどう積むか」だけでなく、「どこから良い石を出し、どう割り、どう加工するか」が重要になります。

つまり石垣の歴史は、穴太衆という一つの職人集団の物語ではなく、各地の石材産地とローカル石工たちが支えた巨大な技術ネットワークの物語でもあるのです。

石を積む人、切る人、運ぶ人、石垣は“分業”でできていた

石垣は、現場で石を積むだけでは完成しません。

  1. まず石を探す
  2. 山や島から切り出す
  3. 大きさを揃える
  4. 必要に応じて加工する
  5. 川や海を使って運ぶ
  6. そして最後に、城の現場で積み上げる

この流れの中には、いくつもの専門技術がありました。

穴太衆は、自然石を積む技術で強い存在感を持ちました。けれど、野面積みのすべてが穴太衆の仕事だったわけではなく、穴太衆以外の石工集団も野面積みを行っていた点には注意が必要です。

つまり、石垣を考えるときは、

「誰が積んだのか」だけでなく「どこの石を、誰が切り出し、どう運び、誰が仕上げたのか」まで見る必要があります。

そこに、穴太衆以外の石工たちの存在が見えてきます。

和泉・泉州石工、石を“形にする”職人たち

大阪府南部、現在の阪南市域周辺には、古くから石を扱う職人たちがいました。

江戸時代の『和泉名所図会』には、和泉石はきめが細かく、さまざまなものを作るのに適していること、鳥取荘・箱作周辺に石工が多くいたことが記されています。また阪南市の解説では、江戸時代の阪南市域周辺の石工は腕がよく、北は仙台、南は甑島まで出向いて作品を作り、「泉州石工」と呼ばれたとされています。

ここで重要なのは、彼らの強みが「積む」だけではなかったことです。

  • 石を切る
  • 石を削る
  • 石を形にする
  • 石造物として仕上げる

これは、城郭石垣がより精密になっていく時代に欠かせない技術です。

野面積みの時代には、石の自然な形をどう噛み合わせるかが重要でした。
しかし切込接の時代になると、石を意図した形に加工する力が求められます。

和泉・泉州の石工たちは、そうした「石を加工する職能」の厚みを示す存在です。

城の石垣だけを見ていると、つい現場で積む職人だけに注目してしまいます。
しかし、精密な石垣の背後には、石材を整え、使える形にする職人たちの技術がありました。

瀬戸内の石工と“石の島”、巨石を切り出す技術が、城を巨大化させた

石垣の時代が進むと、石そのものの供給力が大きな意味を持ちます。

とくに瀬戸内海沿岸や島々は、花崗岩の産地として重要でした。

小豆島には、大坂城石垣石切丁場跡が残ります。小豆島観光協会の解説によれば、天狗岩・豆腐石・亀崎・南谷・八人石の5か所の丁場跡が残り、採石途中の矢孔跡を持つ巨石などが多数確認されています。昭和53年の調査では総計1612個の石が数えられ、刻印も確認されています。

ここに見えているのは、石垣の“前工程”です。

石垣は、城の現場だけで生まれるのではありません。

  • 島で石を見つける
  • 矢穴を入れる
  • 割る
  • 刻印をつける
  • 海を越えて運ぶ

この採石と運搬の技術があって、はじめて大坂城のような巨大石垣が成立しました。

同じく瀬戸内では、岡山県の北木島も重要な石材産地です。岡山県教育委員会の資料では、北木島で採掘される花崗岩「北木石」が、徳川幕府再築の大坂城石垣などに使用されたと紹介されています。

つまり瀬戸内の石工たちは、「石垣を積む職人」というより、「石垣に使える巨大石を生み出す職人」として、近世城郭を支えていたのです。

伊豆の石切職人、江戸城を支えた“石丁場”のロジック

東日本で忘れてはいけないのが、伊豆です。

江戸城の石垣には、大量の石材が必要でした。
その供給地の一つが、伊豆半島とその周辺です。

静岡県の文化財解説では、江戸城石垣石丁場は、江戸幕府が諸大名を動員して行った江戸城改修のため、石垣用石材を採石・加工した石丁場であると説明されています。さらに、江戸城石垣に用いる石材の大多数は、伊豆半島とその周辺から広く産出する硬質の安山岩だったとされています。

熱海市の中張窪石丁場跡では、石を割るための矢穴石や、刻印石を見ることができます。熱海市では30か所の石丁場跡が確認され、そのうち中張窪・瘤木石丁場跡は保存状態がよく、国指定史跡となっています。

ここでも重要なのは、城から離れた場所に“城づくりの現場”があったことです。

江戸城の石垣を見上げると、私たちは江戸の中心を見ているように感じます。
しかしその石は、伊豆の山で切り出され、加工され、運ばれてきたものです。

石垣とは、城下町だけの建築ではありません。
山と海と大名普請を結びつけた、巨大な物流システムの成果でもありました。

肥後・九州の石工、城の石垣から、石橋の構造美へ

九州にも、優れた石工たちの伝統があります。

熊本といえば、加藤清正の熊本城に代表される高石垣や武者返しが有名です。
一方で、江戸時代後期から明治時代にかけては、石造アーチ橋の分野で名工たちが活躍しました。

その代表が、肥後の種山石工です。

熊本の観光資料では、橋本勘五郎を「数々の名橋を築いた石工一門」として紹介し、種山石工を江戸末期から明治中期にかけて活躍した眼鏡橋の先端技術集団と説明しています。橋本勘五郎は、通潤橋や霊台橋などに関わった名石工として知られます。

ここで注意したいのは、城郭石垣の石工と石橋の石工を、そのまま一直線につなげすぎないことです。

ただし、共通する思想はあります。

  • 石の重さを読む
  • 荷重を分散する
  • 崩れない形を考える
  • 水と地形に向き合う

これは城の石垣にも、石造アーチ橋にも通じる技術です。

九州の石工たちは、城の時代が落ち着いた後、石の技術を橋や水路へ展開していった存在として見ると、非常に面白い。

戦うための石から、暮らしを支える石へ。

そこに、石工技術のもう一つの進化が見えてきます。

技術の主役は、時代によって変わる

穴太衆が重要であることは間違いありません。

しかし、石垣の歴史を穴太衆だけで語ると、見落としてしまうものがあります。

野面積みの時代には、自然石の重心を読む技術が強かった。
打込接・切込接の時代には、石を切り、加工し、規格化する技術が重要になった。
天下普請の時代には、採石地・海運・丁場管理まで含めた巨大な供給網が必要になった。

つまり、石垣の主役は一つではありません。

  • 近江の穴太衆
  • 和泉・泉州の石工
  • 瀬戸内の石切職人
  • 伊豆の石丁場
  • 肥後・九州の石工たち

それぞれが、違う時代、違う土地、違う目的の中で、石と向き合っていました。

石垣は、全国の技術が積み上がったもの

石垣は、城主の権力だけで築かれたものではありません。

  • そこには、石を見つける人がいた
  • 石を割る人がいた
  • 石を削る人がいた
  • 石を運ぶ人がいた
  • 石を積む人がいた

そのすべてが重なって、巨大な城郭石垣は成立しました。

穴太衆は、その中でも象徴的な存在です。
しかし、石垣の全国化を本当に支えたのは、各地にいた無数のローカル石工たちでした。

石垣を見るということは、城を見るだけではありません。

その石が生まれた山を見ること。
その石を運んだ海を見ること。
その石に鑿を入れた職人を見ること。

そこまで想像したとき、石垣はただの壁ではなくなります。

それは、日本各地の技術と労働が積み上がった、もう一つの歴史なのです。

参考文献・出典
記事カテゴリ
石垣のロジック
場所
愛知県・香川県・大阪府・東京都・熊本県
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