人吉城熊本県人吉市

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  • 相良氏が約700年にわたり本拠とした城
  • 球磨川と胸川を天然の堀とした人吉藩の城
  • 武者返しの石垣と地下室遺構が見どころ

人吉城とは、熊本県人吉市にある中世から近世にかけての城跡である。鎌倉時代に相良氏が人吉荘へ入り、以後、相良氏が幕末まで人吉・球磨地域を治めた。城は球磨川と胸川を天然の堀として利用し、山麓から丘陵部にかけて曲輪を配置した。江戸時代には人吉藩の政庁として整備され、石垣や門、櫓を備える近世城郭となった。現在は国指定史跡として保存され、石垣、堀合門跡、御下門跡、二の丸跡、三の丸跡、水ノ手門跡、武者返しの石垣、人吉城歴史館などを見学できる。

人吉城の特長
目的 相良氏の本拠、人吉藩の政庁、球磨川流域の支配拠点、人吉城下町形成の中心
特長 相良氏、球磨川、胸川、武者返し、石垣、水ノ手門、二の丸、三の丸、地下室遺構、人吉城歴史館、日本100名城
他の城との違い ・相良氏が鎌倉時代から幕末まで長く治めた城である
・球磨川と胸川を天然の堀として利用した水辺の城である
・石垣上部に「武者返し」と呼ばれる跳ね出し石垣を持つ点が大きな特徴である
人吉城の石垣・土塁
石垣 現存・復元整備
土塁 一部現存
種類 野面積、打込接、切込接、武者返し、石垣、虎口、曲輪、水堀、平山城
石材 自然石、割石など
特長 人吉城の石垣で特に有名なのが、水ノ手門付近に残る「武者返し」である。石垣上部に石を張り出すように積んだ構造で、敵が石垣を登ることを防ぐための防御施設とされる。球磨川・胸川を天然の堀とし、その内側に石垣と曲輪を重ねることで、人吉城は水辺の防御性を高めていた。江戸時代の改修により石垣を備えた近世城郭となったが、相良氏の長い支配を反映し、中世城郭から近世城郭へ移り変わる過程も読み取れる。石垣だけでなく、川・曲輪・虎口をあわせて見るのが人吉城の本質である。
人吉城DATA
別称 繊月城、三日月城
所在地 熊本県人吉市
築城 鎌倉時代初期
築城者 相良長頼と伝わる
住所 熊本県人吉市麓町周辺
開館時間 人吉城跡は見学自由。人吉城歴史館は9時~17時。入館は16時30分まで
休館日 人吉城跡はなし。人吉城歴史館は火曜日、祝日の場合は翌日、12月29日~1月3日
観覧料 人吉城跡は無料。人吉城歴史館は個人330円、20人以上の団体は1人220円、高校生以下無料
備考 人吉城跡は国指定史跡で、日本100名城にも選定されている。人吉城歴史館は令和2年7月豪雨により休館していたが、令和7年(2025)7月11日にリニューアルオープンした。館内には人吉城跡を総合的に理解する展示のほか、全国的にも類例の少ない井戸を備えた石造りの地下室遺構がある。日本100名城スタンプは人吉城歴史館で押印でき、休館日も押印可能と案内されている。
人吉城への交通アクセス
JR「人吉」駅からバス約4分、徒歩7分
※人吉駅は現在休業中

HISTORY 西南戦争の舞台にもなった人吉城

人吉城は、熊本県人吉市麓町にある城跡です。現在も残っているのは石垣の一部のみですが、西南戦争では西郷隆盛が陣を張るなど、歴史的な出来事の舞台にもなりました。現在は、桜や紅葉の名所としても知られています。そんな人吉城の歴史を紐解いていきましょう。

人吉城の歴史
鎌倉時代初期 相良長頼が人吉荘へ入り、人吉城の基礎を築いたと伝わる
中世 相良氏が人吉・球磨地域を本拠として勢力を保つ
戦国時代 相良氏が球磨川流域を中心に勢力を維持し、人吉城を本拠とする
1587年 豊臣秀吉の九州平定後、相良氏が人吉・球磨地域の所領を安堵される
1600年 関ヶ原の戦い後、相良氏が人吉藩主として存続する
江戸時代前期 人吉城が石垣や門、櫓を備える近世城郭として整備される
江戸時代 相良氏が代々人吉藩を治め、人吉城が藩政の中心となる
1862年 寅助火事と呼ばれる大火により、人吉城内外の多くの建物が被害を受ける
1871年 廃藩置県により人吉藩が廃止され、人吉城は城としての役割を終える
1877年 西南戦争で人吉城跡周辺が西郷軍の拠点となり、戦火を受ける
1961年 人吉城跡が国の史跡に指定される
1989年 隅櫓が復元される
1993年 大手門脇多聞櫓などが復元される
2006年 日本100名城に選定される
2020年 令和2年7月豪雨により人吉城歴史館が被災し、休館する
2025年 人吉城歴史館がリニューアルオープンする
江戸時代までの人吉城
人吉城の前身は、源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼という人物が、平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑という人物を謀殺し、領地と城を奪い取り、自ら拡張した城です。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土したため、人吉城は「三日月城」「繊月城」といった別名を持つようになりました。
相良氏は、鎌倉時代が終り室町時代になってもこの地を治め続け、戦国時代になると磨地方を統一しました。300年以上の長きにわたり、1つの家が同じ土地を支配し続けるのは非常に珍しいことです。その間、人吉城も改築を繰り返し、19代目当主の相良義陽により、天正年間から大改修がスタートしました。この大改修は事情があるごとに中断されながら、22代当主の相良頼寛が寛永16年(1623年)にようやく完了します。 一方、相良家は天正9年(1581年)に九州の覇権を握った島津氏に服従して臣下となりました。6年後の天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際は20代目当主の相良頼房が奮戦しますが敗北、その後、家臣の深水長智が豊臣秀吉の交渉によって領土を安堵されます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは一端は西軍につくものの、石田三成が劣勢になると東軍に内応し、徳川家康に2万2千石の領地を安堵されました。こうして相良氏は大名となったのです。
江戸時代の人吉城
江戸時代、人吉城は人吉藩の藩庁として機能しました。22代当主の相良頼寛の時代、寛永16年(1623年)に19代目当主から続いた人吉城の大改修が完了します。日本三大急流の一つといわれる球磨川とその支流である支流の胸川を天然の堀とし、多くの船着き場を設けて水運を活用しているのが、特徴でした。天守閣は築かれず、代わりに護摩堂があったと記録に残されています、
しかし、文久2年(1862年)に「寅助火事」と呼ばれる大火が起こり、城の建物大半と城下町の大部分が消失します。その後、再建された石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である「槹出工法」が用いられた「武者返し」が作られました。武者返しは、城壁越えを防ぎ、攻めてきた人間を簡単に落下させられるネズミ返しのような設備です。この武者返しがついている城壁はほかに、函館の五稜郭と龍岡城のみで、規模としては人吉城が最大です。
明治以降の人吉城
明治になり、人吉城は廃藩置県によって廃城となります。その後、明治10年(1877年)に起こった西南戦争で西郷隆盛率いる軍の陣地になったため、幕末に再建された建物を含め、すべて御殿や櫓などは全焼してしまいました。しかし、堀合門だけが唯一残り、市内の民家に移築されて現存しています。 その後、城跡は人吉城公園として整備されて国の史跡に指定されます。
平成になると隅櫓・大手門・脇多聞櫓・続塀が復元され、人吉城歴史館が開館します。歴史観には石造り地下室の遺構が保存されています。
平成18年(2006年)に日本100名城にも指定されましたが、令和2年(2020年)の豪雨災害により城址が大被害を受け、長らく復旧のために立ち入りが制限されていましたが、令和5年(2023年)には大部分が復旧しました。ただし、多門櫓・角櫓は現在も立ち入り禁止です。
まとめ
人吉城は日本の城の中では大変珍しく、相良氏が鎌倉時代より改修に改修を重ねて現在まで残っている遺構です。近世城址ですが、中世の城址の面影も残っており、日本の城郭の歴史を感じられます。春は桜の名所として知られており、城址からは人??市内が一望できる観光名所です。なお、立ち入り禁止区域は随時人吉市の公式ホームページで告知されているので、訪れる際は確認してください。

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人吉城を藩庁とする、人吉藩の歴史

人吉藩お家騒動が多い
人吉藩とは 人吉藩とは、熊本県南部の球磨地方にあった藩であり、人吉城を関係する城とした藩である。 藩名は人吉藩で、1585年から1871年まで続き、開藩から明治維新まで相良家が藩主を務めた藩である。
人吉藩DATA
藩庁 人吉城
旧地域 肥後国球磨郡人吉村
石高 2万2000石
譜代・外様 外様
主な藩主 相良家
推定人口 5万4000人(明治元年)