HISTORY
築城の名手加藤清正が築いた熊本城
熊本城は、慶長12年(1607年)現在の熊本県熊本市中央区にある茶臼山丘陵一帯に建てられた平城です。築城の名手と名高い加藤清正によって築かれました。平成28年(2016年)に熊本地震で大きな被害を受けましたが、令和3年(2021年)にようやく天守閣復旧工事が終了し、往年の姿を取り戻します。そんな熊本城の歴史を紐解いていきましょう。
- 熊本城築城以前
- 熊本城が築かれている場所には、室町時代、文明年間(1469年 ~1487年)に肥後国の守護であった菊池氏の一族、出田秀信という人物が千葉城という城を築いていたと伝えられています。
16世紀にはいると出田氏の力が衰えると、大永・享禄年間(1521年 ~ 1531年)に菊池氏、大友氏の家臣であった鹿子木親員という人物が、千葉城のあった場所に隈本城を築きました。その後、隈本城には菊池義武などが入ります。
- 熊本城築城
- 天正15年(1587年)豊臣秀吉が九州平定を行った際、隈本城には島津氏に味方をしていた城氏、という一族が入っていました。城氏は豊臣秀吉に対し素直に城を明け渡し、変わりに肥後の国を与えられた佐々成正が城に入ります。
佐々成正は、秀吉の命令に逆らって検地を強行したために肥後の国人が一揆をおこし、隈元城も苛烈な攻めを受けました。
しかし、城台となった神保氏張の奮闘により落城は免れます。佐々成正は一揆の責任を取って切腹させられ、肥後北半国19万5,000石は、加藤清正に与えられました。
肥後国に入った加藤清正は、天正19年(1591年)~茶臼山丘陵一帯に熊本城を建築し始めます。
慶長5年(1600年)には天守閣が完成し、慶長11年(1606年)には城の完成を祝って地名を隈本から熊本へ改めたという記録が残っています。
また、慶長15年(1615年)から本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が始まります。
加藤清正は、藤堂高虎と並んで「築城の名手」と呼ばれていますが、これは、熊本城建築の際に組んだ石垣の見事さが由来という説があります。
熊本城の石垣は上に行くほど勾配がきつくなる造りで、「扇の勾配」とも、忍者すら登れそうにないところから「武者返し」とも呼ばれているものです。
明治になったとき、熊本城の建物はほぼ取り壊されましたが、この石垣だけは残りました。
平成28年(2016年)に発生した熊本地震では被害を活けましたが、職人たちの手によって現在は復旧しています。
熊本城は籠城を考えて作られており、場内には多数の井戸があり、堀にはレンコンが植えられました。
築城主の加藤清正によって植えられた銀杏も、「籠城した際の食料にしようと思って植えた」という説がありますが、オスの銀杏なので実はつけないため、現在はこの説は否定されています。
熊本城の別名は銀杏城ですが、それは、加藤清正が植えたこの銀杏に由来します。
- 築城後の熊本城
- 肥後の領主となった加藤清正ですが、その子供加藤忠広の代で改易されてしまいます。
後を継いで肥後を治めたのは豊前小倉城主だった細川忠利でした。
細川忠利は、城の長塀の南、坪井川を渡った所に「花畑屋敷」と呼ばれる住居を造り、以後藩主たちはそこを生活の場にしたといわれています。
加藤清正の死後、熊本城は藩財政の疲弊や御家騒動などで修理もままならないまま放っておかれたため、本丸周辺以外はほぼ未開の状態でした。
細川忠利は、熊本城の修繕を江戸幕府に申し出て、本丸の増築や二の丸の整備を行っています。
さらに、細川家は上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として三の丸や壺川地域の開発を進め、最後の築城が終わったのは明治時代まで30年を切った天保年間でした。
熊本城は江戸時代を通じて築城が続けられた城なのです。
- 明治時代以降の熊本城
- 明治時代になると、熊本は実学党と呼ばれる勢力が実権を握り、前世紀の遺物として熊本城は政府に解体を願い入れられます。
しかし、藩知事や前藩知事の間で意見が割れ解体作業当日になって作業は中止され、場内は広く市民にいっぱい公開されることになりました。
なお、全国の城がそうだったように熊本城も明治初期から教導学校など陸軍の施設や医療施設などが敷地内に建設されています。
明治9年(1876年)神風連の乱がおきたときは、反乱士族たちが鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を乗っ取りましたが、1日で鎮圧されています。
明治10年(1877年)の勃発した西南戦争では、熊本城は明治政府の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となりました。
西南戦争では、大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓などの多くの建物が消失しています。
しかし、新政府軍は結局4000人の兵士で籠城し、西郷隆盛率いる1400人の反乱軍の猛攻を耐え抜きました。
特に、加藤清正が築いた「武者返し」が大いに効力を発揮し、西郷軍は誰一人場内に入ることはできなかったといいます。このとき、西郷隆盛が「自分は明治政府の軍隊に負けたのではなく、加藤清正に負けたのだ」と言ったという説は有名です。
昭和8年(1933年)現存する熊本城の建物群が旧国宝に指定されます。宇土櫓、監物櫓などが該当しました。
昭和20年(1945年)に発生した熊本大空襲でも熊本城の建物は耐え抜き、終戦を迎えます。
昭和30年(1955年)「熊本城跡」として国の特別史跡に認定されます。
昭和35年(1960年)熊本国体開催と築城350年を機に、熊本市は一般からの寄付を募り、1億8000万円の費用をかけて外観復元に取り組み、大小天守と平櫓、塀などを再建しました。
天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等を展示するようになっていました。
平成18年(2006年)日本の城100選に選ばれます。
平成28年(2016年)熊本地震が発生し、石垣、長堀、大小天守閣など多数の建物が被害を受けました。
令和3年(2021年)5年の月日をかけて長堀と天守閣の修理が完成します。このとき、天守閣の内部にはエレベーターが設置され、より利用しやすくなりました。